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パンデモニウム・リベリオン  作者: 鎌竹のぶみ


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33/37

Ver.1 JUGGERNAUT Chapter 3-1 データスティール

 翌日。アーシュラ侯爵領の闘技場は、朝から異様な熱気に包まれていた。


 石造りの観客席は、幾重にも人で埋め尽くされている。売り子たちの声、鳴り物の音、押し合いへし合いする観衆のざわめき――そのすべてが混ざり合い、一つの巨大な生き物のような唸りを上げていた。武を尊ぶこの土地の民にとって、大侯爵を迎えての武闘会は、またとない祭りだった。


 その最上段、闘技場の中央を見下ろす貴賓室には、豪奢な椅子が並べられている。壁も柱も、この魔界でもなお稀少とされる、暗く鈍い輝きを放つ石――アビスタイトと呼ばれる、恐ろしく硬質な鉱石で組まれていた。魔界の深淵、大魔王直轄の坑道でしか採れぬこの鉱石は、魔力を浴びるほどに硬度を増すという特異な性質を持つ。並のことでは傷一つつかぬというその石は、アーシュラ家の武威と財力を、同時に物語っていた。


 貴賓室には、オルディアス、リゼル、カルガ、そしてマヒーシャの4人が席についていた。メアは、その一歩後ろに控え、給仕として立ち回っている。


「オルディアス閣下。今大会には、我が家の子らのほかにも、我がアーシュラに名の通った猛者が幾人か参じております」


 カルガが、上機嫌に杯を傾けながら、そう切り出した。


「ほう。それは楽しみだ」


 オルディアスも、珍しく、くつろいだ表情を見せていた。


「ですが、閣下。やはり、我が子らの手並みを、じっくりとご覧いただきたいものです。……ルドラの方は、力任せに見えて、実のところ、6本の腕それぞれに、違う役割を持たせております。2本は防御、2本は牽制、そして残る2本を、決定打のために温存する。あれを、瞬時の判断でやってのける」


「あなた」


 そこで、マヒーシャが、やんわりと口を挟んだ。


「ルドラのことばかり熱心にお話しになって。ディの方も、ちゃんと自慢なさいませ」


 その一言に、カルガは、ばつが悪そうに笑った。


「はっはっはっ、そうだそうだ。……閣下、実は、我が娘のドゥルガーの戦い方も、なかなかのものにございます。あちらは、逆に、速度を殺さぬ戦い方を得意としております。三日月剣の二刀を、止めることなく振るい続け、相手に息をつく間すら与えない。加えて、アビスタイトの拳甲による打撃を、剣戟の合間に織り交ぜる」


「なるほど。2人とも、それぞれの型を、しっかりと確立しているというわけか」


 オルディアスが、感心したように頷いた。


「左様にございます。……して、リゼル嬢は、いかがお考えか」


 不意に話を振られ、リゼルは、静かに微笑んだ。


「畏れながら、お二方の戦い方には、明確な違いがあるかと存じます。ルドラ殿は、6本の腕を『役割分担』として扱っておられる。一方、ドゥルガー様は、4本の腕を『速度の連続性』として扱っておられる。……つまり、一方は多腕を空間の制圧に、もう一方は多腕を時間の制圧に使っている、と申せましょう」


 その分析に、カルガは、思わず唸った。


「……恐れ入りました。4歳の御方に、そこまで見抜かれるとは」


   *   *   *


 その後、酒が進むにつれ、談笑はさらに和やかになっていった。メアが淀みなく応じてみせる家史の問答に、カルガとマヒーシャは何度も目を見張り、オルディアスは、娘がどこまで侍女に詰め込ませたのかと、内心で複雑な思いを噛み締めていた。


「さて」


 カルガが、場の空気を切り替えるように、明るく声を上げた。


「そろそろ、大会の方も、佳境に差し掛かって参りましょう」


   *   *   *


 闘技場では、次々と、試合が繰り広げられていた。


「次、ルドラ・ザン・アーシュラ、対、鉄壁のゴルダン!」


 呼び出しの声と共に、対戦相手――巨躯の闘士が、盾を構えて躍り出る。リゼルは、その巨躯へ、何気なく視線を向けた。赤い瞳の奥に、見慣れた黒紫の文字列が、静かに浮かび上がる。


