Ver.1 JUGGERNAUT Chapter1-3 大侯爵の手土産よりもショートケーキ
領境を越えてから、およそ半刻。馬車の窓越しに見える景色は、すでに完全にアーシュラ領のものへと変わっていた。畑の合間に置かれた木製の的、道端でひたすら素振りを繰り返す少年たち、荷馬車の隊列を守る自警団の槍先。土と汗と、かすかな血の匂いすら混じるような空気が、窓の隙間から流れ込んでくる。
護衛の隊長が馬を寄せ、御者へ何事か短く告げた。馬車の速度がわずかに落ちる。屋敷が近い証だった。
やがて、丘を一つ越えた先に、アーシュラ侯爵家の本邸が姿を現した。
巨大で武骨な造りだった。美しさよりも堅牢さを重んじた屋敷であり、門は厚く、壁は高く、窓は少ない。貴族家の邸宅というより、ひとつの城砦に近かった。ヴァルクロア家の屋敷が古い血統と陰影ある優雅さを語るものだとすれば、アーシュラ家の屋敷は力と実戦をそのまま石に刻み込んだような建築である。城壁の上には見張りの兵が等間隔に立ち、旗竿には炎を象った紋章の旗が、風にはためいていた。
庭園もまた同様だった。整えられた花壇や噴水はあるが、それらはあくまで客を迎えるための最低限の体裁でしかない。敷地の多くは訓練場、武具庫、馬場、鍛錬用の広場に割かれており、屋敷の奥からは鍛冶場の槌音と、遠くの兵士たちの掛け声が絶えず響いていた。時折、木剣同士がぶつかる乾いた音が、風に乗って届く。
正門をくぐると、すでに出迎えの列が整えられていた。
槍を持った衛兵が左右に並び、その奥に、正装に身を包んだ従者たちが控えている。ヴァルクロア家の紋章旗が掲げられているところを見ると、到着の報せはすでに屋敷内に行き渡っていたらしい。行き届いた出迎えの体裁に、オルディアスは内心でわずかに評価を改めた。
(武骨な家風とは聞いていたが、礼を疎かにする家ではないようだ)
馬車が速度を緩める間、オルディアスは向かいの席に座るリゼルを見た。窓の外を静かに眺めるその横顔は、道中ずっとそうであったように、落ち着いている。だが、その落ち着きの奥に何が渦巻いているのか、父である自分にすら分からない。
(この訪問が、どういう意味を持つのか。この娘は、どこまで理解しているのだろうか)
アーシュラ侯爵家との縁は、単なる社交ではない。武門の名家との繋がりは、ヴァルクロア家にとって軍事的な後ろ盾になり得る。逆に言えば、ここで礼を欠けば、対外的な信用を大きく損なう。しかも、この訪問の裏には、大魔王陛下と妖鳳公キュマイラ閣下の御意向がある。失敗は許されない。
(陛下は、いったい何をお考えなのだろう)
謁見の間でのやり取りを思い出す。あの二柱が、単なる気まぐれでこの引き合わせを命じたとは思えない。だが、その真意までは、一介の大侯爵に過ぎない自分には計り知れなかった。
考えを巡らせているうちに、馬車が正面玄関の前で止まる。
馬車の扉が開かれ、まず降り立ったのはオルディアスだった。黒を基調とした礼装に身を包んだ大侯爵は、アーシュラ家の荒々しい空気の中でも、決して呑まれることはない。剣を抜かずとも、そこに立つだけで周囲の空気を変える、古き血統を背負う者特有の静かな威圧があった。
出迎えの列の中央に立っていた者たちが、一斉に頭を垂れる。
迎えに出たアーシュラ侯爵カルガ・ザン・アーシュラは、巨躯の男だった。赤銅色の肌。6本の腕。歳月をかけて鍛え上げられた体軀は、礼装の上からでも隆々としているのが分かる。額には古い戦傷の痕らしきものが薄く残り、荒々しい顔立ちに歴戦の重みを添えていた。だが、その男は、オルディアスを見るなり即座に片膝をついた。地面へ膝を落とす音は重かったが、所作には乱れがない。武門の男であっても、家格の上下を弁えぬ者ではなかった。
リゼルは、父の後ろで静かに佇みながら、その巨躯へ視線を走らせた。表情には、何の変化も出さない。だが、その赤い瞳の奥では、見慣れた黒紫の文字列が、音もなく展開されていた。
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名前:カルガ・ザン・アーシュラ
種族:アスラ族
身分:アーシュラ侯爵家 当主
年齢:46歳
レベル:3080
生命力:41000
