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パンデモニウム・リベリオン  作者: 鎌竹のぶみ


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Ver.1 JUGGERNAUT Chapter 2-3 無茶振りキッチンスタジアム

 翌朝、リゼルはメアを伴い、アーシュラ侯爵家の厨房へと足を運んだ。


 普段であれば、4歳の令嬢が厨房に立ち入ることなど、あってはならない話である。だが、これはあくまで「ご指導」の場だった。マヒーシャ自らが立ち会うと申し出た手前、誰もそれを咎めることはできなかった。

 

 厨房に集まった料理人たちは、皆一様に、淡い茶色の作業着に身を包んでいた。アーシュラ家の紋章が控えめに刺繍された、質実剛健な意匠である。マヒーシャもまた、同じ色合いのエプロンを、貴婦人らしい上品さを損なわぬ形で纏っていた。

その中で、ただ一人。


 リゼルだけが、黒一色の装いだった。丈の合わせられた黒いコックコートに、同じく黒いコック帽。四歳の小さな体には、いささか大仰にも見える出で立ちだったが、纏う空気そのものが、すでに只者ではなかった。


「本日は、お集まりいただきありがとうございます」

リゼルは、厨房の中央に進み出ると、集まった料理人たちを、ゆっくりと見渡した。


「お菓子作りに、近道はございません」


 その声は、いつもの令嬢然とした声音とは、どこか違っていた。


「手間暇をかけ、手順を一つも間違えなければ、必ず到達できます。甘美なるスイーツの世界へ」


 厨房に、しん、と沈黙が落ちた。

 

 誰も、何も言わない。言えなかった、というのが正しい。四歳の令嬢が語る「甘美なるスイーツの世界」という言葉の意味を、誰一人として、正確には理解できていなかった。


 料理長らしき初老の男が、隣の同僚に、そっと耳打ちする。


「……何を仰っているのだ?」


「さあ……お労しいことに、少々、お疲れなのでは」

その囁きは、幸い、リゼルの耳には届いていなかった。


   *

 

 厨房の壁には、大きな黒板が用意されていた。そこに、見慣れぬ文字がびっしりと書き連ねられている。魔界の古語にも似た、しかし微妙に異なる記号の羅列だった。


「こちらが、本日の手順にございます」


 リゼルが、黒板を指し示す。

 

 材料表には、こう記されていた。


――魔鶏卵、四つ。上白の霜糖、百二十匙。精白の粉、百匙。芳醇なる乳酪脂、九十匙。冷えた白露の乳、少々。真紅の森実、一房。


 料理人たちは、その文字列を、真剣な顔で見つめていた。誰も、これが遠い異世界の菓子の製法であることなど、知る由もない。だが、丁寧に読み解けば、卵、砂糖、小麦粉、バター、生クリーム、苺――ごくありふれた材料が、そこには並んでいた。


「メア」


「は、はい!」


「あなたは、マヒーシャ様の助手を務めなさい」


「か、かしこまりました!」


 メアが、緊張した面持ちで頷く。マヒーシャは、その様子を微笑ましそうに見つめていた。


「では、始めます」


 リゼルの号令とともに、厨房の空気が、一変した。


   *


「まず、生地を作ります。魔鶏卵と霜糖を、大きな盆に入れ、白く、もったりとするまで泡立てます」


 料理人たちは、それぞれの持ち場で、手際よく作業を始めた。厨房で長年腕を磨いてきた者たちである。基礎的な混ぜ物の作業自体は、造作もないことだった。


 だが、

「はい、そこ!」


 リゼルの声が、鋭く飛んだ。


 指名されたのは、体格の良い、いかにも力自慢といった様子の若い料理人だった。


「スポンジ生地の材料を、そのように力一杯混ぜては、固まります。膨らみません」


「し、しかし、しっかり混ぜねば……」


「しっかりと、力任せは、違います。優しく、大きく、円を描くように。……どうやら、力が有り余っておられるようですね」


 リゼルは、静かに、しかし有無を言わせぬ声で告げた。


「あなたは、屋敷の周りを十周走ってきてください」


「――は?」


「力を、外で発散してきてください、ということです。ーー行ってらっしゃいませ」


 若い料理人は、呆然とした顔で、周囲を見渡した。誰も助け船を出さない。マヒーシャすら、口元を押さえて、必死に笑いを堪えている。


「い、行って参ります……!」

 

