Ver.1 JUGGERNAUT Chapter2-5 案内役はわたし!
翌朝、アーシュラ侯爵家の玄関先には、すでに旅装に近い軽装のリゼルと、その傍らに控えるメアの姿があった。
そして、その二人を待ち構えるように、ドゥルガーが仁王立ちしていた。昨夜、あれほど張り切って案内役を勝ち取った本人である。誰よりも早く支度を終え、誰よりも早く玄関先に陣取っていたらしい。4本の腕を大きく振って、満面の笑みで手を振っている。
「おっはよ、リゼル! メアさん!」
「おはようございます、ディ様」
リゼルは、穏やかな微笑みとともに、静かに膝を折る仕草で応じた。屋敷の中であろうと外であろうと、その所作に緩みはない。
「えへへ、待ってたよ! 支度、めちゃくちゃ早く終わらせちゃった!」
「昨夜、あれほど張り切っておられましたので、あるいはこうなるだろうと存じておりました」
「へへっ、バレてた?」
ドゥルガーは、悪びれるどころか、むしろ得意げに笑った。その屈託のなさに、リゼルは内心でわずかに思案する。案内役がドゥルガーになったことは、昨夜の食卓での成り行きとはいえ、決して悪い話ではない。
正規の従者による案内では、当たり障りのない見どころしか回らなかっただろう。だが、ドゥルガーが案内役ならば話は違う。領民との距離が近く、遠慮のない情報が拾える可能性が高い。ルドラの幼馴染や、兵たちの本音を聞き出すには、家族の口から語らせる方が、よほど早い。その打算は、赤い瞳の奥に静かに沈められた。表に出たのは、ただ穏やかな微笑みだけだった。
ドゥルガーは、待ちきれないというように、リゼルの手をきゅっと握った。
「メアさんも一緒だよね?」
「はい。私でよろしければ、ご一緒させていただきます」
メアが慌てて頭を下げる。ドゥルガーは、うんうんと満足げに頷いた。
「よし、行こう行こう! まずは鍛冶場! それから武具屋! あ、市場の果物屋のおばちゃんが、すっごい美味しい干し果実売ってるから、絶対寄る!」
言うが早いか、ドゥルガーはすでに歩き出していた。その足取りに、迷いはまるでない。メアは、リゼルの隣に並びながら、そっと囁いた。
「お嬢様……本当に、ディ様にご案内いただいて、よろしかったのでしょうか」
「ええ、構いません。むしろ、好都合です」
リゼルは、静かにそう答えて歩き出す。その横顔は、いつも通り穏やかだった。だが、メアには分かる。この主が「好都合」と口にする時は、たいてい何かを企んでいる時だ。かしこまりました、と口では答えながら、メアは諦めにも似た小さな溜息をつき、主の後ろに続いた。
* * *
アーシュラ領の空は、ヴァルクロア領よりも少し近く感じられた。実際に空が低いわけではない。ただ、街全体が朝から動いているせいで、空気が地面から押し上げられているように感じるのだ。
鍛冶場の煙、焼いた肉の匂い、兵士たちの掛け声、荷車の車輪が石畳を叩く音。まだ朝食を終えたばかりの時間だというのに、領都はすでに一日の半分を終えたかのような熱を帯びていた。
遠巻きにはアーシュラ家の護衛がついている。だが、カルガの意向もあり、あまり近くには寄らない。小さな大侯爵令嬢が街を見たいと言ったのだから、領民たちの自然な様子を見せてやりたい。そういう配慮だった。
メアは最初から緊張していた。ヴァルクロア家の領都と違い、アーシュラ領の街路は騒がしい。喧嘩をしているように聞こえる会話も、実際にはただの挨拶だったりする。
鍛冶屋の前では火花が飛び、肉屋の前では巨大な包丁が骨を叩き割り、子供たちは木剣を振り回しながら走っている。夜魔族の侍女見習いであるメアにとって、そのすべてが少々刺激的すぎた。
「リ、リゼル様……本当に大丈夫でございましょうか」
「何がですか、メア?」
「そ、その、皆様、とても勢いがおありですので……」
「良いことですよ、メア。領民の皆様が、朝から生気のない目をしていらっしゃる土地よりも、よほど健やかですもの」
リゼルの言葉は穏やかだったが、妙に実感がこもっていた。前世での記憶が、わずかに胸の底を掠める。朝から誰も笑わず、ただ満員電車に詰め込まれ、会社へ吸い込まれ、削られるだけの日々。あの世界の朝に比べれば、アーシュラ領の荒々しい朝は、ずっと生きている。リゼルは、街の匂いを嫌がらなかった。むしろ楽しそうに歩いた。