――――――――――――――――――

名前:ゴルダン

種族:オーク族

身分:傭兵団所属・盾持ち

年齢:34歳

レベル:480

生命力:9800

魔力量:410

筋力:1200

耐久:2600

敏捷:380

知力:210

精神:640

統率:310

政治:50

礼法:90

忠誠適性:所属傭兵団に対し中程度

主要適性:盾防御/持久戦/防御反撃

危険度評価:中(防御特化)

敵対意志:なし

備考:耐久値に極端に特化した戦い方を得意とする。攻撃力・敏捷性は平凡だが、盾を用いた守りの堅さは、これまでの対戦相手をことごとく退けてきた実績を持つ。

――――――――――――――――――


(レベル480か。ルドラの相手としては論外だな……だが、この耐久値の高さと盾防御の適性は、侮れないかもしれない)


 審判の合図と共に、ゴルダンが、大盾を構え、じりじりと間合いを詰めてくる。だが、ルドラは、その駆け引きに、付き合うつもりなど、微塵もなかった。無言のまま、地を蹴る。


 6本の腕のうち、2本が、稲妻の速さで盾へと殺到した。ダン、ダン、ダンッ――金属同士がぶつかる乾いた音が、3連続で響く。盾に意識を集中させたその一瞬――ルドラの残る4本の腕が、盾の外側へと大きく回り込んだ。左右から、そして上下から。ゴルダンの視界の外側を、同時に襲う4つの拳。


「がっ――!?」


 脇腹を抉られ、顎を掬い上げられ、ゴルダンの巨躯が、宙に浮いた。そのまま、砂煙を上げて、地に沈む。


「勝者、ルドラ・ザン・アーシュラ!」


 割れんばかりの歓声の中、ルドラは、こびりついた砂を払い落とし、無言のまま、控えの位置へと戻っていった。


「さすがはルドラ殿。並外れた御力量にございますね」


 リゼルが、そっと呟く。


「あの盾は、並の攻撃なら、全て弾き返すと評判の代物にございました。それを、防御そのものを崩すのではなく、防御に気を取られた隙を、正確に突く。力押しだけの戦い方ではございません」


「おお、よくご覧になっている」


 カルガが、感心したように頷いた。


   *   *   *


 続いて、ドゥルガーの試合が始まる。対戦相手は、双子の刺客だった。


 試合開始の合図と共に、ズィズとザズが、左右から、同時に地を蹴った。だが。


「三日月乱舞――ッ!」


 ドゥルガーが、そう叫んだ瞬間、彼女の姿が、独楽のように回転した。4本の腕に握られた2振りの三日月剣が、円を描くように振るわれ、迫っていた双刃を、あらぬ方向へと弾き飛ばす。回転の勢いを殺さぬまま、空いた2本の腕が、体勢を崩したズィズの足元を刈った。


「あーっはっはっは! まだまだぁ!」


 快活な笑い声を上げながら、ドゥルガーは、次の標的――ザズへと踏み込んだ。


「疾風拳・双牙――ッ!」


 アダマンタイトの拳甲を纏った拳が、2人の体を、まとめて砂の上へと打ち倒す。


 闘技場が、地鳴りのような歓声に包まれた。


「ドゥルガー様の踏み込み、以前拝見した時よりも、さらに鋭くなっておられますね」


「さようか? あの子は、いつも通りにしか見えぬが」


「いいえ。三日月剣の軌道が、より無駄なく、直線に近くなっております。稽古の成果にございましょう」


 その分析に、カルガは、驚いたように目を見張った。


「まこと、よく見ておられる」


   *   *   *


 そうして、2人は、それぞれ順当に勝ち上がっていった。


「間も無くにございますぞ、閣下。あのルドラとドゥルガーがぶつかるとなれば、今大会一番の見物になりましょう」


 だが、その兄妹対決の直前――ドゥルガーの準決勝が始まった、その時だった。観客席の空気が、それまでとは、明らかに違うものへと変わっていく。


   *   *   *


「次、ドゥルガー・ザン・アーシュラ、対、魔人、ウォプラ・スカーグ!」


 呼び出しの声に応じて、砂の上に現れたのは、整った顔立ちに、粘つくような笑みを常に浮かべた男だった。所属も、出自も、はっきりとしない。だが、この地に集った猛者たちの間でも、その男の噂だけは、どこか歯切れの悪い響きを伴って囁かれていた。真っ向から鍛え上げた力ではない、何か別のやり方で勝ちを拾う男だと。


