Ver.1 JUGGERNAUT Chapter2-4 晩餐の余韻と、明日への布石
その日の晩餐は、和やかな空気の中で終わりを迎えようとしていた。ルドラは、結局、あの夕刻近くの厨房での一幕を除いて、姿を見せることはなかった。晩餐の席にも、最後まで現れなかった。表情には出さぬまま、リゼルは密かに肩を落としたものだったが、それ以外の面々が揃った食卓は、思いのほか賑やかなものだった。
カルガは、昼間の厨房での顛末を、幾度となく話題に持ち出しては、6本の腕を大きく揺らして愉快そうに笑い転げた。薪割り100本、乳搾り、貯蔵庫の総点検――語るたびに尾ひれのついていくその武勇伝に、給仕の者たちまでもが、つられて肩を震わせる始末だった。一方のマヒーシャは、その隣で、笑うに笑えぬ顔をしていた。娘の教育のためにあの徹底ぶりを取り入れたいとすら思う一方で、思い出すたびに頬がひくりと引き攣る。感心と恐怖とが、綺麗に半分ずつ同居しているような、なんとも言えない表情だった。
ソーマは、食事の合間、リゼルへ幾度となく話しかけていた。魔術理論の話、古代語の話、時には他愛のない世間話。話題が移ろうたびに、あの柔らかな笑みが向けられる。リゼルは、その一つ一つに、涼やかに応じてみせた。だが、ふとした拍子に視線が交わる瞬間、あの朝の「推せる」の一件が脳裏をよぎるのだろう、頬にほんのりと朱が差す場面が、幾度かあった。誰にも気づかれぬよう、すぐに元の完璧な微笑みへ戻すのだが、隣に座るメアだけは、その変化を見逃さなかった。
そして、ドゥルガーである。彼女は、昼間の菓子作りに自分が参加できなかったことを、心底悔しがっていた。
「なんで! なんであたし呼んでくれなかったの! また! また今度、お料理教室やろうよ! リゼル、お料理教室ぅ!!」
4本の腕を、行儀悪くばたつかせながら、本気で駄々をこねる様は、齢10歳の令嬢というより、聞き分けのない幼子そのものだった。マヒーシャに「行儀が悪い」とたしなめられても、しばらくは唇を尖らせたまま、なかなか収まらなかった。
その騒動の隅で、静かに項垂れていたのが、メアである。彼女は、あの日、リゼルの命により、実に幾度も厨房を飛び出しては走らされた。後から聞いた話によれば、その総距離は、アーシュラ侯爵領をほぼ一周するに等しい長さだったという。晩餐の間、メアはずっと、椅子に座っているだけで精一杯といった様子で、時折、思い出したように、脚をさすっていた。
そんな一同の様子を、末席から静かに眺めていたのが、オルディアスだった。娘が引き起こした騒動の全貌を、断片的にではあるが晩餐の会話から拾い集めるうちに、その胃は、また一段と重く締め付けられていくのを感じていた。
(また、やらかしたのか、リゼル……)
だが、それを口に出す気力も、もはや、あまり残っていなかった。詳らかに語るには、あまりに多くの皿と、あまりに多くの笑い声があった――とだけ記しておけば十分だろう。
* * *
夕食後、アーシュラ侯爵家の食堂には、柔らかな余韻が残っていた。
リゼルの指導によって完成したショートケーキは、カルガ・ザン・アーシュラ侯爵にも、侯爵夫人マヒーシャにも、そしてルドラにも好評だった。特にマヒーシャは、4本の腕のうち2本で皿を支え、もう2本で優雅にフォークを扱いながら、珍しく目元を緩めていた。
「本当に見事なお菓子ね。甘いのに重くなくて、果実の酸味もよく合っているわ。これなら、武門の家の食卓にも合うでしょう」
「お口に合いましたなら、幸いにございます」
リゼルは小さく微笑み、自分の皿の上のケーキを満足そうに食べていた。その姿だけ見れば、菓子を楽しむ4歳の令嬢である。厨房でアーシュラ家の料理人たちを礼儀正しく、丁寧に、しかし容赦なく鍛え上げた鬼教官には見えない。
メアはリゼルの後ろに控えながら、食堂の隅にいる料理人たちへ密かに視線を向けた。料理人たちは主君たちの反応を見て感極まっているが、その顔には疲労が濃く残っている。腕が震えている者もいれば、壁に寄りかかっている者もいる。6本腕の料理長など、達成感と疲労困憊の境目で魂が抜けかけていた。
(アーシュラ家の料理当番の皆様方……本当に、大丈夫でしょうか……)
メアは心の中でそっと祈った。
リゼルは暴言を吐かなかった。怒鳴りつけもしなかった。他家の者への礼を欠くような真似は一切していない。だが、敬語で、笑顔で、正論で、相手ができるようになるまで決して妥協しなかった。その結果、アーシュラ家の厨房は見事なショートケーキを作り上げ、同時にほぼ全員が燃え尽きた。
