Ver.1 JUGGERNAUT Chapter 2-2 Familia
会話が一段落した頃、ソーマが、静かに口を開いた。
「リゼル嬢は、治癒魔術にもご関心が?」
「はい。特に、解毒の術については、ヴァルクロア領でも研究が進んでおります。……ノクタール侯爵家で、毒殺が相次いでいるという噂は、こちらにも届いておりますでしょうか」
「ええ、耳にしております。あの家は、代替わりのたびに、不穏な影が付きまとうとか」
ソーマの声が、わずかに沈んだ。
「毒に関しては、我々アスラ族よりも、はるかに深い知見を持つ一族がおります。もし、その者たちと手を組むことができれば、魔界の医術そのものを、大きく変えられるかもしれません」
「毒のエキスパート、でございますか」
「はい。メドゥーサ族の党首一族です。あの一族の知識があれば、解毒だけでなく、毒を薬へと転じる術さえ、確立できるやもしれません」
リゼルは、静かに頷いた。
(メドゥーサ族……ノクタール……お前だ。お前だよな? もう少しだぞ、メル)
その一瞬、リゼルの瞳が、いつもの完璧な色とは違う、何か猛獣めいた光を帯びた。
ほんの刹那のことだった。だが、隣に座るドゥルガーは、それを見逃さなかった。
* * *
その時だった。談笑の合間、ソーマの視線が、ふと自分の皿へと落ちた。フォークの先で、切り分けられたショートケーキを、意味もなくつつく。生クリームが、皿の上でわずかに形を崩した。
「……私などが、こうして皆様と同じ席に着いていること自体、いささか面映ゆく思います」
ぽつりと零れた声だった。周囲の談笑が、自然と止む。
「5本しかない腕で、剣も振るえぬ身なれば」
自嘲めいた呟きだった。だが、その声には、これまで幾度となく己に言い聞かせてきたであろう、擦り切れた諦念の響きがあった。フォークを持つ手だけが、所在なさげに皿の上を彷徨っている。
カルガが、何か言いかけて、口を噤んだ。父として、幾度となく同じ言葉を掛けようとして、そのたびに言葉を選び損ねてきたのだろう。その逡巡が、表情に滲んでいた。
沈黙を破ったのは、オルディアスだった。
「そんなことはない、ソーマ殿」
静かな声だった。だが、その底には、揺るがぬ芯があった。
「貴殿の5本の腕は、他に類がない。ならば、そこには必ずや、定めがあるはずだ」
「定め……にございますか」
ソーマの声に、わずかな戸惑いが滲む。慰めの言葉なら、これまでも幾度となく受けてきた。だが、目の前の大侯爵の言葉には、憐憫とは違う何かがあった。
「話に聞けば、弟君のルドラ殿は武の神童であり」
オルディアスの視線が、隣に座るドゥルガーへ向く。
「そちらの妹君、ドゥルガー殿は、剣武の天才であられるとか」
「て、天才だなんて、そんな……」
ドゥルガーが、珍しく照れたように頬を掻いた。いつもの快活さが、ほんの少しだけ鳴りを潜めている。この場の空気の重さを、彼女なりに感じ取っているのかもしれない。
「弟妹2人が、揃って武の道を極めておられる。並の兄であれば、その影に埋もれ、己を見失ってもおかしくはない」
オルディアスは、そこで一度言葉を切った。円卓を囲む面々を、ゆっくりと見渡す。
「だが、貴殿は、あえて同じ道を弟妹に譲ったのではあるまい。違う道を、自ら見つけたのだ。魔術理論、古代語、戦略。剣を持たずして、家門を支える術を、己の力だけで切り拓いた。それこそが、才能というものだ」
その言葉に、ソーマは、フォークを持つ手を止めた。俯いていた顔が、わずかに上がる。
「私など……」
なおも続けようとする声を、オルディアスは、今度は手のひらを軽く上げて制した。
「私の話を、少しだけ聞いてくれるか」
「は……はい」
オルディアスは、ふと苦笑を浮かべた。武人らしい厳めしさの奥に、どこか自嘲めいた色が滲む。
「社交界では、すでにこれの――」
視線が、隣のリゼルへ向く。
「――まだ11歳、デビュタント前の姉にすら及ばぬ。あの姉は、私など足元にも及ばぬ立ち居振る舞いで、王都の貴婦人たちを唸らせる。この娘もこの娘で、4歳にして経済を回し、菓子ひとつで他家の心を掴む。……いつも、驚かされてばかりだ」
