Ver.1 JUGGERNAUT Chapter2-7 絆
訓練場の入り口をくぐった瞬間、熱気が、肌を刺すように押し寄せてきた。
砂の敷き詰められた広場の中央では、絶え間なく打ち合いが繰り広げられている。木剣同士がぶつかる乾いた音、鎧が軋む重い音、地面が抉れるほどの踏み込みの音――そのどれもが、ヴァルクロア領の稽古場とは、まるで質の違う迫力を伴っていた。空気の匂いすら違う。土埃と汗、そしてかすかな血の匂いが混じり合い、ここが本物の武の土地であることを、否応なく突きつけてくる。日差しに炙られた砂が、時折、乾いた匂いを風に乗せて運んでくる。
ドゥルガーに案内され、リゼルとメアは、稽古場を見下ろす観覧席の一角へ腰を下ろした。木材で組まれただけの、飾り気のない席である。塗装も施されておらず、座面には無数の傷跡が刻まれていた。おそらく、これまで幾人もの見物人が、拳を打ちつけて興奮を露わにしてきたのだろう。だが、その飾らなさこそが、この土地らしい実直さを物語っているようでもあった。
腰を下ろした拍子に、メアの膝が、生まれたての魔獣のように、かくかくと小さく震えた。昨日のあの
「おかわり」ランニングの余波は、一晩経っても、まだ完全には抜けきっていないらしい。本人は、そのことを主人に悟らせまいと、澄まし顔を保とうと必死だったが、震える膝までは、どうにも隠しきれずにいた。
砂塵の中心に、一人の少年がいた。赤銅色の肌に、6本の腕。跳ねる黒髪。額に巻いた紫の飾り布が、動くたびに鋭く翻る。対峙するのは、いずれも屈強な体格の、成人したアスラ族の闘士たちだった。アーシュラ領のこの訓練場では、同族同士の組手など、朝の挨拶ほどにありふれた光景だ。年季の入った鎧をまとい、歴戦の気配を漂わせる者ばかりだ。並の子供であれば、その威圧感だけで、足がすくんでもおかしくない。
その一人――若い男の闘士が、大剣を担ぎ上げながら、にやりと笑った。
「若様、今日こそは俺が一本もらいますよ!」
威勢のいい啖呵とともに、雄叫びを上げて大剣を振り下ろす。だが、少年――ルドラは、6本の腕のうち2本だけで、それを軽々と受け止めた。金属同士がぶつかる甲高い音が、観覧席まで響き渡る。残る4本の腕は、まるで最初から結末を知っていたかのように、すでに次の一手へと動き出していた。2本が防御に徹する間に、別の2本が男の懐へ滑り込み、残る2本が、体勢を崩された相手の足を刈り取る。動きの全てに、迷いという言葉が存在しないかのようだった。一瞬の拮抗の後、大剣を持つ男の体が、宙を舞う。
「次ぃ!!」
ルドラの声が、砂塵を切り裂くように響き渡った。声量だけでも、常人離れしている。喉から絞り出すというより、腹の底から叩きつけるような叫びだった。その一声だけで、周囲の空気の密度が、わずかに変わったようにすら感じられる。
その一言に応じるように、2人目の闘士が、間髪入れずに躍り出た。今度は、4本の腕を持つ、若いアスラ族の女闘士だった。
「若様、女だからって手加減は無しですからね!」
そう言い放つと、4本の腕のうち2本に短い曲刀を構え、地を這うように踏み込んでくる。右の刃で喉元を、続けざまに左の刃で脇腹を狙う、素早い二段の斬撃だった。
ルドラは、その二撃を、2本の腕だけで最小限に弾く。だが、女闘士の動きは止まらない。刃を弾かれた勢いのまま体を回転させ、残る2本の腕――先ほどまで空けていた下側の2本に、瞬時に別の曲刀を握り直し、背後から仕掛けようとした。その瞬間、ルドラの残る4本の腕がすでに動いていた。2本が回転の軌道を読んで進路を塞ぎ、1本が刃を持つ手首を掴み、最後の1本が、体勢を崩された女闘士の足を刈り取る。四本の腕全てを使い切ったはずの側が、逆に一手も返せぬまま、地に転がされていた。
「くぅっ……次は絶対に決めますから!」
悔しさを滲ませながらも、その声には、確かな闘志が滲んでいた。
「次ぃ!!」
また、同じ叫び。倒れた闘士が、悔しげに、しかしどこか誇らしげに、地面を叩く。周囲で見物していた兵士たちからも、感嘆とも、当然だと言わんばかりの、乾いた笑い声が漏れた。
