Ver.1 JUGGERNAUT Chapter 1-4 アーシュラの兄妹たち
廊下の奥から、静かな足音が近づいてきた、その直後だった。廊下の角から、人影が姿を現した。
リゼルの一歩後ろには、メアが影のように控えていた。旅装のまま、荷物持ちとしても、侍女としても、常に主の傍らを離れない。だが、今この場では、あくまで一歩下がった位置から、静かに成り行きを見守ることに徹していた。
すらりとした長身の青年だった。赤銅色の肌はアーシュラ侯爵と同じアスラ族のものだが、纏う空気はまるで違う。長く柔らかな黒髪を一つに束ね、額には控えめな金の飾りを付けている。整った顔立ちには、荒々しさよりも落ち着きが、粗野さよりも知性が滲んでいた。歩き方一つにも無駄がなく、育ちの良さが自然と伝わってくる。武門の家に生まれながら、その物腰は宮廷人のそれに近かった。
袖の長い衣は、両腕を覆い隠すように仕立てられている。他の家族の誰もが、腕を惜しげもなく晒す衣装を好むのとは対照的だった。
「母上。ご来客とお伺いいたしましたので」
「あら、ちょうどよいところに。ソーマ、こちらはヴァルクロア大侯爵閣下と、リゼル嬢よ」
マヒーシャが、微笑みながら息子を手招く。
その青年は、オルディアスの前で迷いなく片膝をつき、深く頭を垂れた。父カルガが見せたのと同じ、当主家の男子としての正式な礼だった。だが、その所作の端々に、どこか慎重すぎるほどの丁寧さが滲んでいる。組んだ両手は、袖の中に半ば隠れていた。
「お初にお目にかかります、ヴァルクロア大侯爵閣下。ソーマ・ザン・アーシュラと申します。アーシュラ家の一員として、御来訪を心より歓迎申し上げます」
「これは……丁重な出迎え、痛み入る」
オルディアスは、わずかに意外そうな顔をした。アーシュラ家といえば武の一族という印象が強い。だが、目の前の青年からは、王都の宮廷でも通用しそうな洗練が滲んでいた。そして、もう一つ。袖の下から覗く、礼を取るために組まれたその腕は、五本しかなかった。
「父の家風は、ご覧の通り武骨なものにございます。私はいささか毛色が違うと、よく従兄弟どもに笑われますが」
ソーマは、そう言って柔らかく笑った。自嘲でも卑下でもない、余裕のある笑い方だった。だが、その笑みの奥に、ほんのわずかな翳りが差したのを、オルディアスは見逃さなかった。話しながらも、彼の一本の袖だけが、他の袖よりわずかに深く引かれている。
「異色というより、貴重、とお見受けする」
「光栄なお言葉です。私が得意なのは、専ら書物と魔導具の前でのことばかりで」
「魔導具、とな」
「はい。魔術理論と古代語、それに戦略の策定を、幼い頃より学んでおります。……それと、もう一つ。魔界では珍しい、治癒系の魔法も」
「治癒魔術、とな。それは確かに、珍しい」
オルディアスが、驚いたように片眉を上げた。魔界において、治癒系の魔法は極めて希少とされる。破壊と侵略を尊ぶこの世界では、傷を癒す術よりも、傷を負わせる術の方が、はるかに重んじられるからだ。
「なるほど。武の家にあって、その道を選ばれたか」
「選んだ、というよりは……私には、他に選びようがなかった、というのが正直なところでございます」
ソーマは、少し困ったように笑った。その言葉には、謙遜だけでは片付けられない、何か複雑な響きがあった。組んだ五本の指先に、一瞬だけ力がこもる。
ソーマの視線が、リゼルへ向く。
「そして、貴女がリゼル嬢ですね。お噂はかねがね」
「初めてお目にかかります、ソーマ様。リゼル・ノクス・ヴァルクロアにございます」
リゼルは、変わらぬ完璧な礼で応じた。だが、その内心は、外見からは想像もつかないほど、静かにざわめいていた。
(……知らない。この人のことを、私は知らない)
前世の記憶を、素早く探る。パンデモニウム・オンラインで、アーシュラ侯爵家嫡男といえば、真っ先に思い浮かぶのはルドラだけだった。
このルドラの兄という人物の記憶が、どこにも存在しない。
(おかしい。ルドラが仲間になるほどの重要な家なら、家族構成くらい、攻略情報のどこかに載っていてもおかしくないのに)
赤い瞳の奥で、小さな違和感が生まれる。
(この落ち着き、この知力値……ゲームでは一切見なかった人物。……本当に、私が知っているあの世界と、同じなのか?)