「よろしく頼むよ、姫さん。……なるべく、長く楽しませてくれよな」


 その言い草に、リゼルの中で、わずかに不快感が芽生える。赤い瞳の奥に、いつものように、黒紫の文字列を呼び起こした。


――――――――――――――――――

名前:ウォプラ・スカーグ

種族:魔人(種族ではなく、人間を捨て魔界へ渡った個体としての分類)

身分:流浪の武闘家(所属なし)

年齢:不詳

レベル:1150

生命力:8900

魔力量:6200

筋力:1100

耐久:980

敏捷:1800

知力:1650

精神:390

統率:120

政治:60

礼法:40

忠誠適性:なし

主要適性:接近戦闘/幻術/精神汚染耐性(低)

危険度評価:中(単独戦闘力)/不明(戦況次第で変動)

敵対意志:不明瞭(愉悦目的)

備考:己自身の技術的な地力は、決して高くない。だが、戦闘が進むにつれて、見かけ上の実力が不可解なほど跳ね上がっていく傾向がある。精神の均衡が、著しく脆い。

――――――――――――――――――


(魔人か……人間を辞めて、魔界へ渡ってきた者、ということか。だが妙だ。精神の数値が、妙に低い。不自然だ)


 備考欄の一文に、リゼルは、違和感……いや、胸騒ぎを覚えた。だが、まだこの時点では、それ以上の感情はなかった。


 試合開始の合図と共に、ドゥルガーは、迷いのない踏み込みで、地を蹴った。


「三日月乱舞――ッ!」


 4本の腕に握られた2振りの剣が、これまでと同じ、円を描く軌道で振るわれる。だが。


「――え?」


 その刃が、途中で、ぴたりと止まった。まるで、何か見えない壁に、剣先が搦め取られたかのように、力が抜けていく。振り下ろしたはずの剣筋が、あるべき軌道の半ばで、力なく萎んだ。


「データスティール――いただくのは、『三日月乱舞』だ」


 ウォプラが、そう言って、口の端を吊り上げた。その瞬間、ドゥルガーの体から、青白い燐光のようなものが、細い糸となって立ち上り、まるごとウォプラの側へと吸い込まれていった。同時に、ウォプラの両の肩の付け根が、ぴくり、と震える。


 その名を耳にした瞬間、リゼルの赤い瞳の奥で、前世の記憶が、一気に逆流した。


(データスティールだと?!……あの能力、まさかこの世界にもあるのか!?)


 パンデモニウム・オンライン時代、悪名高いバグ技として一部界隈で語り継がれていた、あのクソチートスキルだ。


 正規の技術でも、魔法でもない。


 プログラムの穴を突いた、純然たる不正行為。だが、それが、なぜ今、この目の前で起きている。この世界――パンデモニウムには、そもそも「プログラム」という概念そのものが存在しないはず。ルキフグスが管理する、一つの現実。コードもデータベースも介在しないはずの、この世界に、なぜ、あのバグが存在している。


 あの悪趣味な悪神野郎が、何かやらかしたのか。それとも、他に、何かあるのか。


 答えの出ない疑問が、静かに渦を巻く。


 一方、貴賓室では、カルガが、怪訝そうに眉を寄せていた。


「いったい何が起きた……?」


 剣筋が、途中で萎んだ。それだけは、確かに見えた。だが、なぜそんなことが起きたのか、武の理では、まるで説明がつかない。


 オルディアスもまた、杯を持つ手を止めたまま、無言で戦況を見つめていた。彼の目に映るのは、ただ、ドゥルガーの技が、理由も分からぬまま、不発に終わったという事実だけだった。