3人目として進み出たのは、赤銅色の肌に6本の腕を持つ、壮年のアスラ族の闘士だった。額に刻まれた古い傷跡と、贅肉一つない体軀が、幾多の実戦を潜り抜けてきたことを物語っている。若手2人とは、纏う気配の重みが明らかに違った。周囲の観客からも、他の対戦とは違う、どこか張り詰めたどよめきが上がった。
「おう、若。今日は、この爺の年季ってやつを、たっぷり見せてやろうか」
闘士は、6本の腕をそれぞれ異なる構えで持ち上げながら、不敵に笑った。両者の腕が、同時に、それぞれ違う角度で構えられる。まるで鏡合わせのような光景でありながら、そこに漂う気配は、まるで違っていた。
打ち合いが始まると、動きの複雑さは、これまでの対戦の比ではなかった。6本対6本、合計12本の腕が、目にも留まらぬ速さで交錯する。闘士の側も、上腕・中腕・下腕をそれぞれ独立させ、防御と攻撃を同時に組み立ててくる。だが、ルドラの腕の連動は、それを上回っていた。闘士の6本が「6つの武器」として、それぞれ別々に振るわれているのに対し、ルドラの6本は、まるで一つの意志に統率された「一つの生き物」として動いている。その差が、拮抗しているように見えた打ち合いを、じわじわと、しかし確実に、ルドラの側へ傾けていった。
最後は、闘士の6本の腕すべてが同時に流され、体勢を崩したところへ、ルドラの拳が一本、深く打ち込まれた。闘士は、砂の上に大きく尻餅をついたが、その顔には、悔しさよりも、むしろ満足げな笑みが浮かんでいた。
「はっ……やっぱり、敵わねぇな。だが、いい稽古になった」
「次ぃ!!」
その光景を、リゼルは、瞬きすら惜しむように見つめていた。
(……速い。それに、力任せじゃない。6本の腕を、それぞれ別の判断で同時に動かしている。前世の記憶
にある戦い方と、恐ろしいほど一致する)
赤い瞳の奥で、かつての記憶が、静かに像を結んでいく。だが、その像は、記憶そのものよりも、何倍も鮮烈だった。数値やログでは、決して伝わらなかった何かが、そこにはあった。画面の向こうで見ていた「強さ」という概念が、今、目の前で、汗と砂埃を伴って、生きた質量を持って動いている。攻撃の一つ一つに重みがあり、防御の一つ一つに理由がある。それは、数字の羅列だけでは、決して掴み取れない類のものだった。
(速さも、力も、判断も、全部が噛み合っている。しかも、あれだけの腕を同時に使いこなしていながら、無駄な動きが一つもない。……ゲームの数値じゃ、絶対に伝わらなかった凄みだ)
「すごいでしょ!」
ドゥルガーが、隣で、誇らしげに胸を張った。日差しを受けて、その瞳が、いっそう明るく輝いて見える。
「あれで、まだ12歳だよ。あたし、いつか追いつきたいって思ってるんだけど、全然、差が縮まんない」
その声には、悔しさよりも、憧れの方が色濃く滲んでいた。兄を語る時の彼女の声には、いつも、どこか特別な温度が宿る。
「……見事にございます」
リゼルの声は、いつもの完璧な調子を保っていた。だが、その内側では、かつてない興奮が、静かに、しかし確かに渦を巻いていた。指先が、無意識のうちに、ドレスの裾を軽く握りしめている。
4人目、5人目と、対戦相手はさらに入れ替わっていく。相手を変えるたびに、ルドラの戦い方も、わずかに色を変えた。力押しの相手には、その勢いを利用して転がすように崩し、技巧派の相手には、こちらも技で応じる。ただ強いだけではない。相手の性質を、瞬時に見極めているのだ。戦いながら、なお、相手を「読んで」いる。それは、単なる暴力ではなく、一つの技術だった。
「あれ、毎日やってるんですか」
メアが、遠慮がちに、小声で尋ねた。その声には、隠しきれない驚きが滲んでいる。膝の震えを誤魔化すように、そっと両手で押さえながらの問いだった。「毎日の鍛錬」という言葉が、今の彼女には、やけに重く響くらしい。
リゼルは、その様子を横目に、すんごい良い笑顔を浮かべた。だが、その目は、少しも笑っていなかった。