 観念したように、彼は厨房を飛び出していった。


   *


 続いて、果実の下処理が始まった。


「真紅の森実は、薄く、均等に切り分けます。断面の美しさが、そのまま生地の見栄えに直結いたしますので」


 別の料理人が、手にした果実を、無造作にざくざくと刻んでいく。実の断面は不揃いで、ところどころ潰れてしまっていた。

「あなた!」


リゼルの声が、再び飛んだ。


「果物が、雑です」


「も、申し訳ございません、リゼル様。ですが、この森実は硬うございまして」


「魔界において、果物は貴重品です。一つ一つに、農家の方々の手間がかかっているのです。それを、このように雑に扱うなど、断じて許されません」


 リゼルは、腕を組み、厳かに告げた。


「いいでしょう。今から、追加を収穫してきてください」


「え……本気で仰っておられるので……?」


「当然、本気です」


「し、しかし、この時期の森には、ベヒーモスが出ると……」


「走れば、逃げられます」


 にっこりと、リゼルは微笑んだ。その微笑みは、いつもの完璧な大侯爵令嬢の笑みと、寸分違わぬものだった。だからこそ、なおのこと、逆らい難い圧があった。


「行って参ります……!」


 その料理人もまた、悲鳴に近い声を上げながら、厨房を飛び出していった。


   *


 残された者たちは、もはや戦々恐々としていた。誰もが、無駄口を叩かず、手元の作業に集中している。厨房には、ただ、混ぜる音、切る音、そしてリゼルの静かな指導の声だけが響いていた。