魔力量:72000
筋力:4350
耐久:4100
敏捷:2100
知力:1450
精神:1980
統率:3200
政治:1850
礼法:1200
忠誠適性:大魔王陛下に対し高い
主要適性:近接格闘/6腕武術/軍指揮/魔獣討伐
危険度評価:高
敵対意志:なし
備考:純粋な打撃・接近戦闘に極めて秀でる。魔力量は数値上リゼルに匹敵するが、運用の巧拙は伴っていない。
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(筋力は父上より上か。武門の当主として当然の数値。……魔力量は、私とほぼ同格。宝の持ち腐れだな。この器を、まともに運用できていない)
「ようこそお越しくださいました、ヴァルクロア大侯爵閣下。我がアーシュラ家一同、閣下の御来訪を心より歓迎いたします」
「出迎え、痛み入る。アーシュラ侯爵」
「道中、恙なく過ごされましたか。この時期の街道は魔獣の動きが読みにくく、些か案じておりました」
「護衛は十分であった。むしろ、そちらの手配りに感謝する。境界付近の見張り台は、貴家のものか」
「左様にございます。数年前より、街道沿いの警備を強化しております。北の魔境から流れ込む小型の魔獣が、時折街道まで出るようになったもので」
「なるほど。道理で、途中の集落にも訓練場が目立った」
「お目に留まりましたか。恥ずかしながら、我が家の領地経営は武に偏りがちで、他家に誇れるような洗練とは無縁にございます」
「いや。力を恐れず正面から向き合う姿勢は、それ自体が一つの徳であろう」
家格はヴァルクロアが上である。そのため、アーシュラ侯爵はまずオルディアスへ礼を取り、互いの領地の近況、道中の安全、迎えの手配への謝意が交わされていく。外交とは、言葉の刃を抜かぬまま、互いの立場を確認する儀式でもあった。二人のやり取りは短いながらも密度があり、周囲に控える従者たちも、その言葉の端々から相手の真意を測ろうとするように、静かに耳を澄ませていた。
「して、御同行の御令嬢は」
アーシュラ侯爵の視線が、馬車へ向く。
「今、降りるところだ」
オルディアスがそう言った時、馬車の中から、小さな影が降りた。
リゼル・ノクス・ヴァルクロア。4歳の幼い体。赤を基調とした準礼装。白銀の髪。堕天使の血を示す
小さな翼。魔界貴族の令嬢としてはあまりにも幼く、普通ならば父の後ろで守られる存在として見られる年齢だった。
だが、リゼルは父の裾に隠れなかった。馬車の段差を侍女に支えられながら降りると、ほんの一呼吸だけ周囲を見て、迷いなく一歩前へ出る。幼い足取りでありながら、そこに慌てた様子はまるでない。屋敷の壮麗さにも、6本腕の衛兵たちの物々しさにも、目を丸くする様子すらなかった。
アーシュラ侯爵の視線がリゼルへ向いた。
「こちらが、リゼル嬢であらせられますか」
リゼルは静かに頷くと、完璧なカーテシーを披露した。
膝の折り方。指先の角度。視線の下げ方。ドレスの裾を摘む指先の力加減にすら、乱れがなかった。自家の家格を損なわず、相手への敬意も欠かさぬ絶妙な姿勢だった。幼児が礼法教師に習った型を真似たものではない。場の格、自分の立場、父の面子、相手の爵位を理解した上で選ばれた、完成された貴婦人の礼である。
同じ完璧さでも、姉に向けたあの他人行儀な礼とは、性質が違った。あちらは、あえて距離を作るための礼。だが今この場でのそれは、初対面の他家当主へ向けた、混じり気のない外交儀礼だった。同じ型でありながら、込められた意図はまるで正反対だ。
「初めてお目にかかります、アーシュラ侯爵閣下。リゼル・ノクス・ヴァルクロアにございます。此度は父と共に貴家へ伺う栄誉を賜り、心より感謝申し上げます」
声も、表情も、瞬きひとつの間合いすら完璧だった。屋敷を出る前に見せていた、あの奇妙な号泣や家宝への執着など、欠片も感じさせない。優雅で、控えめで、それでいて芯の通った、非の打ちどころのない令嬢そのものだった。
その様子を隣で見ていたオルディアスは、内心で凍りついていた。
(……誰だ、これは)