疑念は、まだ形になりきらない靄のようなものだった。だが、確かに、リゼルの中に芽を出していた。
【ステータスウィンドウ】
名前:ソーマ・ザン・アーシュラ
種族:アスラ族
身分:アーシュラ侯爵家 嫡子/宮廷魔導顧問・学術院生(見習い)
年齢:17歳
レベル:1030
生命力:8200
魔力量:9400
筋力:1450
耐久:1600
敏捷:1120
知力:23800
精神:22100
統率:19800
政治:18600
礼法:1540
忠誠適性:アーシュラ家に対し極めて高い
主要適性:魔術理論/古代語/戦略・計略/学術研究/治癒魔術(希少)/二刀流/投擲
危険度評価:中(直接戦闘)/高(将来的な影響力)
敵対意志:なし
備考:アスラ族としては珍しく六腕ではなく五腕で生まれた。本人はこれに強い葛藤を抱えているが、弟妹からは分け隔てなく慕われている。
(レベルそのものは、正直大したことない。でも、知力23800、精神22100、統率19800……この数値、他の誰とも桁が違う。戦闘職じゃなくて、頭脳職としてなら文句なしのスペックだ。しかも治癒魔術持ちなんて、アスラ族では聞いたことがない)
あまりのレアキャラなだけに、リゼルの内なる黒瀬真璃亜――パンデモニウム・オンラインのプレイヤー魂に、マグマがぶち込まれた。
(はい! GET確定!!)
内心の興奮をおくびにも出さず、リゼルは涼やかに微笑んだ。
*
その時だった。廊下の奥から、軽やかで忙しない足音が近づいてきた。
「ソーマ兄ぃばっかりずるい! わたしにも紹介させて!」
駆け込んできたのは、小柄な少女だった。赤銅色の肌に、四本の腕。その全ての腕に、得物が握られている。二振りの三日月剣と、装飾の施されたメリケンサック。稽古の途中でそのまま抜け出してきたのだろう、物々しい装備であるはずなのに、当の本人はにこにこと、屈託のない笑顔を崩さない。
(……やべぇのが来た!)
リゼルは、内心でそう呟いた。四本の腕を全て武装したまま、満面の笑みで駆けてくる幼い少女など、お目にかかったことのない光景だった。
少女は、勢いのままオルディアスの前まで来ると、そこでようやく足を止めた。だが、膝をつく気配はまるでない。
「ディ!」
マヒーシャの声が、先ほどまでの柔らかさとは一変し、鋭く飛んだ。母としての怒りが、初めて表に出た瞬間だった。
「大侯爵閣下の御前で、得物を提げたままとは何事です! 今すぐお納めなさい!」
「ディ」
ソーマもまた、静かに、しかし有無を言わせぬ声で妹の名を呼んだ。
「このお方はヴァルクロア大侯爵閣下だよ? ちゃんと跪き、ご挨拶しなさい」
「あ! いっけねー! ごめんソーマ兄ぃ!」
ディと呼ばれた少女は、あたふたと得物を腰に収め、慌てて片膝をついた。所作は洗練されているとは言い難かったが、悪気のなさだけは、誰の目にも明らかだった。
カルガが、無言のまま、大きな手を娘の頭にそっと乗せた。次の瞬間、軽くではあるが、確かな重みをもって、ごつん、と一発。
「いった……」
頭を押さえながらも、悪びれる様子もなく、へらりと笑った。