「な……!」


 ドゥルガーが、動揺を露わにする。だが、それでも、彼女は、諦めなかった。


「疾風拳・双牙――ッ!」


 拳が、唸りを上げて突き出される。だが、ウォプラは、それを、驚くほど滑らかな動きで、紙一重で躱してみせた。まるで、その拳筋を、最初から知っていたかのような身のこなしだった。


「くっそ……! なんだよ、それ……!」


「データスティール――今度は、『疾風拳・双牙』を、丸ごと」


 その一言と共に、ドゥルガーの拳から、赤黒い靄のようなものが、じわりと立ち上る。彼女が培ってきた戦闘技能そのものが、ウォプラの側へと、吸い取られていった。


「くははははっ! ご自慢のスキルを俺に見せてくれるんじゃないのかぁい?」


「なら――三日月乱舞……ッ!」


 叫びと共に、剣を振るう。だが、何も、起きなかった。振り上げた剣は、ただの剣として、空を切っただけだった。


「な、なんで……!?」


「ぎゃはははっ! 呼んでも、出ないだろ? そりゃそうだ。もう、それは、俺のものだからな」


「『俺のものだ』……? あやつは何を言っているのだ?!」


 貴賓室で、カルガが、忌々しげに呟いた。


 その声には、怒りと同じくらい、困惑の色が滲んでいた。何が起きているのか、理屈では説明できない。ただ、目の前で、ドゥルガーに異変が生じている。それだけが、彼にも分かる、唯一の事実だった。


「あなた……あれは、いったい……」


 マヒーシャもまた、震える声で、夫に問うた。


「私にも、分からぬ」


 短く、それだけを返す。武人としての矜持が、その一言に、静かに滲んでいた。分からぬものを、分かったふりで語る愚は犯さない。だが、分からぬということ自体が、彼の背筋を、これまでにない冷たさで撫でていた。


 メアもまた、リゼルの後ろで、青ざめた顔のまま、立ち尽くしていた。何が起きているのか、まるで見当がつかない。ただ、主人の横顔だけが、いつもと違う、ということだけは、はっきりと分かった。


 その様子を、リゼルは、視界の端で捉えていた。


(父上たちには、何が起きているのか、まるで分かっていない。当然だ。これは、この世界の理では説明のつかない現象なのだから)


 自分だけが、その正体の一端を知っている。その事実が、リゼルの中で、静かな、しかし重い責任のように積み上がっていった。


   *   *   *


 奪った技の数が2つに達したその時だった。ウォプラの体が、輪郭という輪郭を失い、大きく、ぐにゃりと歪んだ。骨も肉も、まるで最初から形など決まっていなかったかのように、スライムじみた粘性を帯びて溶け崩れていく。もはや、人の形とすら呼べない、不定形の塊だった。


「な……! あれは、いったい……!」


 カルガが、思わず腰を浮かせかけた。観客席からも、悲鳴とも驚愕ともつかぬどよめきが上がる。誰も、目の前で起きていることの意味を、理解できていなかった。


「あはは……ふふ、いい気持ちだぁ……」


 粘性の塊の奥から、くぐもった、愉悦に満ちた声が漏れる。ウォプラは、己の体が溶け崩れていくその過程さえも、心底楽しんでいるようだった。


 やがて、その不定形の塊が、ゆっくりと、輪郭を取り戻し始める。おおまかな、人の形。二本の足。一つの胴。


「んふ、んふふ……もうすぐ、もうすぐだよぉ……」


 そして、次の瞬間だった。その背中から、めきり、と鈍い音を立てて、新たな2本の腕が、勢いよく突き出された。その拳には、すでに、鈍く輝くアビスタイトの拳甲が、するりと装着されている。ドゥルガー自身が纏うものと、寸分違わぬ意匠だった。