(お嬢様は……本当にどちらが本当のお姿なのでしょう……)
メアは本気で悩み始めていた。
今のリゼルは、満足そうにケーキを食べる可憐な姫君である。だが厨房では、40年以上料理をしてきた料理長に「最後の10回で力が入りました」と正確に指摘し、若い料理人に「果実の厚みが2度ほど甘うございます」と言い放った。しかも本人は善意である。恐ろしいほど純粋な善意で、厨房全体を限界まで追い込んだ。
メアの脳裏に、ひどく不敬な考えが浮かぶ。
(もしかして、お嬢様は二重人格でいらっしゃるのかしら……)
すぐに打ち消した。
だが完全には消えなかった。
一方、オルディアスは穏やかな顔で茶を口に運びながら、内心では頭を抱えていた。
(到着して半日も経たぬうちに、アーシュラ家の厨房へ深い爪痕を残した……)
結果だけ見れば、リゼルの振る舞いは見事だった。アーシュラ家への土産は喜ばれ、製法の伝授も成功し、当主夫妻からの評価も高い。料理人たちは疲弊こそしているが、技術を得たことは間違いない。外交的には、むしろ大成功である。
しかし、父としては納得しきれない。
4歳の娘が、他家の厨房を1刻あまりで支配下に置く。
それをどう受け止めればよいのか、オルディアスには分からなかった。
食事が一段落したところで、リゼルはフォークを置き、カルガへ向き直った。
「アーシュラ侯爵閣下」
「うむ、何かな、リゼル嬢」
「明日の午前、もし差し支えなければ、貴領を少々見学させていただいてもよろしいでしょうか。今日、馬車より拝見しただけでも、この地にはヴァルクロアとは異なる力強い活気が満ちているように感じました。ぜひ、街の空気を近くで学ばせていただきたく存じます」
カルガは愉快そうに笑った。
「はっはっは! 嬉しいことを言ってくれる。我が領は見られて困るようなものなどない。鍛冶場も、武具屋も、訓練場も、好きに見るといい」
「ありがとうございます」
「案内役をつけよう。アーシュラの街は少々騒がしいからな。ヴァルクロアの姫君には驚くことも多いだろう」
「はいはいはいっ! あたしがやる!」
声を上げたのは、ドゥルガーだった。4本の腕すべてを、勢いよく高く突き上げている。
「あたしが案内する! 街のことなら、屋敷のどの従者よりも詳しいもん!」
カルガが、苦笑交じりに娘を見た。
「これ、ディ。客人への案内は、粗相のないよう従者に任せるのが筋というものだぞ」
「平気平気! 粗相なんてしない! むしろあたしの方が、面白い場所いっぱい知ってるもん!」
食い下がるドゥルガーに、マヒーシャがくすりと笑った。
「まあ、この子がそこまで言うのなら……リゼル嬢、いかがかしら。口は悪いけれど、根はまっすぐな子ですのよ」
リゼルは、内心で小さく頷いた。
(好都合だ。家族の口から語られる情報は、正規の従者の案内よりも価値が高い)
「ディ様が案内してくださるのでしたら、これほど心強いことはございません」
「でしょ!? 決まりね!」
ドゥルガーは、満足げに4本の腕を組んで胸を張った。
「お気遣い、感謝いたします。メアも同行させていただいてよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
カルガは大きく頷いた。
マヒーシャも楽しげにリゼルを見る。
「リゼル嬢は怖くないの? うちの領都は、大貴族のお嬢様が散歩するには少し賑やかすぎるかもしれないわよ」
「恐ろしいとは思いません。むしろ、戦う者が戦うことを恥じていない土地は、とても美しいと感じます」
その言葉に、カルガとマヒーシャの表情が変わった。
ただ褒められたからではない。
リゼルは、アーシュラ家の本質を軽んじなかった。汗、鉄、訓練、闘気、武具、荒々しい声。それらを粗野なものとしてではなく、誇るべき土地の気風として受け止めた。
カルガは満足そうに笑い、マヒーシャは興味深げに目を細める。
「面白い子ね、あなた」
「うむ。さすがはオルディアス大侯爵閣下の御息女だ! 我が家のバカ娘にもその礼法やその叡智を授けて頂きたいものだ はっはっはっ!!」
「過分なお言葉、恐悦にございます」
リゼルは礼儀正しく頭を下げた。
だが、その内心では、かなりテンションが上がっていた。
(よし。明日、アーシュラ領を直接見て回れる。鍛冶場、武具屋、訓練場、兵の質、領民の気質。ゲーム画面では分からなかった情報が取れる。さらに、ルドラの評価を領民から直接聞ける可能性が高い)