娘のはずだった。だが、今この場に立っているのは、屋敷で知っているリゼルとは、微妙に、しかし決定的に違う何かだった。声の張り、視線の運び方、間の取り方――すべてが、貴族社会という舞台のために完璧に調整されている。屋敷内で見せる利発さとも、執務室で号泣していた幼さとも、まるで別人だった。
(この娘は、外向けの顔をここまで作り込めるのか)
父としての驚きと、当主としての警戒が、同時に胸の中で渦を巻いた。
アーシュラ侯爵は、一瞬言葉を失った。強い者、荒い者、威勢のいい者には慣れている武門の侯爵である彼にとって、4歳の幼女からここまで整った外交儀礼を向けられる経験などあるはずもない。しかも、その礼は可愛らしい努力ではなく、本物だった。
出迎えの列に並んでいた従者たちの間にも、かすかなざわめきが走った。誰も声には出さないが、視線の端でリゼルの所作を追っている。武門の家に仕える者たちは、力の優劣には敏感だが、礼儀作法の優劣にはさほど詳しくない。それでも、目の前の礼が、およそ子供の演技の域を超えていることだけは、誰の目にも明らかだった。
数拍遅れて、アーシュラ侯爵は低く笑った。
「これは……見事なご挨拶ですな。4歳とは思えぬ。さすがはヴァルクロア大侯爵家の御息女」
「過分なお言葉、恐悦にございます」
「いやいや、世辞ではござらぬ。当家にも礼法の師はおりますが、これほどの立ち居振る舞いを身につけた娘御には、なかなかお目にかかれませんぞ。うちの娘なぞ、未だに廊下を走り回っておるというに」
その言葉に、周囲の従者から、控えめな笑いが漏れた。侯爵自身も、悪びれずに笑っている。武の家らしい、飾らない物言いだった。
「娘のことは、また後ほどご紹介いたしましょう。まずは、長旅でお疲れでしょう。中へどうぞ」
リゼルは静かに微笑んだ。その微笑にも、寸分の隙もなかった。
リゼルは、そんな父の内心を知ってか知らずか、ゆっくりとメアの方を見た。
「メア」
「はい、お嬢様」
いつもの、飾らない呼びかけではなかった。屋敷では「メア、頼む」で済ませるところを、今のリゼルは、まるでエルミナが侍女に語りかけるような、ゆったりとした優しい響きに変えていた。真の貴族令嬢が、当然のように纏う声音だった。
メアは、その変化に一瞬だけ戸惑うような顔をしたが、すぐに侍女の顔に戻り、深く頭を下げた。
「アーシュラ侯爵閣下に、お土産の品を献上してくださいな」
「かしこまりました」
メアが、馬車の中から大事そうに抱えていた箱を前へ差し出した。オルディアスは、思わずその箱に視線を向けた。ヴァルクロア家としての正式な贈答品は当然すでに用意してある。すでに別の馬車に積み込まれ、目録も整え、先方へも事前に通してあった。だが、これはそれとは別だ。リゼル個人の判断で持ち込まれた品である。
(何をするつもりだ、リゼル)
出立の日、私財で贈答品を用意したと娘から告げられた時のやり取りが、脳裏をよぎる。あの時は結局、押し切られる形で頷くほかなかった。だが、それをまさか、この初対面の場で、正式な贈答品よりも先に披露するとは思っていなかった。
(順番としては、正式な品を先に出すのが筋のはずだが……いや、この娘のことだ。順番にも意味があるのだろう)
メアが布を解く。現れたのは、宝石と金糸で飾られた大きな箱だった。周囲の従者たちの視線が、自然とその箱に吸い寄せられる。武具や馬具を扱うことに慣れた彼らの目にも、その細工の見事さは一目で分かるものだった。
さらに蓋が開かれると、周囲の空気が一瞬で変わる。白い、ふわりとした生地。艶やかな生クリーム。赤く輝く果実。それは単なる菓子ではなかった。小さな子供が旅先へ持ってきた可愛らしい手土産ではない。贈答品として見事に仕立てられた、堂々たる献上品だった。
アーシュラ侯爵の目が見開かれる。
「こ、これは……」
「ご存じでいらっしゃいますか、閣下」
「無論。王都で名高いあの菓子でございましょう。妻から幾度となく話を聞かされておりましたが、まさ
か本物をこの目にする日が来ようとは」
彼は知っていた。王都で噂になっている新しい菓子。貴族家の茶会で話題となり、甘味好きの夫人たち
がこぞって求め、料理人たちが製法を知りたがっているという、白く美しい菓子――ショートケーキ。武門の家だからといって、流行に疎いわけではない。知った上で、武門の誇りとして必要以上に騒がなかっただけである。