「でしょでしょ! アーシュラの朝は元気なんだから!」
ドゥルガーが、我が事のように胸を張る。案内役というより、故郷を自慢したくて仕方がない子供のような顔だった。
最初に足を止めたのは、武具屋の前だった。軒先には6腕用の籠手や、複数の柄を同時に扱うための特殊な武器留めが並んでいる。ヴァルクロア領ではあまり見ない造りだ。リゼルが興味深そうに見ていると、店主の男が気づいて、慌てて頭を下げた。
「こ、これは姫様方。それにディ様まで。こんなむさ苦しい店に、ようこそ」
「グラムじいさん、久しぶり!」
ドゥルガーが親し気に手を振る。店主――グラムは、目尻を下げて笑った。
「突然お邪魔いたしまして、申し訳ございません。こちらの籠手は、アスラ族の方々が複数の武器を扱うためのものでございましょうか」
「へえ、その通りでございます。上腕、中腕、下腕で力の入り方が違いますので、留め具の位置も少しずつ変えております。若様などは特に無茶をなさるので、普通の作りではすぐ壊されちまいまして」
「ルドラ殿が、でございますか」
リゼルの声が、わずかに明るくなる。
「そうそう、ルドラ兄ぃ、すぐ道具壊すんだよ! この前なんて、稽古の熱が入りすぎて、籠手ごと相手の盾を殴り飛ばしてたし!」
「盾ごと、でございますか」
「盾ごと! 相手の人、腰抜かしてたよ!」
店主は、それに気づいて少し得意げになった。
「ええ。ルドラ様は扱いが荒いんですが、武器を見る目はあります。使いにくいものは使いにくいと正直に言ってくださるし、良い出来のものはちゃんと使い続けてくださる。作り手としては、ありがたい相手です」
「なるほど。武具職人にとって、厳しい使用者は良い教師でもあるのでございますね」
「姫様、よく分かってらっしゃる」
店主の顔が明らかに緩んだ。リゼルは籠手の留め具や可動部を見ながら、いくつか質問を重ねた。
相手を試すような聞き方ではない。純粋に知りたいという態度だった。
武具屋の店主は最初こそ大侯爵令嬢に緊張していたが、次第に職人としての口調になり、アーシュラ族の腕の使い方や、ルドラの壊し方の癖まで話し始めた。ドゥルガーも合いの手を入れるように、兄ルドラの失敗談を次々と披露する。
メアは横で聞きながら、内心で小さく震えていた。お嬢様は、もう職人の方から情報を引き出していらっしゃる。しかもディ様まで加勢して。本人は楽しく会話しているだけに見える。だが、聞いている内容は明らかに武具、戦闘、ルドラの癖に関するものだった。
次に立ち寄ったのは、肉屋だった。店先には巨大な肉塊が吊るされ、朝から湯気の立つ鍋が置かれている。店主は太い腕で包丁を振るいながら、リゼルを見るなり豪快に笑った。
「おお、噂の姫様か! 屋敷の方じゃ、昨日、えらい歓迎ぶりだったって聞いたぞ!」
「おっちゃん、あたしも! あたしも案内役してるんだよ!」
ドゥルガーが胸を張って割り込む。肉屋の店主は、からからと笑った。
「そりゃ心強い案内役だ。姫様、道に迷わずに済みますな」
「はい、大変心強く思っておりますわ」
リゼルは静かに微笑んだ。
「こちらには、ルドラ殿もよくいらっしゃるのですか」
「ああ、来る来る。食う量が多いからな。訓練後なんざ、肉を渡さないと腹を鳴らしたまま兵士をしごき始める。あと、こっちが腰を痛めた時に、黙って荷を運んでいったこともあったな」
「黙って、でございますか」
「礼を言うと怒るんだよ。『邪魔だったからどかしただけだ』ってな。まったく、あの若様は口が悪い」
そう言いながら、肉屋の親父の顔は優しかった。
「ルドラ兄ぃ、本当は優しいんだけどね」
ドゥルガーが、少し照れたように呟いた。
「素直じゃないだけ。あたしにも、たまーに、こっそり甘いもの分けてくれたりするし」
「まあ、そうなのですね」
「あ、今のは内緒ね! ルドラ兄ぃに言ったら怒られる!」
リゼルはそれを見逃さない。口が悪い、態度が悪い、それでも領民はルドラを嫌っていない。むしろ、その裏にあるものを理解している。
「良い若様なのですね」
リゼルがそう言うと、肉屋の親父は一瞬きょとんとした後、大きく笑った。
「分かるかい、ヴァルクロアのお姫様!」
「はい。皆様からのお慕われ方から察することができます」