「毎日の鍛錬は、とても大切なことにございますよね……ねぇ、メア?」
「ひっ! ひゃっ! ひゃい!! お嬢様!」
メアは、震える声で、何度も頷いた。膝の震えが、心なしか、一段と激しくなったように見えた。
「うん。毎日だよ。雨の日も、槍が降るような日でも、休んでるとこ、見たことないもん」
「毎日、あれほどの数と……」
「うん。だって、ルドラ兄ぃ、それが楽しいんだって」
その言葉に、メアは、言葉を失ったように、目を丸くしていた。楽しい、という一言で片付けられる領域を、明らかに超えているように見える光景だったからだ。
* * *
「そういえば、リゼル」
しばらく戦いを見守った後、ドゥルガーが、ふと思い出したように口を開いた。
「明日、大きな武闘会があるんだって」
「武闘会、でございますか」
「うん。さっき、とと様から急に聞かされたの。リゼルのお父さんを歓迎するために、大きな大会を開くんだって。ケーキ作りのお礼も兼ねて、アーシュラ領の強い人たちを、ちゃんとお披露目したいんだってさ」
その話に、リゼルは、内心で軽く目を見張った。
(歓迎の武闘会……。それは、また盛大な話だ。しかも、これほど急な発表とは。カルガ殿らしい、といえばらしいが)
「急な話にございますね」
「あたしも、朝聞いた時びっくりした。とと様、思い立ったら即行動する人だから」
ドゥルガーは、そう言って、肩をすくめてみせた。武門の当主らしい豪快さを、娘なりの言葉で言い表しているらしい。その口調には、呆れよりも、どこか誇らしげな響きが混じっていた。
「もちろん、あたしも出るよ! ルドラ兄ぃも出るし」
その言葉に、リゼルは、静かに頷いた。
(ドゥルガーとルドラが、揃って出場……。両方の実力を、正式な場で見られる機会か。これは、逃す手はない)
「ルドラ兄ぃが出るとなると、あたしも、いつもより気合い入れないと。負けらんないもん」
ドゥルガーの声が、そこで、一段と弾んだ。4本の腕が、思わずといった様子で、ぐっと握りしめられる。
「あたしとルドラ兄ぃ、去年の武闘会で当たったんだ。結果はね……まあ、聞かないで」
そう言って、彼女は、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。だが、その表情には、悔しさの奥に、確かな闘志が見え隠れしていた。負けた記憶を、恥として隠すのではなく、次への糧として抱え直しているような顔だった。
「楽しみにしております」
「うん。今年こそは」
短い返答だったが、そこには、迷いのない決意が宿っていた。
* * *
「ルドラ兄ぃー! こっち!」
ドゥルガーが、砂塵の中心へ向けて、大声を張り上げた。4本の腕を、目一杯振り回している。
その声に、ちょうど5人目の闘士を打ち倒したばかりのルドラが、こちらへ視線を向けた。
そして、次の瞬間だった。ルドラの体が、地を蹴った。その跳躍は、リゼルの想像を、遥かに超えていた。まるで重力そのものを無視したかのような軌道を描き、観覧席の高さまで、一息に舞い上がる。周囲の見物人たちは、その跳躍にすら、もはや驚く様子を見せなかった。日常の光景として、すでに馴染んでいるのだろう。着地の瞬間、木材の床が、鈍い音を立てて軋んだ。
「なんだよ、ディ」
ルドラは、息を切らせる様子もなく、無造作にそう言った。全身から立ち上る汗の匂いと、剥き出しの闘気のようなものが、こちらの空気を、一瞬で塗り替えていく。近くで見るその体軀は、遠目に見ていた以上に、圧倒的だった。無駄な脂肪などどこにもなく、鍛え抜かれた筋肉の一つ一つが、呼吸に合わせて微かに脈打っている。額から流れる汗が、顎先で光り、そのまま砂の上へ、小さな染みを作った。
(……確かめよう)
これまで、幾度となく機会があったにもかかわらず、リゼルは、まだルドラのステータスを確認できずにいた。
(そういえば、あの厨房での一幕の時も、結局確認し損ねたままだった。菓子作りに、すっかり熱が入りすぎていて)