その噂の菓子が、いま目の前にある。しかも、アーシュラ家への土産として、明らかに大きく、豪奢に、見栄えよく作られていた。
侍従の一人が、たまらずといった様子で小声を漏らした。
「これが、あの……」
「静かに」
すぐ隣に立つ古参の従者が、短くたしなめる。だが、その従者自身の目も、箱の中身から離れずにいた。
リゼルは静かに言った。
「貴家の皆様にお召し上がりいただければ幸いにございます。アスラ族の方々は体格が立派でいらっしゃいますので、少々大きめに作らせました」
「なんと、そこまでお考えくださったのか」
その言葉に、アーシュラ侯爵の表情がさらに変わった。相手の種族的特徴、家風、食卓の規模を踏まえた上で作られた贈答品。つまり、これは幼い令嬢の思いつきではなく、明確にアーシュラ家へ向けた礼だった。
「これは……リゼル嬢が?」
「はい。未熟ながら、私が考案した菓子にございます。もし後ほど、貴家の料理人の方々にお会いすることをお許しいただけるならば、貴家の食卓に合うよう製法を調整の上、お教えさせていただきます」
「製法まで……!」
アーシュラ侯爵は心底から喜んでいた。武門の家であっても、もてなしは必要である。客を迎える食卓、夫人たちの茶会、同盟家との交流、領内料理人の技術向上。新しい菓子の製法を得ることは、単なる甘味の問題ではなく、アーシュラ家が王都の文化と接続するための、目に見える資産だった。
「ありがたい。実にありがたいお申し出にございます。リゼル嬢、アーシュラ家はこの御厚意を忘れませぬ」
「過分なお言葉、恐悦にございます」
リゼルは再び、美しく礼をした。
オルディアスは、天を仰ぎたくなった。
(我が娘は、菓子で外交を成立させてしまっている。しかも、あの号泣していた同じ娘とは思えぬ顔で)
まだ屋敷の中にも入っていない。正式な会談も始まっていない。それなのにリゼルは、到着早々、完璧な礼法と、噂の菓子と、その製法提供という3段構えで、アーシュラ侯爵の心を掴んでしまった。
アーシュラ侯爵家の従者たちも、密かにざわめいていた。彼らは武門の家に仕える者たちである。豪奢な菓子ひとつで浮き足立つほど軽薄ではない。だが、これはただの菓子ではなかった。王都で噂の新菓子。それを考案した本人が訪れ、しかも製法を教えると言っている。その価値を理解できないほど、彼らは愚かではない。
メアは包みを開いた後、リゼルの斜め後ろに下がっていた。緊張はしている。だが、その顔には誇らしさもあった。リゼルが用意したものが、アーシュラ侯爵に受け入れられた。そのことが、自分のことのように嬉しいのだ。
オルディアスは、そのメアの様子を見て、また別の不安を覚える。
(この侍女は、リゼルの行動を止める役にはならない。むしろ全力で支える側だ。……駄目だ。歯止めがない)
父の不安など知らぬまま、場は和やかに進んでいく。
アーシュラ侯爵は一度従者へ視線を向け、丁重にショートケーキを運ばせるよう命じた。粗雑な扱いは許されない。武具を運ぶ時とは違う種類の緊張が従者たちの間に走り、彼らは慎重に箱を受け取った。運ぶ手つきは、まるで宝剣でも扱うかのように、ぎこちなく丁寧だった。
「後ほど、家の者にも披露いたしましょう。妻も、子供たちも、喜ぶに違いありません」
「お気に召していただければ幸いにございます」
「いや、これは喜びましょう。王都の茶会で話題になっている菓子を、まさか我が家で最初にこのような形で頂けるとは」
アーシュラ侯爵の声は、先ほどより明らかに柔らかくなっていた。
オルディアスは、それを見逃さない。武門の家は、強さを尊ぶ。だが同時に、筋を通す者を好む。リゼルはその初手で、相手を軽んじず、媚びもせず、相手の家風を踏まえた贈り物を差し出した。アーシュラ侯爵が好意を抱かないはずがない。
外交としては、完璧に近い。問題は、それを行ったのが4歳の娘であるという一点だけだった。
「では、屋敷へご案内いたします。長旅でお疲れでしょう。まずは客間にてお休みください」
「その前に、アーシュラ侯爵。我が家からも、正式な贈り物を用意している」