リゼルは表情を崩さない。
しかし心の中では、すでに翌日の調査計画が高速で組み立てられていた。
(ルドラ・ザン・アーシュラ。序盤加入候補としては破格の前衛。だが、ゲーム知識だけで判断するのは危険だ。この世界での本人の気質、領民との関係、父母からの評価、兵たちの認識。全部確認する価値がある)
リゼルはとても機嫌が良かった。
父から見れば、ただ静かに微笑んでいるだけに見える。
だが、オルディアスは最近、娘の静かな微笑ほど信用してはならないものはないと学びつつあった。
(まずい。今、何かを考えている顔だ)
オルディアスの背筋に、薄く嫌な予感が走る。
リゼルが明日、ただ領内を散歩して終わるとは思えない。かといって、アーシュラ侯爵が快く許可した以上、父がここで止めるのも不自然である。しかも、娘の申し出は礼儀正しく、内容も問題がない。相手の領地を知りたいという姿勢は、外交の場ではむしろ好ましい。
(止める理由がない。止める理由がないことが、これほど不安とは……)
オルディアスは、茶をもう一口飲んだ。
メアもまた、リゼルの後ろで静かに嫌な予感を覚えていた。
(お嬢様が、とても楽しそうでいらっしゃいます……)
普通なら喜ばしいことだ。
主人が楽しそうなら、侍女としては嬉しい。
だがメアは知っている。リゼルが静かに楽しそうな時、たいてい何か普通ではないことを考えている。厨房でショートケーキ指導を始めた時も、まさにこういう顔をしていた。
(明日……何も起きませんように……)
メアは心の中で祈った。
もちろん、その祈りが叶う保証はどこにもなかった。
* * *
その後、話題は自然とアーシュラ家の武風へ移っていった。
カルガは、ヴァルクロア家への歓迎として、2日後に小規模な武闘大会を催したいと申し出た。小規模とは言っても、それはアーシュラ家基準での話である。領内の若い戦士や訓練兵たちが腕を競い、客人へ家の気風を披露する。武門の家にとっては、これ以上ない歓迎の形だった。
「閣下。2日後、もしご予定が許すならば、我がアーシュラ家の若い者たちによる武闘大会をご覧いただきたく存じます。大侯爵閣下をお迎えするには粗野な余興かもしれませんが、我が家の者たちにとっては、武を示すことこそ最大の礼でございます」
オルディアスは、表情を整えたまま頷いた。
「それはありがたい。アーシュラ家の武勇を拝見できること、楽しみにしております」
返答は完璧だった。
大侯爵として、これ以外の答えはない。
武門の家が武をもって歓待する。それを拒めば、相手の誇りを傷つける。ましてアーシュラ家は、今日すでにリゼルの菓子と製法を受け入れ、こちらへ大きな好意を示している。ならば、こちらも相手の歓待を喜んで受けるべきだった。
だが、内心では別である。
(武闘大会……2日後……そして明日はリゼルが領内見学……)
嫌な予感しかしなかった。
何がどう繋がるのかは分からない。
だが、リゼルがアーシュラ領を見て回り、ルドラという少年がいて、さらに武闘大会が開かれる。これだけ材料が揃っていて何も起きないと考えるほど、オルディアスはもう楽観的ではなかった。
隣でリゼルは、静かに微笑んでいる。
だが内心では、さらにテンションが上がっていた。
(武闘大会か。素晴らしい! ルドラの実戦形式の動きが見られる。アーシュラ家の兵の平均値も確認できる。武具、訓練体系、指揮系統、観客の反応、全部見られる。これは良い。とても良い)
リゼルの赤い瞳は、あくまで礼儀正しく伏せられていた。
しかし、その奥では前世のゲーム知識と今世の情報が噛み合い始めている。
(アーシュラ家は、やはり早めに押さえるべきだ。ルドラ本人だけでなく、領全体の戦力基盤が強い。これが味方になるなら、人間界侵攻時の前線構築が大きく変わる)
リゼルは、満足そうに茶を口へ運んだ。
メアはその横顔を見て、さらに不安になった。
(お嬢様が……とても、とても楽しそうでいらっしゃいます……)
それは可愛らしい笑顔だった。
だがメアには、厨房で料理長たちを限界まで追い込んだ時と同じ種類の輝きにも見えた。
(明日、本当にただの見学で終わるのでしょうか……)
メアはそっと目を伏せた。
オルディアスも同じようなことを考えていた。
(頼む。明日は本当に見学だけにしてくれ)
父と侍女の祈りは、奇しくも一致していた。
しかし、リゼル・ノクス・ヴァルクロアは、ただの見学で満足するような4歳児ではなかった。