「うわあああッ!?」


 観客席の最前列から、悲鳴が上がった。何もない背中から、武具を纏った腕が生えてくる――その光景は、もはや、闘いというより、怪異そのものだった。


「あはっ、あははっ! いいでしょ、これ! あんたのお気に入りの得物、ちゃんと再現してあげたよ!」


 粘性の塊が、なおも嫌らしい声で、己の変化を実況するように語り続ける。ぐちゃぐちゃと蠢いていた輪郭が、やがて、静かに収まっていった。


 そこに立っていたのは――アスラ族の赤銅色でも、彼自身の元の色でもない、青みを帯びた、死人のような肌をした、4本の腕を持つ1人の少女だった。


「な――!?」


 カルガが、言葉を失った。マヒーシャも、口元を両手で覆ったまま、凍りついている。オルディアスもまた、目を見開いたまま、微動だにしなかった。


「ディに……そっくり、どうして……」


 マヒーシャの声が、震えていた。輪郭も、体格も、髪の色も、紛れもなく、ドゥルガーそのものだった。


「わーい! これで、あんたに、もっと近づけたよ! ありがとねぇ!」


 その声もまた、ドゥルガーの明るい声音を、正確になぞっていた。だが、その響きの奥には、拭いきれない、粘ついた悪意が滲んでいる。裏表のない快活さを、悪意で塗り替えたかのような、聞くに堪えない声だった。


「あれは……ディ様の声……喋り方……? どうして……」


 メアが、掠れた声で呟く。誰も、それに答えられなかった。


「くっそ……! なんだよ、その、姿……!」


 ドゥルガーが、なおも歯を食いしばりながら、剣を構え直す。だが、奪われた技は、やはり、戻ってこなかった。


 ウォプラは、その様子を、心底楽しそうに眺めながら、無造作に、ドゥルガーの顎を掴み上げた。


「じゃ、次はこれ、試してみようかな」


 その声に、これまでとは違う、粘つくような熱がこもった。


「ドレインハート」


 その名を耳にした瞬間、リゼルの赤い瞳の奥で、思考が、一瞬、完全に止まった。


(……知らない)


 データスティールとは違う。


 あれは、前世の記憶にある、悪名高いバグ技だった。


 だが、この名には覚えがない。パンデモニウム・オンラインのどの攻略サイトにも、どの掲示板にも、聞いたことのない名前だ。データスティールですら、まだ理屈があった。だが、これは――。


 答えを探る間もなく、ドゥルガーの額のあたりから、今度は、燐光ではなく、淡い金色の靄のようなものが、細く立ち上った。それは、これまでの、剣技や拳技が奪われた時とは、明らかに質の違う輝きだった。ドゥルガーの瞳から、光が、すっと抜け落ちる。


「あ……あれ……? ここ、どこ……? なんで、あたし、闘技場なんて……」


 ドゥルガーの声が、これまでとは違う響きを帯びていた。恐怖でも、痛みでもない。純粋な、困惑だった。


「とと様……? かか様も……? なんで、こんなとこにいるの……」


 貴賓室に向けられたその視線には、確かに、両親を認識している色があった。だが、その視線が、隣に座るリゼルのところで、ふと止まる。


「……あなたは、誰……?」


 その一言に、貴賓室の空気が、凍りついたどころではない、絶句という言葉すら生ぬるいほどの沈黙に包まれた。


 カルガが、震える声で呟いた。


「ディ……まさか……リゼル嬢のことが、分からぬのか……」


「あなた……それじゃあ、あの子は……」


 マヒーシャが、両手で口元を覆った。声が、震えている。両親のことは、覚えている。だが、この数日で出会ったばかりの客人のことだけは、綺麗に抜け落ちている。


 それが何を意味するのか、貴賓室にいる誰もが、同時に悟った。リゼルが屋敷を訪れてからの、この数日間の記憶だけが、まるごと、無かったことにされている。それがどういう理屈で起きているのか、まるで見当もつかない。


 ただ、恐ろしいという感情だけが、貴賓室を満たしていた。


「あはっ、あはははっ! いいね、その顔! 最近の記憶、まるっと抜けちゃった?」


 ウォプラは、その困惑しきった顔を、心底楽しそうに覗き込んだ。奪った姿と、奪った記憶の断片を纏いながら、記憶を失ったドゥルガー本人を、なおも甚振り続ける。それは、これまでの技を奪う行為よりも、遥かに悪趣味で、遥かに残酷だった。