「父上……」
リゼルが、小さく声を漏らした。姉の名が、こんな場で引き合いに出されるとは思っていなかったらしい。その頬に、ほんのわずかな朱が差す。
「私は、根っからの軍人でな。政務や社交の駆け引きというものには、どうにも才がないらしい。若い頃から、そのことでずいぶんと引け目を感じてきた」
オルディアスの声は、淡々としていた。だが、その言葉の一つ一つには、長年の実感がこもっているのが分かった。
「だがな、ソーマ殿」
オルディアスは、真っ直ぐにソーマを見据えた。目を逸らすことを許さぬ、強い視線だった。
「軍務に関しては、私は誰よりも誇れると、自惚れているぞ? 剣を振るう才では、あるいは若い将校たちに劣るやもしれん。だが、戦場全体を見渡し、兵を活かし、勝ちを拾う力においては、誰にも引けは取らぬと、そう思っている」
「……それは」
「己に足りぬものを数えるのは容易い。だが、己にしかないものを見つけるのは、存外難しいものだ。貴殿は、すでにそれを見つけている。魔界では稀有な、治癒の才も含めてな」
オルディアスは、そこで初めて、わずかに口元を緩めた。
「だから、貴殿も、自分の才を誇りなさい」
しばしの沈黙が、円卓を包んだ。
その言葉に、カルガとマヒーシャは、揃って目を潤ませていた。長年、息子の葛藤を近くで見てきながら、こうして正面から言葉にしてやることが、2人にはできなかったのかもしれない。他家の当主の口から、それが語られたことに、複雑な、それでいて確かな感謝があった。
「閣下……」
マヒーシャが、そっと目元を拭う。カルガもまた、何かを言おうとして、結局は無言のまま、深く頭を垂れた。
ソーマは、しばし言葉を失っていた。整った顔立ちの奥で、様々な感情がせめぎ合っているのが見て取れた。羞恥、安堵、そして――長年、誰にも打ち明けられずにいた何かが、今この瞬間、静かにほどけていくような。
やがて、ソーマは、そっとフォークを取り直した。皿の上のショートケーキを、一口。
生地とクリームが、口の中でほどけていく。
「……美味しゅうございます」
その声は、わずかに震えていた。だが、その笑みには、先ほどまでの翳りが、もうなかった。まるで、長く背負っていた何かを、少しだけ下ろせたかのように。
* * *
場が温まったところで、ドゥルガーが、待ちきれないというように口を開いた。
「ねえねえ、リゼル。ルドラ兄ぃの話、もっと聞きたい?」
「……はい。ぜひ」
リゼルの返答に、迷いはなかった。
「明日、稽古を見に行こうよ! 侍女さんも一緒に。リゼルにも、絶対見せたいんだ」
「畏れながら、ディ。明日は、ショートケーキ作りのご指導がございまして……」
「あ、そっか! じゃあ、明日の次の日!」
ドゥルガーは、あっさりと予定を切り替えた。それすらも、少しも気にした様子がない。
呼び捨てだった。何の気負いもなく、当然のように、名を呼ばれている。
その瞬間、リゼルの中で、何かが小さく震えた。
(……友達、か)
黒瀬真璃亜だった頃を含めても、これほど飾らずに名を呼んでくれる相手など、いなかった気がする。誰もが、画面の向こうの存在であり、データであり、記号だった。目の前で笑い、怒り、頭を小突かれる、生きた誰かではなかった。
だが、同時に。
(パンデモニウム・オンラインを、蹂躙した7人――)
かつての記憶が、ふと脳裏をよぎる。ルドラを含む、あの6人のパーティ。魔界の頂点にまで駆け上がった、あの日々の光景。
リゼルは、その記憶を、静かに胸の奥へ沈めた。
「はい、ディ。楽しみにしております」
その微笑みは、いつも通り完璧だった。だが、その内側には、まだ誰にも見せていない、複雑な感情が渦を巻いていた。
「あの子は、稽古中となると、誰が声をかけても、決して手を止めぬのです。夫が呼んでも、母である私が呼んでも、同じこと。今日のご挨拶が遅れますこと、どうかご容赦いただければと」
マヒーシャが、少し申し訳なさそうに付け加えた。
カルガも、頷きながら言葉を継ぐ。
「武にのみ生きる、不器用な息子にございます。礼を欠くようで、心苦しいのですが」