   *


「では、次に、窯の火加減にございます」

リゼルは、窯の前に立つ、恰幅の良い料理人へ、にこやかに歩み寄った。


「手をかざして、三つ数えられる程度の温もりが目安です。……あなた、少し強すぎませんか」


「い、いえ、これくらいがちょうど……」


「手をかざしてご覧なさい」


 にっこりと促され、料理人は、恐る恐る手を窯にかざした。一つ、二つ――そこで、慌てて手を引っ込める。


「……申し訳ございません」


「いいえ、よろしいのです。誰にでも、間違いはございます」


 リゼルは、優しく微笑んだ。だが、その笑みは、なぜか少しも安心を誘わなかった。


「ただ、この火加減で焼けば、表面だけが焦げ、中心まで火が通りません。当然、生地は台無しになります。台無しになった生地を、あなたはどうなさるおつもりですか」


「そ、それは……」


「わたくしが決めた材料の分量は、無駄にしてよいものではございません。一つ一つが、農家の方々の手間の結晶にございますので」


「も、申し訳ございません……!」


「謝罪は結構です。正しい火加減を、体で覚えていただければ」


 リゼルは、そう言うと、窯の扉を、優雅な仕草でそっと調整した。


「さあ、これで結構です。……ですが、これだけでは、あなたの体には染み込んでいませんね」


「え……」


「今から、薪を百本、割ってきてくださいませ。割り終えたものを、ここまで運んでいただければ、それで結構にございます」


「ひゃ、百本……!?」


「火を扱う者は、火の元となる薪の重みも、その手で知っておくべきかと存じます」


 にっこりと微笑むリゼルの前で、恰幅の良い料理人は、もはや逆らう気力すら失っていた。


「……行って参ります」


 その理屈は、確かに、一理あるように聞こえた。聞こえたのだが、なぜか誰も、納得はできなかった。


   *


 砂糖の計量を担当していた若い娘が、匙で山盛りにすくった白糖を、勢いよく生地へ投じようとした、その時だった。

「お待ちなさい」


 リゼルの声に、娘の手が、ぴたりと止まる。


「砂糖は、一度に入れるものではございません。三度に分けて、様子を見ながら加えます。目安は、匙にして小さじ三杯分ずつ」


「は、はい」


「今、あなたが入れようとしていたのは、優に十杯分はございました」


「そ、そんなに……?」


「甘さの均衡が崩れれば、この菓子の繊細さは、根本から損なわれます。多すぎる甘さは、もはや優しさではなく、暴力にございます」


 その言葉に、居合わせた誰もが、なぜか自分自身が糾弾されたかのような気持ちになった。


「量り直してくださいませ。今度は、正確に」


「か、かしこまりました……!」


 娘は、震える手で、匙を持ち直した。だが、リゼルの視線は、まだ彼女から離れなかった。


「それと、量の感覚を、しっかりと体に叩き込んでいただきたく」


「は、はい……?」


「厨房の外に、井戸がございますでしょう。そこから、水を桶に汲み、匙で量りながら、この鍋に八十杯分、注ぎ足してきてくださいませ」


「さ、匙で……八十杯……!?」


「目分量ではなく、必ず匙で。数を誤れば、最初からやり直しにございます」


 娘は、真っ青な顔で、匙と桶を抱え、よろよろと厨房を出ていった。


「量の恐ろしさを、骨身に染み込ませていただければ、それで結構にございます」


リゼルは、満足げに、小さく頷いた。


   *


 生クリームの下拵えを担っていた別の料理人が、材料を冷やす手順で、つまずいていた。


「あの、リゼル様。乳酪脂は、どの程度冷やせばよろしいでしょうか」


「触れて、指がわずかに痛みを感じる程度にございます。冷やしすぎれば、固くなりすぎて泡立ちません。冷やし足りなければ、分離いたします」


「わ、分かりました」


「ちなみに、これは室温にも左右されます。本日のような気候であれば、魔導の冷蔵庫にて、四半刻ほどが目安かと」


「し、四半刻、にございますね」


「はい。……時間を計るのを、忘れないでくださいませ」


 リゼルは、そう言うと、微笑んだまま、傍らに置かれた砂時計を、そっと料理人の手元へ滑らせた。何も言わずとも、その一連の所作だけで、十分すぎるほどの圧力があった。


   *


 出来上がった生地の一部を、あらかじめ保存に回す手筈になっていた。担当の料理人が、焼き上がったばかりの生地を、そのまま棚へしまい込もうとする。

「お待ちなさい」


 またしても、リゼルの声が飛んだ。


「粗熱を取らずに仕舞えば、生地の中に湿気がこもります。そうなれば、翌日には、口当たりが台無しになるでしょう」


「し、失礼いたしました」


「布巾を一枚、下に敷いてくださいませ。それから、風の通る場所で、しばし冷ましてから。……急いては、事を仕損じます」


 その一言は、静かで、穏やかで、それでいて、有無を言わせぬ重みを持っていた。料理人は、ただ黙って頷き、言われた通りに、生地を丁寧に扱い始めた。

だが、リゼルの言葉は、それだけでは終わらなかった。


「それと、もう一つ」


「は、はい」


「保存の基本を誤られたということは、貯蔵庫にある他の品々にも、同様の誤りがあるやもしれません。……マヒーシャ様」


 リゼルは、そこで、マヒーシャへと向き直った。


「畏れながら、この者に、貯蔵庫内の品々を、一通り点検させていただいてもよろしいでしょうか。傷みかけている物があれば、早めに見つけ出す方が、貴家のためにもなるかと存じます」