「せっかくだから、あんたの技で、あんたを可愛がってあげるね」


 そう言うが早いか、ウォプラは、奪ったばかりの三日月剣を、無防備なドゥルガーへ、容赦なく振るった。


「きゃあああッ……!」


 避ける術も、受け止める術も、すでに残されていない。刃が、二の腕を、太腿を、次々と浅く裂いていく。血の玉が、幾筋も、砂の上へ滴り落ちた。追い打つように、アビスタイトの拳甲を纏った拳が、無防備な脇腹へ、繰り返し打ち込まれる。


「うぐ……っ……あ……」


 ドゥルガーの体は、もはや、悲鳴を上げる余力すら失いかけていた。膝が折れ、そのまま、砂の上へ崩れ落ちる。傷だらけの体からは、絶え間なく血が流れ、白い砂を、赤黒く染めていった。己自身の技によって、己自身が、なぶり殺されようとしている――その光景は、これまでのどの一撃よりも、見る者の目を背けさせるものだった。


 技を失い、記憶を失い、なす術もなく崩れ落ちるドゥルガーへ、ウォプラの拳が、なおも無造作に振り下ろされようとした、その時だった。


「――やめなさい!」


 医療班の天幕から飛び出してきたソーマが、ドゥルガーを庇うように、その間へ割り込んだ。剣を振るったことのない体で、それでも、拳の軌道の前に、迷いなく立ち塞がる。


「へぇ、庇うんだ? 感動しちゃうなぁ」


 ウォプラは、愉快そうに笑うと、標的を、あっさりとソーマへ切り替えた。


「ぐああっ……ッ!」


 アビスタイトの拳甲を纏った拳が、ソーマの脇腹へ、深く沈み込む。骨の軋む鈍い音と共に、その体が、くの字に折れ曲がった。だが、ウォプラは、そこで止まらない。膝をついたソーマの襟首を掴み上げ、無防備な顔面へ、さらに拳を叩き込む。


「ソーマ兄ぃ……!」


 ドゥルガーは、目の前で庇ってくれた兄の名を、はっきりと呼んだ。ソーマのことは、忘れていない。忘れているのは、あくまで、この数日だけだった。だが、その声にすら、ウォプラは容赦しなかった。


「あ、そうだ。あんたも、忘れちゃいけないよね」


 殴られて崩れ落ちたソーマを見下ろしながら、ウォプラは、再びドゥルガーへと向き直る。奪ったばかりの三日月剣が、無防備な体を、次々と裂いていった。血の玉が、幾筋も、砂の上へ滴り落ちる。ソーマもドゥルガーも、もはや、まともに立ち上がる力すら残っていなかった。それでも、ウォプラは、その蹂躙を止めようとしなかった。


 闘技場の中央、控えの位置から、ルドラは、その一部始終を、無言のまま見据えていた。感情の読めない金色の瞳は、瞬きひとつせず、兄と妹が、なぶられる様を、ただ、じっと見つめている。


 拳を握る様子も、駆け出す様子もない。まるで、その場に根を張ったかのように、動かなかった。


   *   *   *


 貴賓室の空気が、凍りついていた。


 カルガの顔から、みるみる血の気が引いていく。手にしていた杯を、いつの間にか、強く握りしめていた。指の関節が、白くなっている。


「なんと卑劣な……」


 低く、押し殺した声が漏れる。武を至上とするこの土地の当主にとって、目の前で繰り広げられている光景は、耐え難いものだった。だが、その顔に浮かんでいるのは、怒りだけではない。何が起きているのか、最後まで理解できなかった者の、深い当惑だった。


 オルディアスもまた、険しい表情を崩さなかった。杯を持つ手が、静かに、卓上へと戻される。彼もまた、目の前の現象の正体を、最後まで掴めずにいた。ただ、それが、尋常のものではないということだけは、痛いほど分かった。


 マヒーシャは、両手で口元を覆ったまま、声にならない悲鳴を漏らしていた。大事な息子と娘が、目の前で、次々と傷つけられていく。今すぐにでも自分があの場に飛び出したかった。


 そして、砂の上には、傷だらけのドゥルガーと、庇おうとして共に倒れたソーマが、並んで崩れ落ちていた。快活で裏表のなかった少女の姿も、いつも穏やかだった青年の姿も、もはや、見る影がなかった。