苦笑まじりに、そんなことを思い出す。あの時は、鬼教官としての自分に没頭するあまり、ルドラのステータスを覗く余裕すら、まるでなかった。だが、今、目の前に立っている。この機を、逃す手はなかった。
リゼルは、微笑みを絶やさぬまま、その赤い瞳の奥に、見慣れた黒紫の文字列を呼び起こす。
――――――――――――――――――
名前:ルドラ・ザン・アーシュラ
種族:アスラ族
身分:アーシュラ侯爵家 次男
年齢:12歳
レベル:2740
生命力:52000
魔力量:9800
筋力:7200
耐久:6100
敏捷:5400
知力:620
精神:3200
統率:1800
政治:90
礼法:250
忠誠適性:アーシュラ家に対し絶対的
主要適性:6腕武術/近接格闘全般/対多数戦闘/直感的戦況判断
所持スキル:剛力/6腕連撃/闘気覚醒/不屈
危険度評価:最上位
敵対意志:なし
備考:12歳にして、当主カルガをも凌ぐ筋力値を持つ。知力・政治は著しく低いが、戦闘に関する直感的な判断力は、数値化しきれないほど突出している。武を尊ぶ一族の中でも、規格外の神童。
――――――――――――――――――
その数値の羅列を、リゼルは、目の前の少年から視線を外さぬまま、内心で、しばし、言葉もなく見つめていた。
(筋力、耐久、敏捷……純粋な戦闘の数値は、どれも、私を上回っている。父上はおろか、アーシュラ侯爵の筋力すら超えている。それも、まだ12歳で)
赤い瞳の奥で、静かな戦慄が走る。だが、同時に、リゼルの胸の奥では、抑えきれない高揚もまた、確かに芽生えていた。目の前で、汗を滴らせながら立っているこの少年が、これほどの数値の持ち主だとは。
(レベルそのものは、私の方がまだ上……知力や政治といった総合的な数値が乗る分、そこは埋まらない。でも、直接戦うとなれば、話は別だ。この子の筋力や耐久には、私の魔力量をもってしても、正面からはとても敵わない)
自分の魔力量が、これまで出会ってきた誰よりも高いことは、リゼル自身、よく分かっていた。念のため、その赤い瞳の奥に、もう一つの黒紫の文字列を呼び起こす。己自身のステータスだった。
――――――――――――――――――
名前:リゼル・ノクス・ヴァルクロア
種族:堕天使系高位魔族
身分:ヴァルクロア大侯爵家 令嬢
年齢:4歳
レベル:3103
生命力:31000
魔力量:118000
筋力:890
耐久:820
敏捷:1350
知力:5200
精神:4800
統率:2600
政治:3100
礼法:4900
忠誠適性:大魔王ドラコー陛下に対し測定不能
主要適性:広域魔術/情報収集・分析/経済戦略/貴族礼法
危険度評価:測定不能
敵対意志:なし
備考:4歳にして、当主クラスに匹敵するレベルを持つ。魔力量は、他のあらゆる数値から突出しており、桁が2つ以上違う。身体能力は年齢相応にとどまる。
――――――――――――――――――
レベルは3103。カルガやオルディアスと、ほぼ肩を並べる数値だった。だが、魔力量の欄だけは、他のどの項目とも、桁の並びが違っていた。
もし魔術を主体とした戦いになれば、恐らく、この魔界の誰を相手にしても、そう簡単に後れは取らない。搦め手も、広域殲滅も、防御の術式も、あらゆる面で、自分の魔力量はチート染みている。長距離からの魔力戦であれば、4歳の身でありながら、父オルディアスすら圧倒できるだけの器を、すでに持ち合わせているはずだった。そのことに、今更ながらの自覚があった。
だが、それは、あくまで魔術を軸にした戦いにおいての話だ。純粋な、剣と拳の応酬という土俵に立てば、話はまるで違う。
(レベルの差を、この子は、直接戦闘の数値とスキルだけで、丸ごと埋めてくる。剛力、6腕連撃、闘気覚醒、不屈……総合力では私が上でも、殴り合いの土俵に限れば、この差は、簡単には縮まらない)
つまり、格上であるはずの自分ですら、真正面からの殴り合いになれば、油断はできない相手だということだ。魔力という土俵でなら勝てる。だが、剣と拳の土俵でなら、分からない。その事実が、リゼルの胸の内に、これまでにない緊張感を刻みつけていた。