 マヒーシャは、少し考えてから、頷いた。


「……確かに、それは一理ありますわね。よろしくてよ」


「ありがたき仰せにございます」


 リゼルは、料理人へと向き直った。


「では、貯蔵庫の品々を、端から端まで、一つ残らず点検してきてくださいませ。傷み具合、保存の状態、全てを紙に書き留めて、後ほど報告を」


「た、端から端まで、にございますか……」


「厨房の要である貯蔵庫を、正しく守れる者になっていただければ、それで結構にございます」


 料理人は、諦めたように肩を落とし、点検用の紙束を抱えて、貯蔵庫へと向かっていった。


   *


「クリームは、丁寧に、優しく、愛情を込めて、空気を含ませます」


 そう告げた矢先だった。近くの持ち場で、盛大な音を立てて、泡立て器が皿から滑り落ちた。

「あっ……」


 若い男の料理人が、青ざめた顔で、皿を見下ろしていた。乳酪を泡立てすぎたのだろう、なめらかであるべきクリームは、分離し、水気とぼそぼそとした塊とに分かれてしまっている。


「……分離してしまいましたね」

リゼルは、静かに、その様子を確認した。


「も、申し訳ございません……! 力加減を、誤りました」


「この分では、この菓子には使えません。新しい乳酪脂を、一から仕立て直す必要がございます」


「す、すぐに厨房の貯蔵庫から、代わりを……」


「いいえ」


 リゼルは、首を横に振った。


「貯蔵庫の乳酪脂は、他の菓子にも使う、大切な分です。あなたの不始末のために、それを削るわけには参りません」


「では、どうすれば……」


「今から、乳搾りをしてきてくださいませ」


「……は?」


「厩の乳牛から、直接、新鮮な乳を搾ってきていただければ、それで結構にございます。搾りたての乳から作る乳酪脂は、格別にございますので」


 料理人は、しばし、言葉を失っていた。


「い、行って参ります……」

やがて観念したように、桶を片手に、厨房を後にした。


   *


 リゼル自身も、実演を交えながら、手を動かしていく。その所作は、先ほどまでの鬼教官ぶりが嘘のように、繊細で、美しかった。


「一気に泡立てようとしては、いけません。角が立つ、その一歩手前を、見極めるのです。……ここです。この瞬間を、見逃さぬように」


 料理人たちは、固唾を呑んで、その手元を見つめていた。誰もが、いつの間にか、真剣な生徒の顔になっている。


 マヒーシャもまた、メアと共に、教えられた通りに手を動かしていた。侯爵夫人としての気品を保ちながらも、その額には、うっすらと汗が滲んでいる。


「メアさん、こう、でよろしいのかしら」


「は、はい、マヒーシャ様! とてもお上手にございます!」


 メアが、緊張しながらも、懸命に助手を務めていた。慣れぬ大役に戸惑いながらも、その表情には、確かな誇らしさが滲んでいる。


 だが、その矢先だった。マヒーシャの泡立て器が、勢い余って皿の縁を叩き、乳酪脂が、ぼたりと卓の上に零れ落ちた。


 厨房中の空気が、一瞬にして張り詰めた。


「マヒーシャ様……」


 リゼルの声が、静かに響く。


「ひっ! は、はい……!!」


 マヒーシャが、思わず背筋を伸ばした。侯爵夫人としての貫禄も、この瞬間だけは、どこかへ吹き飛んでいた。


 だが、リゼルは、ふわりと微笑んだ。


「いいえ、そのままで大丈夫にございます」


「え……」


「メア。代わりに、行ってきてください」


「お、お嬢様?! なぜ私が……?」


 メアが、思わず声を上げた。突然の指名に、戸惑いを隠せない。


「貴女には、体力が足りません。ちょうどよい鍛錬でしょう。先に行かれた方々を、追い越して戻りなさい」


 その一言と共に、リゼルの視線が、メアへと向いた。


 外遊用の眼差しも、笑顔も、そこにはなかった。大侯爵令嬢然とした、穏やかな眼差しも、そこにはなかった。あるのは、いつもの――獲物を捕らえたら、必ず狩り殺す眼差しだ。他の誰にも見せない、メアだけが知る、リゼルの素の顔だった。