 その光景を、リゼルは、表情という表情を凍りつかせたまま、静かに見つめていた。


(……チートだ)


 赤い瞳の奥で、その一言が、冷たく、はっきりと像を結ぶ。パンデモニウム・オンラインの世界にも、ああいう輩は確かに存在した。


 正規の手順を踏まず、他人の積み上げてきたものを、不当な手段で我が物とする者たち。プレイヤーたちは、彼らを、蔑みを込めて「チーター」と呼んだ。


 黒瀬真璃亜だった頃の記憶が、静かに、しかし鮮明に蘇る。


 職場では、努力もせず、他人に仕事を押し付けてくる上司、同僚、後輩――そういう人間が、彼女の精神を、少しずつ、確実にすり潰していった。積み上げてきた成果を、当然のように奪われ、それでいて感謝の一つも寄越さない。あの頃の、行き場のない怒りを、真璃亜は、ただ、パンデモニウム・オンラインという世界にぶつけることで、辛うじて心を保っていたのだ。


(データスティール……あんなもの、即刻BAN……いや、ここは現実だ。処刑されるべき行為だ)


 弱肉強食こそが理である、この魔界においてすら、目の前の光景は、度し難いものだった。力で押し潰すのではない。積み上げてきたものを、横から掠め取り、その相手自身を甚振る道具として使う。それは、強さでも何でもない、ただの窃盗だ。


(それを、この世界にまで、しれっと実装しやがって……)


 赤い瞳の奥で、別の怒りが、ふつふつと湧き上がる。この世界の管理者を名乗る、あの悪神の顔が、脳裏をよぎった。


(クソったれの性悪悪神め、ルキフグス……! こんなものを黙認しているとは、いい性格をしてる)


(何より……崇拝する大魔王ドラコー陛下の御膝元、しかも重臣の令嬢に対して、こんな真似が許されていいわけがない)


 大魔王ドラコー陛下の顔がリゼルの脳裏によぎった瞬間、リゼルの中で、何かが、音を立てて弾けた。


「ふぅ……」


 闘技場の惨状に会場中が騒然としている中、リゼルだけが、小さく息を吐いた。その表情には、動揺の色は欠片も見当たらなかった。


 ただ、その静けさは、これまでの完璧な微笑みとは、質そのものが違っていた。氷のように、凪いだ静けさだった。


「お、お嬢様……!?」


 隣に控えていたメアが、思わず声を上げる。その声には、恐れにも似た緊張が滲んでいた。何が起きているのかは分からないままでも、これから何かが起こることだけは、メアには、はっきりと分かっていた。


 リゼルは、静かに、口を開いた。


「やれやれ。せっかく、かくあれかしと、大侯爵令嬢として振る舞ってきたが」


 その声音からは、あの完璧な令嬢の仮面――姉エルミナの立ち居振る舞いを、嫌々ながらも観察し、練り上げてきた、作り物の響きが、すでに消えていた。代わりにあるのは、硬く、平坦で、感情の起伏を削ぎ落としたような、いつもの響きだった。


「台無しだな……」


 その一言と共に、リゼルは、椅子の上に、すっと立ち上がった。これまで、この地に足を踏み入れてから一度たりとも崩したことのなかった、あの令嬢然とした表情が、音もなく消えていく。


「リゼル! 落ち着け!!」


 オルディアスが、鋭く声を上げた。だが、その声は、もはや、娘には届いていないようだった。


「リゼル嬢……?」


 マヒーシャが、戸惑いを隠せぬ声で、その名を呼ぶ。


 リゼルは、その視線を、ゆっくりと、カルガへと向けた。


「カルガ閣下」


 その声は、静かだった。だが、その静けさの奥に、これまで一度も感じたことのない、何か底知れないものが滲んでいる。


「せっかくの、父オルディアス・ノクス・ヴァルクロアのためにご準備頂きました余興ではございますが」


 一拍。


「ぶち壊す所存にございます」


「な――!? リゼル嬢!? 何を、申されておられるのだ!?」


 カルガが、思わず腰を浮かせた。だが、リゼルは、その問いに、答えなかった。


 これまで、アーシュラ侯爵領に足を踏み入れてから、カルガにも、マヒーシャにも、そしてこの地の誰にも、一度たりとも見せたことのない表情だった。氷のように冷え切った瞳。感情の温度が、根こそぎ削ぎ落とされたかのような、静かな、静かな顔。