「てへ! 怒られちった!」
(……やはり、やべぇやつだ)
リゼルは、内心で二度目の呟きを漏らした。他家の大侯爵の前で、父に頭を小突かれてもなお、この屈託のなさ。並の胆力ではない。
その一部始終を、オルディアスは黙って眺めていた。
叱られ、頭を小突かれ、悪びれもせず笑う。ただそれだけのやり取りだった。だが、その気安さに、オルディアスは、ふと胸を突かれた。
(我が家では、こうはいかぬな)
リゼルを叱ったところで、あの娘は、こんな風に笑って誤魔化しはしない。完璧な謝罪を口にし、次には同じ隙を見せぬよう、己を作り変えてしまうだろう。それが正しい在り方だと、頭では分かっている。
だが、今目の前にある、この何でもない温かさを、羨ましく思う自分がいることも、否定できなかった。
「これは、ヴァルクロア大侯爵閣下。ドゥルガー・ザン・アーシュラにございます。……その、失礼いたしました」
「よい。元気があるのは、悪いことではない」
オルディアスは、鷹揚に頷いた。だが、その視線は、すでに娘のことをちらりと窺っていた。武装したまま駆けてきた少女に対し、リゼルがどんな反応を見せるか、確認せずにはいられなかったらしい。
リゼルは、もちろん完璧な微笑みを保ったままだった。だが、正式な挨拶を交わすには、まだ早かった。ドゥルガーの視線は、すでに落ち着きなく、廊下の奥や父の顔へと移ってしまっている。
*
リゼルは、機を見て、改めてドゥルガーへ正式な挨拶を試みた。
「初めてお目にかかります、ドゥルガー様。リゼル・ノクス――」
完璧なカーテシーの型に入りかけた、その途中だった。
「あ、待って待って!」
ドゥルガーが、カルガにもオルディアスにも許しを得ることなく、その場に立ち上がった。そのまま迷いなく歩み寄ると、カーテシーの姿勢を取りかけていたリゼルの両手を、ぱっと取る。
「あたしはドゥルガー・ザン・アーシュラ。家族と友達は、あたしをディって呼ぶから、リゼルちゃんもあたしをディって呼んでね!」
礼を最後まで受けるつもりが、まるでないらしかった。型を崩されたリゼルは、一瞬だけ虚を突かれた顔をした。それは、演技ではない、素の反応だった。
(10歳でレベル1,300、しかも身体能力が同年代比で突出している……)
【ステータスウィンドウ】
名前:ドゥルガー・ザン・アーシュラ
種族:アスラ族
身分:アーシュラ侯爵家 次女/侯爵家第二剣闘士・戦闘教練担当見習い
年齢:10歳(デビュタント前)
レベル:1300
生命力:11200
魔力量:4600
筋力:2680
耐久:2510
敏捷:3120
知力:980
精神:1450
統率:640
政治:210
礼法:890
忠誠適性:兄ソーマ・兄ルドラへの敬愛、非常に高い
主要適性:二刀流(三日月剣)/メリケンサック/体術全般/闘技適性
危険度評価:高(同年代比で突出)
敵対意志:なし
備考:デビュタント前にして、闘技会出場級の身体能力を持つ。裏表のない性格で、強者を心から尊敬する。
(はい! こっちもGET確定!!)