「か、かしこまりました……!」


 メアは、震え上がりながらも、即座に頭を下げた。主のこの目を向けられて、逆らうという選択肢など、彼女の中には最初から存在していない。


 厨房を飛び出していくメアの背中を、居合わせた料理人たちは、同情の眼差しで見送った。


(あのメイドさんにだけ、お嬢様はあんな顔を……)

誰かがそう思ったが、口には出さなかった。出せる空気ではなかった。


   *


 やがて、窯から焼き上がった生地が取り出される頃には、厨房中に、甘く香ばしい匂いが満ちていた。走らされた二人の料理人も、息を切らせながら戻ってきて、その匂いに、思わず足を止めた。


「た、ただいま戻りました……! あ、あの、途中でベヒーモスに遭遇いたしましたが……なんとか、走って振り切りました……!」


 森へ果実を取りに行かされた方の料理人が、荒い息のまま、震える声で報告する。両腕には、しっかりと、新たに収穫された真紅の森実が抱えられていた。


「果実も、無事に収穫して参りました……!」


「ご苦労様にございます」


 リゼルは、満足げに頷いた。


「……間に合った、か」


 十周を走らされた方の料理人も、ふらつく足取りで、傍らに並ぶ。


「ああ。だが、この匂いを嗅ぐと、走らされた甲斐もあったような気がしてくるな」


 二人は、顔を見合わせて、力なく笑った。


 その後を追うように、薪割りに出されていた恰幅の良い料理人が、山と積まれた薪を、よろよろと抱えて戻ってきた。


「薪、百本……お持ちいたしました……」


 腕は震え、肩は上下に大きく揺れている。だが、その顔には、確かにやり遂げた者の顔があった。


 続いて、井戸から水を汲み続けていた娘も、両手に桶を提げたまま、覚束ない足取りで戻ってきた。


「八十杯、注ぎ終えました……。二度と、砂糖の量は間違えません……」


 そして最後に、乳搾りに出されていた若い料理人が、なみなみと乳の満ちた桶を抱え、厨房へ滑り込んでくる。


「新鮮な乳、搾って参りました……。牛が、思いのほか、大人しくなかったもので……」


 彼の作業着には、あちこちに、乳と、土と、そして牛に蹴られたらしい足跡までが残っていた。


 貯蔵庫の点検に向かっていた料理人もまた、びっしりと文字の書き込まれた紙束を抱え、疲れ切った顔で戻ってきた。


「点検、終わりました……。いくつか、傷みかけの品も見つけましたので、こちらに、書き留めて……」


 その報告書は、隅から隅まで、実に丁寧な字で埋め尽くされていた。


 六人が、それぞれの成果を携えて戻ってきたことを、リゼルは、満足げに見渡した。


「それぞれ、しっかりとお勤めを果たされたようですね」


 その少し後、厨房の扉が、ふらりと開いた。


「た……ただいま、戻りました……」


 戻ってきたのは、メアだった。髪は乱れ、顔は死人のように青白く、それでいて頬だけがどす黒く上気している。息も絶え絶えで、今にもその場に崩れ落ちそうだった。


「先に行かれた方々を……た、たぶん、追い越せた、と、思うのですが……途中で何度か、抜いたり抜かれたりで、その、正直、自信は……」


 その報告を最後に、メアは、糸が切れたように、その場にへたり込んだ。


「おや、メア?」


 リゼルの声が、静かに響いた。


「先に行かれた方々を、追い抜いて戻りなさい。そう申し付けたはずですが」