 そして、次の瞬間。赤い瞳が輝くと、可視化するほどの暗紫色の魔力が噴き上がった。その圧倒的な質量に、貴賓室の空気そのものが、軋むように震える。窓辺の燭台の炎が、その圧に押されるように、大きく揺らいだ。


「お待ちくださいお嬢様!!」


 メアが、悲鳴のような声を上げた、その刹那。


「――アビスゲート」


 リゼルが、床に手のひらを斜めにかざすと、紫色の魔法陣が、床に浮かび上がる。


「リゼル! 貴様、何をするつもりだ!?」


 オルディアスは、ドゥルガーの危機と同時に本性を表した娘に思わず怒鳴りつけた。叫ばなくとも、分かっている。これは、理不尽を自ら選別できる幼女の姿を模った何かであるということを。だからこそ、この少女は、何かをやらかす――。


 怪しく紫色に輝く魔法陣から、暗黒の塊が、スライムのように伸び上がると、やがて、禍々しい悪魔の彫刻が施された、1つの門へと形を変えた。門の奥には、不定形の不気味な輝きが、絶えず蠢いている。まるで、その先が、この世のどことも繋がっていない、底無しの虚空であるかのようだった。


「ま、まさか、アビスゲート!? 4歳のリゼル嬢が、こんな最上級魔法を!?」


 カルガが、震える声で、そう叫んだ。


(バレた……)


 オルディアスは、心から落胆した。今までなんとか、娘の異常性を、知識と応用力のみに特化していると、アーシュラ侯爵たちに思い込ませてきた。その努力が、粉微塵に砕け散った音を、彼は確かに、脳裏に聞いた。


「ふむ、位置はここら辺だな」


 リゼルは、静かにそう呟きながら、右腕を上げて、大きく弓のように引き下げると、誰にも目を合わせることなく、闇の空間が広がる門の中へ、迷いなく飛び込んでいった。


 オルディアスとメアは、すぐに、自分たちもリゼルの消えていった門の中へ飛び込もうとした。だが、門は、無情にも、来客を歓迎しない屋敷の門のように、内側から強く、自動的に閉じ、そのまま、消えていった。


「リゼル……ッ!」


「お嬢様!!」


 オルディアスの叫びは、すでに閉じきった門に届くことなく、ただ、虚しく響くだけだった。


 オルディアスも、メアも、カルガも、マヒーシャも、誰もが、言葉を失ったまま、その場に立ち尽くす。


 そして、それとほぼ同時に――闘技場全体から、地鳴りのような、驚愕と、感嘆と、悲鳴と、あらゆる感情が入り混じった、無秩序などよめきが、津波のように押し寄せてきた。


 弾かれたように、オルディアスが、闘技場を見下ろす。


 そこにあったのは――


 砂の上に立っていたはずのウォプラ・スカーグの姿が、消えていた。いや、消えたのではない。彼の体は、闘技場の端――貴賓室と同じアビスタイトで組まれた、恐ろしく硬質な外壁に、めり込んでいた。蜘蛛の巣状に亀裂の走ったアビスタイトの壁の中心に、まるで意思を持たぬ人形のように、力なく埋まっている。壁を組むアビスタイトの破片が、ぱらぱらと、彼の周囲に降り注いでいた。並のことでは傷一つつかぬはずの、あのアビスタイトが、である。


 砂塵が、まだ、うっすらと宙を漂っていた。その中心――ウォプラの体が消えた地点との間に、1本の、まっすぐな軌跡が刻まれている。まるで、目に見えぬ何かが、一直線に、その空間を貫いたかのような跡だった。


 その拳を振り抜いた姿勢のまま、リゼルがそこに立っていた。


 白銀の髪が、まだ風もないのにふわりと舞っている。小さな拳からは、うっすらと、暗紫色の魔力の残滓が、糸のように立ち上っていた。4歳の体には、あまりに不釣り合いな、あまりに圧倒的な光景だった。



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