その言葉に、オルディアスは、少し考えてから、静かに口を開いた。
「いや。それは、むしろ立派なことだ。何事にも動じず、目の前の鍛錬を貫き通す。それができる者は、そう多くはない。ぜひ一度、お目にかかってみたいものだ」
その返答に、マヒーシャの顔が、ぱっと明るくなった。
「まあ……なんと、寛大な御言葉でしょう」
カルガもまた、安堵したように相好を崩す。
「息子も、いずれ喜びましょう。今日は無理でも、滞在の間に、必ずご挨拶させます」
その様子を、リゼルはさりげなく窺っていた。
(父上……グッジョブです)
内心で、そっと拳を握る。表情は、あくまで穏やかな微笑みのままだった。
円卓には、切り分けられたショートケーキが、少しずつ減っていく。カルガの豪快な笑い声、マヒーシャの柔らかな相槌、ドゥルガーの屈託ない声、そしてソーマの、先ほどまでとは違う穏やかな笑み。
武骨なアーシュラ侯爵家の居間に、今だけは、驚くほど温かな時間が流れていた。
* * *
客間の扉が閉まると、廊下での完璧な貴婦人の空気が、わずかに緩んだ。
もっとも、完全に崩れたわけではない。オルディアスが同じ部屋にいる以上、リゼルは油断なく、静かな微笑みを保ったままだった。
「疲れたか」
オルディアスが、ソファに腰を下ろしながら尋ねた。声には、いつもの当主としての硬さはなく、ただの父親としての気遣いが滲んでいる。
「いいえ、父上。このくらいは、なんでもございません」
短いやり取りだった。だが、オルディアスは、その返答の裏にあるものを察していた。この娘は、疲れていないのではない。疲れを見せることを、自分に許していないのだ。
オルディアスは、しばし娘の横顔を見つめてから、静かに立ち上がった。
「私は、これから侯爵と少し話をしてくる。晩餐までは、部屋で休んでいなさい」
「かしこまりました」
一礼して見送るリゼルの姿は、父が部屋を出て扉が閉まった、その瞬間まで、寸分の隙もなかった。
だが、扉が完全に閉まったのを確認すると、リゼルの肩から、ふっと力が抜けた。表情そのものは変わらない。だが、纏っていた空気の密度が、明らかに違っていた。
メアが、慌ただしく荷を解いていた。隣室にあてがわれた自分の部屋には、まだ手をつけてもいない。まずは主の部屋を整えるのが先だと、当然のように動いていた。
「お嬢様、お疲れではございませんか。あの……先ほどの侯爵夫人との会話も、ソーマ様やディ様とのお話も、本当にお見事で」
「疲れてはいない」
「そうは見えませんが……」
メアが、心配そうに眉を寄せる。
「大丈夫だ、メア。少し座って休めば済む」
リゼルは、そう言って長椅子に腰を下ろした。窓から差し込む夕暮れの光が、白銀の髪をわずかに橙色に染めている。
(ソーマ様のことは……忘れよう。あれは事故だ。うん、事故)
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥には、まだ小さな棘のような不安が残っていた。
(それより、問題は……ルドラだ)
ルキフグスの言葉。ゲームではなく、彼自身が管理する世界だという、あの一言。
(ここが本当にゲームと地続きの世界なら、ルドラも私の知るルドラのはず。……でも、もし違ったら)
黒瀬真璃亜だった頃の記憶が、静かにざわめく。まだ会ってもいない少年の存在が、リゼルの中で、これまでにない重みを持ち始めていた。
窓の外では、夕刻に向けて日が傾き始めていた。訓練場の喧騒は、まだ止む気配がない。むしろ、日暮れが近づくにつれ、掛け声はより激しさを増しているようにすら聞こえた。
(あの音の中に、ルドラがいる)
リゼルは、窓辺に立ち、遠くから響く音に、しばし耳を澄ませていた。
その横顔を、メアは黙って見つめていた。主が何を考えているのか、この侍女にはまだ、正確には分からない。だが、いつになく静かなその横顔に、何か特別な意味があることだけは感じ取っていた。
夕暮れの光の中、鍛冶場の槌音と、兵士たちの掛け声が、絶え間なく響き続けている。
この訪問は、まだ何も始まっていない。
本当の始まりは、恐らく――あの訓練場の喧騒の向こうに、待っている。