「は、はい……途中までは、確かに、追い抜いたはずなのですが……」


 メアが、息も絶え絶えに、しどろもどろに答える。


「ですが」


 リゼルは、厨房の隅で、息を整えている二人へ、視線を向けた。十周を走った料理人と、森を駆け抜けて果実を収穫した料理人――同じく「走る」罰を受けた者たちである。


「あちらをご覧なさい。走って戻られたお二人は、すでに、この場にお戻りにございます。あなたより、先に」


「え……」

メアの顔から、みるみる血の気が引いていく。


「追い抜いたのであれば、あなたの方が、先にここへ辿り着いていなければ、辻褄が合いません」


 メアは、何も言えなかった。言い訳の言葉すら、出てこなかった。追いつけなかった、その事実だけが、重く肩にのしかかる。


 絶望の中、メアは、恐る恐る、リゼルを見上げた。

そこにあったのは、今まで見たことのないほどの、美しい笑顔だった。


「ひっ……!!」


 メアの喉から、悲鳴にもならない声が漏れた。


「ならば、おかわりです」


「――は!?」


 その場にいた全員の声が、綺麗に重なった。マヒーシャでさえ、死にそうな顔をしている。


「メア。おかわりです」


 リゼルは、繰り返した。その顔には、これ以上ないほど、穏やかな笑みが浮かんでいた。あまりに穏やかすぎて、かえって、誰一人として、逆らう気力を持てなかった。


「も、もう一度、行って参ります……!!」


 メアは、悲鳴のような声を上げると、震える足で立ち上がり、再び厨房を飛び出していった。


 その後ろ姿を見送ってから、リゼルは、何事もなかったかのように、指導を再開した。


「では、仕上げに移ります。生地を三段に重ね、その間に、クリームと果実を挟んでいきます」


 厨房の面々は、粛々と作業に戻った。先ほどの一幕など、まるでなかったかのように、誰もが黙々と手を動かしている。生地の粗熱を取り、クリームを丁寧に塗り重ね、真紅の果実を並べる――その一つ一つの工程には、思いのほか、時間がかかった。


 一段目の生地が組み上がり、二段目に取り掛かる頃には、窓から差し込む光が、すでに高い位置に移っていた。


「もう少し、果実の間隔を詰めてくださいませ。……そうです、その調子で」


 リゼルの声にも、次第に、柔らかさが戻ってきていた。厨房に流れる空気は、先ほどまでの緊張とは、明らかに違うものになっている。


 料理長が、額の汗を拭いながら、そっと呟いた。


「……メア殿は、そろそろお戻りだろうか」


 誰も、その問いに答えられなかった。


 二段目が組み上がり、三段目の仕上げに取り掛かる。生地とクリームと果実の層が、少しずつ、菓子としての姿を成していった。日は、とうに中天へ近づいている。厨房の隅に控えていた別の使用人が、そっと昼餉の支度を始めるほどの、長い時間が過ぎていた。


 そして、最後の一段が組み上がり、リゼル自らが、細やかな飾りつけを施す。その仕上げが、ちょうど終わりを迎えようという頃だった。


 厨房の扉が、ひどく緩慢な動きで、開いた。


「た……ただいま……戻り……ました……」


 戻ってきたメアは、もはや、立っているのがやっとという有様だった。全身は汗と土埃にまみれ、足取りは、幽鬼のように覚束ない。だが、その顔には、なぜか、どこか清々しい諦観のようなものが浮かんでいる。すべてをやり切った者だけが持つ、奇妙な晴れやかさだった。