「ならお姫様はいい人だ。若様のことを怖がる貴族の坊ちゃん嬢ちゃんは多いんだが、あの方は根っこじゃ領の者を見捨てねぇ。喧嘩っ早いし、口は悪いし、よく食うが、アーシュラの誇りだよ」
リゼルは、丁寧に頭を下げた。
「教えてくださり、ありがたく存じます」
肉屋の親父は照れたように鼻をこすり、焼きたての肉串を差し出そうとして、慌てて手を止めた。大侯爵家の姫君に道端の肉串を渡してよいものか、一瞬判断に迷ったのだ。だが、リゼルは微笑んだ。
「一つ、頂戴してもよろしいでしょうか。この土地の味を、ぜひ知りとうございます」
「え、よろしいので?」
「あたしも! あたしも一本!」
ドゥルガーが即座に手を挙げる。肉屋の親父は苦笑しながら、2本の串を用意した。メアは一瞬ぎょっとしたが、リゼルは落ち着いていた。肉屋の親父は嬉しそうに、なるべく小さめで食べやすい串を選び、丁寧に包んで差し出した。リゼルはそれを受け取り、小さく一口かじった。味は濃く、香辛料も強い。だが、悪くない。
「美味しゅうございます」
その一言で、肉屋の親父の顔が輝いた。周囲にいた領民たちも、ざわりと明るくなる。大侯爵家の小さな姫君が、アーシュラの街の肉を嫌がらず、美味しいと言った。それだけで、彼らにとっては十分だった。
メアは後ろで控えながら、ますます混乱していた。厨房であれほど厳しかったお嬢様が、今は領民の方々と自然にお話しして、肉串まで召し上がっている。やはり二重人格でいらっしゃるのでは――いえ、不敬です。けれど。メアの悩みは深まるばかりだった。
* * *
その後も、リゼルは街を見て回った。鍛冶場は、武具屋よりもさらに熱気がこもっていた。炉の炎が絶えず唸り、真っ赤に焼けた鉄が金床の上で跳ねる。飛び散る火の粉が、朝の光の中で一瞬だけ橙色に瞬いては消えていった。
その一角で、ルドラ用の訓練籠手を修理している老女と出会った。皺だらけの手で金槌を握るその姿は、年齢を感じさせない確かさがある。老女は最初、大侯爵令嬢相手にどう接すればよいか戸惑っていたが、ドゥルガーが「あたしの友達だから!」と気安く紹介すると、すぐに肩の力を抜いた。
「ルドラ様は無茶をするからね。普通なら1年持つ留め具を3日で歪ませるんだよ」
「それほど強い負荷をかけておられるのでございますね」
「強い負荷なんてもんじゃないよ。あれは道具を敵だと思ってるんだ」
「ルドラ兄ぃ、稽古中は本当に鬼みたいな顔してるからね! あたし、たまに覗きに来るけど、見てるだけで怖いもん!」
ドゥルガーが横から、両手で顔を覆うふりをして大げさに震えてみせる。老女は、それを見て、からからと笑った。
「ですが、壊れる箇所が分かれば、改良も進むのではございませんか」
リゼルがそう言うと、老女はにやりと笑った。
「姫様、分かってるね。そうなんだよ。ルドラ様は壊し方が派手だから、どこを強くすべきかよく分かる。腹は立つが、鍛冶屋泣かせで鍛冶屋育てでもある」
「素晴らしいご関係でございますね」
「はっ、そう言われると悪くないね」
老女は笑い、リゼルに小さな金具の構造を見せてくれた。指先で示された継ぎ目には、幾度も打ち直された跡が幾重にも重なっている。リゼルはそれを真剣に観察した。前世のゲーム画面では、装備品は数値でしかなかった。攻撃力、防御力、耐久値、特殊効果。だが、ここには実際にそれを作る職人がいて、使う者の癖に合わせて調整している。
ゲームでは見えなかった部分だ。リゼルは内心で頷いた。この世界の戦力は、キャラクター単体だけでは成り立たない。職人、食糧、訓練場、領民の士気、全部が繋がっている。彼女にとって、それは非常に面白い発見だった。
「そういえば、ソーマ兄ぃもよくここに来るんだよ」
ドゥルガーが、ふと思い出したように言った。
「ソーマ兄ぃの武具は見にこないけど、金具の歴史とか、古い鍛冶の技法とか、そういうのを聞きにくるの。おばあの若い頃の話とか、すっごい熱心に書き留めてる」
「ソーマ様が……」
「うん。ソーマ兄ぃ、剣は振れないけど、道具のこととか、この土地の成り立ちとか、そういうのはすっごく詳しいんだよ。あたしより、よっぽど物知り」
老女も、うんうんと頷いた。