「……よろしいのですか」
「いいのいいの! 堅苦しいの苦手なんだ。兄ぃたちと違って、わたしは細かいこと考えるの向いてなくて」
「いけないよ、ディ。また自分を落とすようなことを」
ソーマが苦笑しながら口を挟んだが、ドゥルガーは意に介さない。
「落としてないもん、事実だもん! 剣なら誰にも負けないけど、勉強はソーマ兄ぃに全然敵わないし!」
「では、お言葉に甘えて。ディ、と」
「うん! それでいい! リゼルちゃんは、まだ四歳なんだよね? わたしより6つも下かぁ」
「畏れながら、ディ様。わたくしの年を、どうしてご存じなのですか」
リゼルが、静かに問うた。純粋な疑問だった。この場で、自分の年齢を明かした覚えはない。
「あ、それ?」
ドゥルガーは、悪びれもせず、あっさりと答えた。
「とと様とかか様が、こそこそ話してるの聞いちゃったんだ。『ヴァルクロア大侯爵閣下の御息女は、まだ4歳だというのに、大魔王様にも噂されているそうだ』って。壁の陰で盗み聞きしてた!」
その場の空気が、再び凍りついた。
「ディ」
カルガの声が、低く落ちる。二度目のごつん、が娘の頭に落ちた。今度は、先ほどよりも幾分、力がこ
もっているように見えた。
「いたっ……」
「盗み聞きは、はしたない真似だと、何度言えば分かる。しかも、それをこの場で得意げに語るとは、恥の上塗りだぞ」
「うっ……ごめんなさい」
さすがに、今度ばかりは、ドゥルガーもしゅんと肩を落とした。
「今後は控えるように。それと、後で母上にも、きちんと謝りなさい」
「はぁい……」
だが、この場でその叱責に、誰よりも耳を貸していない者が一人いた。
リゼルである。
(陛下が……陛下が私ごときをぉ……私ごときをぉ……)
己の才を知られる危うさなど、今のリゼルの頭には欠片も浮かんでいなかった。ただ、大魔王ドラコー陛下が、他でもない自分のことを話題にしてくださった。魔界の頂点に立つ御方が、数多の臣下の中から、わざわざこの身の名を口にしてくださった。その一点だけが、胸の内を熱く満たしていた。しかも、この外遊そのものが、他ならぬ陛下より賜った勅諚である。畏れ多くも、陛下の御口の端に、自分の名が上ったという事実は、リゼルにとって、何よりの誉れだった。
リゼルは、笑顔を絶やさなかった。表情は、いつも通り完璧なままだった。
(陛下が私ごときをぉ……私ごときをぉ……私ごときをぉ……)
だが、オルディアスは見逃さなかった。娘の右手が、袖の下で、小刻みに震えていることを。
「リゼル……」
「はい、なんでしょう、お父様?」
(お、お父様だと……?)
オルディアスは、内心で凍りついた。屋敷では「父上」、外向けの顔でも「父上」で通してきたはずの娘の口から、今、聞き慣れぬ呼び方が零れ落ちた。歓喜のあまり、いつもの仮面にすら、綻びが生じているらしい。
(ど、どれだけの仮面を、この娘は持っているのだ……!?)
オルディアスは、表情ひとつ変えぬまま、アーシュラ侯爵家の心温まる(?)光景を、ただ黙って眺めていた。
しおらしく頷くドゥルガーの姿に、リゼルは内心で三度目の呟きを漏らした。
(……本当に、やべぇ一家だ)
だが、悪意はどこにもない。ただ、あまりにも真っ直ぐすぎるだけなのだと、リゼルにも分かり始めていた。
「じゃあ、わたしがお姉ちゃんだね! 困ったことがあったら、なんでも言いなよ!」
気を取り直したように、ドゥルガーが明るく笑う。
その物言いには、少しも嫌味がなかった。年下を庇護しようとする、素直な親愛だけがあった。
「もったいなきお言葉にございます」
「あ、そういう堅い喋り方、後で直してあげるから!」
頃合いを見て、カルガが口を開いた。
「して、ソーマ。ルドラはどうした」
その一言に、リゼルの赤い瞳が、わずかに、しかし確かに輝いた。
(ルドラ! 今、ルドラの話が出た!)