「ご苦労様でした」


 リゼルが、そう労うと、メアは、崩れ落ちるように、壁際へもたれかかった。


 出来上がったショートケーキは、王都で評判のそれと、寸分違わぬ美しさだった。


「……できました」


 リゼルは、満足げに、小さく頷いた。その顔は、もういつもの、あどけない四歳の令嬢のものに戻っていた。


「皆様、大変よく頑張られました」


 その一言に、厨房中から、安堵とも達成感ともつかぬ、深いため息が漏れた。走らされた二人でさえ、どこか誇らしげな顔をしている。


 料理長が、代表するように、深々と頭を下げた。


「リゼル様。此度のご指導、まことにありがとうございました。……その、大変厳しくはございましたが」


「厳しさの中にこそ、真髄が宿ります。ですが」


 リゼルは、そこで、ふわりと微笑んだ。


「今日、皆様が作られたこのショートケーキは、間違いなく、素晴らしい出来にございます」


 その言葉に、厨房の空気が、ふっと緩んだ。

マヒーシャは、額の汗を拭いながら、隣のメアへ、そっと囁いた。


「……恐ろしい子ね、あの子は」


「……はい、まことに」


 メアは、心の底から、深く頷いた。


 だが、その声には、恐怖よりも、確かな敬愛が滲んでいた。


   *


 厨房の空気が、ようやく和んだ、その時だった。

裏口の扉が、無造作に開いた。


「なあ、朝から騒がしいと思ったら、何やってんだ?」


 現れたのは、黒髪を無造作に跳ねさせた少年だった。赤銅色の肌、そして六本の腕――そのどちらもが、アスラ族という種族そのものの証だった。額には紫の宝玉を戴いた飾り布を巻き、六本の腕、そのどれもが、鍛え抜かれた筋肉に覆われていた。無駄な肉など一片もなく、しなやかでありながら岩のように硬い、実戦だけが作り上げる肉体だった。稽古の途中で抜けてきたのだろう、素肌にはうっすらと汗が滲み、身のこなしには、まだ興奮の余韻のようなものが残っていた。


 厨房中の空気が、一瞬にして凍りついた。


「ルドラ!」


 マヒーシャの声が、呆れたように飛んだ。


「そのような格好で、来客の前に出るものではありません。稽古着のまま、みっともない」


「悪い悪い、匂いにつられちまって」


 その名を耳にした瞬間、リゼルの赤い瞳の奥で、思考が、完全に止まった。


(ルドラだ。ルドラだルドラだルドラだルドラだ……!)


 前世の記憶が、堰を切ったように溢れ出す。完璧な微笑みだけが、辛うじて、その場に張り付いていた。


 少年の黄金の瞳が、厨房を見渡し、やがて、一人の少女で止まった。


「……誰だ、お前」


 その視線を、リゼルは正面から受け止めた。


「お初にお目にかかります。リゼル・ノクス・ヴァルクロアにございます。ルドラ殿も、よろしければご一緒なさいませんか?」


 我ながら、よく声が出たものだと、後になって思う。だが、その言葉の中身が、果たしてどこまで本人の意思だったのか、リゼル自身にも、よく分からなかった。


 ルドラは、その丁寧な挨拶に、これといった興味も示さなかった。名乗られたばかりの名は、右から左へ抜けていったらしい。


「知らねえけど、まあいい。堅苦しい挨拶なんざ、俺には向いてねえんだ」


 素っ気なく言い放つと、それ以上、興味を向ける様子もない。


 それだけ言うと、円卓の上に並んだショートケーキへ、無造作に手を伸ばす。


「ふうん。甘い匂いがすると思ったんだ」


 指先で、一切れを軽くつまみ、そのまま口へ放り込む。


「……悪くねえな」


「ルドラ!」


 マヒーシャの声が、鋭く飛んだ。


「行儀が悪いですよ。手づかみで食べるのではなく、きちんとお座りなさい」


「悪い悪い、お袋殿。急いでるんだ、また今度な」


 ルドラは、悪びれもせずそう言うと、片手を軽く上げて、あっさりと厨房を後にした。嵐のような登場から退場まで、ほんの数十秒の出来事だった。


 残された厨房に、なんとも言えない沈黙が落ちる。

マヒーシャが、ため息交じりに、リゼルへ向き直った。


「ごめんなさいね、リゼル嬢。あの子ったら、せっかくお名乗りいただいたのに、まるで気にも留めず……お嬢ちゃん、なんて呼び方をして。他人の名を覚える気が、まるでないのです」


「お気になさらないでください」

リゼルは、満面の笑みで答えた。


「ルドラ殿も、ショートケーキをお気に召していただけたようで幸いにございます」


 その笑顔は、いつも通り、寸分の隙もなく完璧だった。



 だが、リゼルの脳裏には、たった一つの後悔だけが、静かに、しかし確かに、こびりついていた。


(しまった……ルドラのステータスを見るのを忘れていた)

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