(知力と政治は、絶望的に低い……。これは、まあ、予想通りというか。だけど、この戦闘に関する数値は、ちょっと反則じゃないか。所持スキルも、剛力に6腕連撃、闘気覚醒に不屈……どれも、一級品ばかりだ)
前世の記憶にある、あの戦闘狂の少年と、目の前のこの数値とを、慎重に重ね合わせてみる。だが、ステータスという無機質な数字の羅列だけでは、それが「同一人物である」という確証には、到底至らなかった。強さの傾向は似ている。だが、それだけだ。魂の同一性までは、この文字列は、何も教えてくれない。
(……結局、数字だけじゃ、分からないか)
小さな失望と、それでもなお消えない期待とが、赤い瞳の奥で、静かにせめぎ合っていた。
「明日の武闘会、ちゃんと聞いた?」
「ああ、聞いた。……で、あんたか。厨房にいたやつだよな」
その視線が、リゼルへ向く。金色の瞳には、特に感慨らしいものはない。値踏みするでもなく、ただ、事実として認識しているだけの目だった。
「お嬢ちゃんも、見に来るのか?」
「はい。アーシュラの闘神の猛々しいお姿を、是非ともこの目に焼き付けとうございます」
リゼルの完璧な礼に、ルドラは、片眉を上げただけだった。
「ふうん」
そっけない返事だったが、リゼルには、それで十分だった。むしろ、飾り気のないその態度こそが、目の前の少年の輪郭を、より鮮明にしてくれるようだった。飾らぬ言葉の裏に、余計な計算が一切ない。それは、これまで出会ってきた、誰とも違う手触りだった。
「まあ、明日は、見てて損はさせねえよ」
その一言だけは、わずかに、誇らしげな響きを帯びていた。武人らしい、飾らない自負だった。
「じゃ、俺、戻るわ」
「え、もう?」
「次、待たせてんだよ」
ルドラは、それだけ言うと、再び地を蹴った。来た時と同じ、あるいはそれ以上の勢いで、砂塵の中心へと舞い戻っていく。着地と同時に、すでに次の対戦相手が、身構えていた。
「次ぃ!!」
その声が、また響く。リゼルは、その後ろ姿を、しばし、無言で見つめていた。
(本当に、あのルドラなのだろうか。それとも……)
答えの出ない問いだけが、赤い瞳の奥で、なおも静かに渦を巻き続けていた。
* * *
「相変わらず、忙しない弟だね」
背後から、穏やかな声がかかった。振り返ると、そこに立っていたのは、ソーマだった。書物を小脇に抱え、様子を見に来たらしい。その物腰は、砂塵と汗にまみれた訓練場には、不釣り合いなほど落ち着いていた。だが、その目は、ルドラの戦いぶりから、片時も離れずにいる。
「ソーマ兄ぃ!」
ドゥルガーが、嬉しそうに手を振る。
ソーマは、砂塵の中心で戦い続けるルドラの姿を、しばし、静かに見つめていた。その眼差しには、弟への誇りが確かにある。だが、それだけでは片付けられない、もっと複雑な色が、影のように差していた。誰かを見つめる時、人は時に、その相手を通して、自分自身の欠けたものを見てしまうことがある。ソーマの横顔には、そうした翳りが、うっすらと滲んでいた。
無意識のうちに、その手が、己の右の袖――5本目の腕が、あるはずのない場所――へと伸びる。長年、幾度となく繰り返してきた癖なのだろう。本人すら、おそらく気づいていない。
「……ルドラは、私の分まで、剣を振るってくれているのでしょうね。ディも、きっと同じでしょう」
その声は、決して自嘲めいたものではなかった。むしろ、静かな、諦めにも似た確信を帯びていた。長い時間をかけて、自分自身にそう言い聞かせてきた者だけが持つ、凪いだ声音だった。剣を振るえぬ己の代わりに、弟妹が剣を取っている――そう思い込むことで、自分の欠落を、どうにか意味のあるものへと転じようとしてきたのかもしれない。
その一言に、ドゥルガーの表情が、一瞬にして険しくなった。
「ソーマ兄ぃ、そんなこと言っちゃダメだよ!」
珍しく、強い声だった。周囲の空気すら、一瞬、張り詰めたように感じられる。稽古場の喧騒の中でも、その声だけは、はっきりと輪郭を持って響いた。