表情には出さない。出さないよう努める。だが、耳だけは、その先の言葉を一言も逃すまいと研ぎ澄まされていた。
「リゼル」
オルディアスが、小さく、しかし咎めるような声で娘の名を呼んだ。あからさまに食いついている様子を、父の目はしっかりと捉えていたらしい。
「……はい、父上」
リゼルは、努めて平静を装った。だが、内心は、まだワクワクを隠しきれていなかった。
父からの問いに、ソーマが答えようとした、その時だった。ドゥルガーの方が、先に口を開いた。
「兄ぃなら、いつも通り修練場だよ。今日も朝から、兵士たち相手にみっちり稽古つけてる。誰が来たって、稽古中は絶対に手を止めないもん」
ドゥルガーの返答に、リゼルの胸の内で、小さな落胆が生まれた。
(会えないのか……)
表情には、決して出さない。だが、赤い瞳の奥の輝きが、ほんの少しだけ翳った。
その様子を、傍らのドゥルガーが、目ざとく見つけていた。
「あれ、リゼルちゃん、もしかしてルドラ兄ぃに興味あるの?」
「……いえ、そのようなことは」
「ふぅん」
ドゥルガーは、にんまりと笑った。そして、その笑みは、みるみる好意的なものへと変わっていく。兄を溺愛する妹にとって、初対面の相手がその兄に関心を示すことは、警戒よりも先に、単純な嬉しさを呼び起こすものだった。
(リゼルちゃん、いい子じゃん!)
ドゥルガーの中で、リゼルへの好感度が、目に見えて跳ね上がった。
* * *
ルドラの話題が一段落すると、会話は自然と、リゼルの持参した菓子へと戻っていった。
「ディ様も、後ほどぜひお召し上がりくださいませ」
「もう聞いてるよ! 王都で噂の菓子なんでしょ? 楽しみ!」
ドゥルガーが目を輝かせる。その隣で、ソーマもまた穏やかに頷いた。
「私も、楽しみにしております。母がずいぶんと嬉しそうにしておりましたので」
「お口に合いますよう」
「先ほど伺いました。……あなたが考案なさったとか。ありがとうございます」
ソーマは、そう言って、穏やかに目を細めた。柔らかな微笑みだった。気負いも、飾りもない、自然な笑顔。
その瞬間、リゼルの完璧な表情に、初めてひびが入った。
「……推せる。超イケメン……」
思わず漏れた呟きだった。幸い、声は極小さく、周囲には届かなかったらしい。だが、自分の口から出た言葉に、リゼル自身が最も驚いていた。慌てて口を噤む。
(――私は何を考えているのだ! 私は大魔王陛下の臣下であることに全てを捧げるべきなんだ! でも、チクショー! なんだこのイケメンは?! ゲームにいなかったのが、逆に恨めしい……!)
内心で猛烈な自己嫌悪と混乱が渦を巻く。だが、そこでふと、リゼルの思考が止まった。
(……いや、待て)
ルキフグスの言葉が、脳裏をよぎる。あの日、あの声は確かにこう告げた。この世界は、ゲームに似て非なるもの――ルキフグス自身が管理する、一つの世界そのものなのだと。
(ゲームじゃない。あの悪神には、最初からそう言われていた)
だとすれば。
(ソーマ・ザン・アーシュラが、ゲームに存在しなかった人物なのは当然だ。……でも、それなら)
黒瀬真璃亜だった頃の記憶が、静かに冷えていく。
(ルドラは、本当に、あのルドラなのか?)
前世の記憶にある軍神の如き戦闘狂の青年と、この世界のルドラが、同じ存在である保証など、どこにもない。その事実に、今更ながら気づかされた。
表情には出さない。だが、赤い瞳の奥では、大き過ぎる不安が芽生えていた。
「リゼル嬢?」
ソーマが、怪訝そうに小首を傾げる。
「……いえ、何でもございません。皆様に早くお召し上がりいただきたく、少々気が急いてしまいました」
咄嗟の取り繕いだった。ソーマは、そう言われて納得したように頷いた。
「それは、こちらこそ気が急く話です。早く皆で味わいたいものですね」
「あたしも早く食べたい!」
ドゥルガーが、話に割り込むように声を上げる。おかげで、場の空気は自然と和やかなものに戻っていった。リゼルは内心でほっと息をつきながら、ドゥルガー、そしてソーマを交えた菓子談義に、改めて加わっていった。
(落ち着け、私。今のは、事故だ。ただの事故……)
そう言い聞かせながらも、ソーマの穏やかな笑みが、時折頭の隅をよぎるのを、完全には振り払えずにいた。