「ソーマ様は、話し相手としちゃ一番だね。ルドラ様と違って、こっちの話をちゃんと最後まで聞いてくださる」
「あたしも聞いてるよ! ……途中で飽きるけど」
ドゥルガーが、悪びれもせず付け加える。老女が呆れたように笑った。
リゼルは、静かにその言葉を胸に留めた。武の家でありながら、知の柱もいる。悪くない。むしろ、理想的な均衡だ。
鍛冶場を後にする頃には、炉の熱でうっすらと額に汗がにじんでいた。表通りへ戻ると、朝の空気がひときわ涼しく感じられる。
やがて子供たちが集まってきた。昨日、遠目にリゼルを見た者もいるのだろう。最初は遠巻きにしていたが、ドゥルガーの姿を見つけると、砂埃を巻き上げながら、堰を切ったように駆け寄ってきた。
「ディ様だ!」
子供たちの声が重なり合い、乾いた石畳を裸足やすり減った靴で踏み鳴らす音が、次々と近づいてくる。
「ディ様、今日も稽古つけてくれる?」
「今日はリゼルの案内中! また今度ね!」
ドゥルガーがそう言うと、子供たちは残念そうな声を上げつつも、すぐに興味の対象をリゼルへ移した。
「姫様、ほんとに若様のこと知ってるの?」
「昨日、お会いいたしました」
「怖くなかった?」
「怖くはございませんでしたよ」
「すごい! 他所の子は泣いたことあるよ!」
リゼルは小さく笑った。その笑い方があまりに自然だったので、子供たちはさらに距離を詰める。
「若様はね、すっごい強いんだよ!」
「でも怒ると怖いよ!」
「転んだら泣くなって言うけど、薬草くれる!」
「この前、訓練で勝った人に肉おごってた!」
「負けた人にもおごってた!」
「それは、皆様に平等に、おごっているということでございましょうか」
リゼルが尋ねると、子供たちは「あ」と顔を見合わせた。そして笑った。
「あはは! やっぱそうじゃん!」
ドゥルガーも一緒になって笑う。子供たちとの距離の近さは、案内役というより、もはや遊び仲間のそれだった。リゼルも微笑んだ。
「ルドラ殿は、皆様に慕われておられるのですね」
「うん!」
「若様はアーシュラの誇りだって、父ちゃんが言ってた!」
「俺も若様みたいになる!」
「私は若様を倒す!」
「無理だよ!」
「無理じゃない!」
子供たちが騒ぎ出す。メアは慌てかけたが、リゼルは楽しそうにそれを見ていた。荒々しい、騒がしい、礼儀正しいとは言えない。だが、そこには健やかな憧れがあった。
リゼルは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。前世のゲームで見たルドラは、強力な戦闘ユニットだった。戦場で敵を砕き、前線を押し広げ、育てれば極めて頼もしい駒になる。そういう存在だった。
だが、今この街で語られるルドラは、ただのユニットではない。街の者に愛され、子供たちの目標となり、職人たちに叱られながら支えられている一人の少年だった。
良い、とても良い。この領地は、ルドラを育てている。そしてルドラもまた、この領地に求められている。それはゲームの数値だけでは分からなかった価値だった。
リゼルは子供たちへ向き直り、柔らかく言った。
「皆様がそれほど誇りに思う若様なら、きっと素晴らしい方なのでございましょうね」
子供たちは、ぱっと顔を輝かせた。
「姫様、若様のこと褒めてくれた!」
「いい人だ!」
「姫様もアーシュラ好き?」
「はい。とても良い土地だと存じますわ」
その瞬間、周囲の大人たちの表情も明るくなった。アーシュラ領の者たちは、自分たちの土地が洗練された貴族家からどう見られやすいかを知っている。
荒い、野蛮、汗臭い、礼を知らない。そう言われることも少なくない。だが、リゼルはそう言わなかった。
鍛冶場を嫌がらず、肉屋を見下さず、子供たちの騒がしさを咎めず、ルドラを粗暴な少年と決めつけなかった。それだけで、彼らにとってリゼルは好ましい客人になった。
ドゥルガーは、そんなリゼルの横顔を、少し誇らしげに眺めていた。リゼルが、ちゃんとアーシュラのことを分かってくれている。彼女にとっても、故郷を軽んじられないというのは、単純に嬉しいことだった。
メアは横でその様子を見ながら、胸の中で何度目かの呟きを漏らした。お嬢様は、やはり二重人格でいらっしゃるのでは。
もちろん口には出さない。だが、疑念はますます深まった。