「あたしも、ルドラ兄ぃも、好きで強くなってんだよ。ソーマ兄ぃのためだけじゃない。自分が、そうありたいから、なってるの。剣を振るうのが楽しいから、振るってるだけ」
ドゥルガーは、そこで一度言葉を切り、ソーマの顔を、正面から見据えた。
「それを、『ソーマ兄ぃのため』にされちゃったら、あたしたちの頑張りが、まるで、ソーマ兄ぃの分まで背負った、可哀想な話みたいになるじゃん。そんなの、あたしは嫌だ」
その言葉に、ソーマは、少し驚いたように、妹を見返した。長年、当たり前のように胸の内で結んでいた図式――弟妹が強いのは、自分の弱さの裏返しだという思い込みが、根元から揺さぶられたような顔だった。
「……そうなんだね」
「そうだよ。ソーマ兄ぃは、いつもそうやって、自分を勝手に後回しにする。悪いところだよ、それ」
ドゥルガーは、腕を組み、はっきりとそう言い切った。10歳の少女の言葉とは思えぬほど、その口調には、確かな芯があった。血を分けた者だからこそ、時に厳しく、時に容赦なく、言葉を突きつけることができるのだろう。
リゼルは、その様子を、少し離れた場所から、静かに見ていた。兄妹の間にある、この不器用な、しかし確かな情愛の形を、じっと目に焼き付けるように。
(……この人を、放っておけない)
内心で、そんな思いが、静かに頭をもたげる。それは、以前のような、純粋な打算からくる「欲しい人材だ」という興奮とは、どこか違っていた。もちろん、その計算高い部分が完全に消えたわけではない。だが、今この瞬間、リゼルの胸を占めていたのは、もっと単純な、もっと個人的な感情だった。目の前で、静かに自分を責め続けている青年を、このままにしておきたくない――ただ、それだけの思いだった。
リゼルは、ゆっくりと、ソーマへ歩み寄った。砂を踏む小さな足音が、やけにはっきりと、自分の耳に響く。
「ソーマ様」
「……はい」
ソーマが、こちらへ視線を向ける。その目には、まだ、先ほどの翳りが、うっすらと残っていた。
リゼルは、そっと、ソーマの手を取った。小さな手だったが、その仕草には、迷いがなかった。真っ直ぐに、赤い瞳が、ソーマを見上げる。
(前世の知識でも、この人がどんな人物だったのかは分からない。データもログもない。……だからこそ、今、目の前にいるこの人自身を、ちゃんと見なければ)
その思考が、一瞬、脳裏をよぎった。ゲームの記憶に頼れない相手だからこそ、余計に、言葉を選ぶ必要がある。
「ソーマ様の、回復魔術や薬学、治癒魔術の研究。それは、力不足を埋めるためのものではないと、わたくしは思います」
「……」
ソーマは、何も答えなかった。だが、その手は、リゼルの小さな手を、振り払おうとはしなかった。
「戦場において、剣を振るう者は、いずれ傷を負います。傷を負えば、癒す者が必要になる。剣を振るう者と、それを支える者。どちらが上でも下でもございません。ただ、役割が違うだけにございます」
一拍置いて、リゼルは、さらに言葉を継いだ。
「ですが、それだけでは、まだ足りません。ソーマ様の才は、恐らく、義務でも、埋め合わせでもなく、もっと単純な理由から芽生えたものかと」
「単純な、理由……?」
ソーマの声が、わずかに掠れていた。この問いの答えを、本当は、ずっと知りたかったのかもしれない。誰かに、言葉にしてほしかったのかもしれない。
「ルドラ殿と、ディが、傷ついた姿を見たくなかったから。ただ、それだけではございませんか」
その一言に、ソーマの表情が、大きく揺らいだ。戦場で剣を振るう力ではなく、傷ついた者を癒す力。それは、劣等感の裏返しでも、埋め合わせの努力でもなく、この一家が、互いを想い合うがゆえに、ごく自然に育まれた、もう一つの強さなのだと。4歳の少女の口から紡がれたその言葉は、あまりに真っ直ぐで、あまりに的確だった。長年、自分自身にすら説明できずにいた感情の輪郭が、他者の言葉によって、初めて、形を得たかのようだった。
風が、一つ、訓練場を吹き抜けていく。砂塵が、わずかに舞い上がり、また静かに落ちた。ソーマは、しばらくの間、何も言わなかった。握られた手の先から伝わる、小さな体温だけを、確かめるように、じっと感じ入っている様子だった。
「……不思議な方だ、あなたは」
ようやく紡がれた言葉は、独り言のような響きを帯びていた。
「初めてお会いした時から、そう思っておりました。年端もいかぬはずなのに、時折、私よりも遥かに長く生きた者のような目をなさる。かと思えば、こうして、まるで昔からの友のような、飾らない言葉もかけてくださる」
「……畏れ多いお言葉にございます」
咄嗟に、いつもの完璧な礼で応じようとして、しかし、リゼルは、その言葉を、途中で少しだけ和らげた。
「ですが、ソーマ様のお心が、少しでも軽くなったのなら。それだけで、十分にございます」
「……リゼル嬢は、まことに、4歳とは思えぬことを仰る」
ソーマは、そう言って、小さく笑った。それは、これまで見せてきたどの微笑みよりも、深く、そして安らかなものだった。長年、胸の奥に凝り固まっていた何かが、ようやくほどけていくような、そんな笑みだった。
「ありがとうございます、リゼル嬢」
その声には、これまでのどの言葉よりも、深い安堵が滲んでいた。先ほどまで、無意識に右の袖を押さえていた手が、いつの間にか、力を抜いて下ろされている。
リゼルは、その変化に、内心で、そっと目を細めた。
(……よかった)
打算でも計算でもない、ただの安堵だった。この一瞬だけは、大魔王陛下への忠誠も、有能な人材の確保も、赤い瞳の奥に一旦沈められ、ただ、目の前の青年の笑みだけが、リゼルの胸を、静かに満たしていた。
「ソーマ兄ぃ、分かってくれた?」
ドゥルガーが、そう言って、ソーマの袖を軽く引っ張る。
「ああ。分かった、つもりだ」
「つもりじゃなくて、ちゃんと分かってよね」
「……努力するよ」
その掛け合いに、リゼルは、そっと目を細めた。硬さの取れたソーマの声と、それをからかうドゥルガーの笑顔。その二つが、ようやく釣り合いの取れた温度で、並んでいるように見えた。
ふと、リゼルは、周囲を見渡した。この訓練場だけを見れば、確かに賑わっている。だが、明日、大侯爵を招いての大武闘会が開かれるにしては、屋敷全体、そして街全体の空気が、思いのほか落ち着いていることに、今更ながら気がついた。
「ディ」
「ん?」
「明日、父上を歓迎するほどの大会があるにしては、この訓練場、それに屋敷や街全体が、随分と静かに思えます。もっと、慌ただしくなっているものかと」
「ああ、それ?」
ドゥルガーは、事もなげに笑った。
「ここは、稽古場の一つに過ぎないからだよ。アーシュラ領には、他にもたくさん修練場があるの。流派とか、派閥とか、種族ごとに分かれてて。武闘会の準備も、それぞれの場所で、それぞれのやり方で進めてるはず。明日になれば、みんな一斉に、闘技場の方に集まってくるよ」
「なるほど……。それぞれの流儀を、あえて一箇所に混ぜないということにございますね」
「そうそう。無理に一緒にすると、揉め事が起きやすいからって、とと様が昔決めたんだって。……まあ、それでも、明日は大荒れになると思うけど」
ドゥルガーは、そう言って、悪戯っぽく笑った。その笑みの奥に、明日への期待と、ほんの少しの緊張とが、同時に見え隠れしていた。
訓練場の向こうでは、相変わらず、ルドラの「次ぃ!!」という声が、絶え間なく響き続けていた。明日の武闘会には、ルドラとドゥルガーが、それぞれ闘技場に立つことになる。血を分けた兄妹が、同じ舞台で、それぞれの武を競い合う。
そして、ソーマは、その舞台には立たない。彼が立つのは、闘技場の外――怪我人が担ぎ込まれる、治療の天幕の中だ。剣を振るう代わりに、傷ついた者の手当てをする。戦う二人を、誰よりも近くで、しかし誰よりも違う形で支える。それが、明日のソーマの役割だった。
剣を振るう者。それを支える者。そして、その支えの意味を、ようやく受け止め始めた者。3人がそれぞれの形で立つ明日の光景を、リゼルは、内心に、静かに思い描いていた。夕刻に近づいた日差しが、遠くで戦い続けるルドラの輪郭を、金色に縁取っていた。