オルディアスが、後方に控えていた従者へ目配せをした。従者が恭しく進み出て、漆塗りの長箱を捧げ持つ。中には、ヴァルクロア領で産出される稀少な魔導鉱石を用いた武具の飾り金具と、北方魔境から仕入れた良質な毛皮が収められていた。武門の家へ贈るに相応しい、実用と格式を兼ねた品である。
「ヴァルクロア家より、些少ながら」
「これは……過分な品を。丁重に頂戴いたします」
アーシュラ侯爵は、箱の中身を一瞥しただけで、その質の高さを見て取ったらしい。満足げに頷き、従者へ運ばせるよう命じた。
こうして、正式な贈答の儀礼も滞りなく終わる。だが、皮肉なことに、場の空気を最も温めたのは、正式な目録にも載っていない、あの菓子の箱の方だった。
「過分なるお心遣い、心より感謝申し上げます、ヴァルクロア大侯爵閣下」
そう言って、アーシュラ侯爵は屋敷の方へ視線を向けた。その表情には、来客への儀礼的な笑みだけではない、確かな好意が浮かんでいた。
その時、玄関の扉がもう一度開き、優雅な足取りの女性が姿を現した。
紫がかった長い黒髪を、繊細な金の髪飾りで結い上げている。赤銅色の肌はアーシュラ家の血を示すものだが、4本の腕はアスラ族の女性らしい優美な所作で組まれ、纏う気配は夫や息子たちとはまるで違う、静かな威厳に満ちていた。
リゼルは、完璧な礼を保ったまま、その姿へ静かに視線を注いだ。
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名前:マヒーシャ・レイ・アーシュラ
種族:アスラ族
身分:アーシュラ侯爵家 当主夫人
年齢:41歳
レベル:2050
生命力:19000
魔力量:15000
筋力:1200
耐久:1350
敏捷:5800
知力:2600
精神:2900
統率:1800
政治:3100
礼法:3400
忠誠適性:夫と家門に対し高い
主要適性:高速戦闘/隠密/社交儀礼/情報収集
危険度評価:中(直接戦闘)/高(奇襲・逃走能力)
敵対意志:なし
備考:侯爵夫人としての社交能力に優れる一方、敏捷値はアーシュラ家随一。有事の際の護衛・伝令役としても機能しうる。
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(当主より格下のレベルで、敏捷値だけが突出している。……ルドラの母上か。さすがは武門のエリートだ。推せる!)
「ヴァルクロア大侯爵閣下。こちらが妻のマヒーシャにございます」
マヒーシャは、優雅に一礼した。
「お初にお目にかかります。ヴァルクロア大侯爵閣下。カルガ・ザン・アーシュラが妻のマヒーシャにございます。夫が粗相をしてはおりませぬか、心配で参りました」
そう言って柔らかく微笑む。宮廷の作法にも通じているのだろう、その礼は洗練されており、武門の家の夫人とは思えぬほど優雅だった。
「これは手厳しい。粗相どころか、先ほどヴァルクロア大侯爵閣下より、素晴らしい贈り物を頂戴したところだ」
「まあ、贈り物を。それは、ぜひ私にも見せてくださいまし」
マヒーシャの視線が、まだ運ばれている途中のショートケーキの箱へ向く。
「これは……もしや、王都で噂の」
「左様。しかも、そこにおられるリゼル嬢が考案されたものだそうだ」
「まあまあ、なんてこと」
マヒーシャは、目を輝かせてリゼルの方へ視線を移した。
「お噂はかねがね。あなたが、あの菓子を……。私、茶会で何度も話題にしておりましたのよ。一度は口にしてみたいと思っておりましたの」
「お口に合いますよう、心より願っております」
リゼルの完璧な礼に、マヒーシャは目を細めた。
「本当に、4歳とは思えませんこと。オルディアス様、羨ましい限りですわ。うちの娘ときたら……」
そこで言葉を切り、マヒーシャは苦笑した。その先に何が続くのか、誰もが薄々察していた。
「まあ、それは後ほど、あの子に会っていただければ分かりますでしょう」
「これ、あまり脅かすでない」
アーシュラ侯爵が、苦笑しながら妻をたしなめる。その気安いやり取りに、夫婦の親密さが滲んでいた。
「では、皆様、中へ。長旅の疲れを、まずは癒していただかねば」
マヒーシャに促され、一行は屋敷の中へと足を踏み入れる。
玄関を抜けると、外観の武骨さとは対照的に、内部の広間には織物や装飾品が飾られ、意外なほどの調和が保たれていた。壁には歴代当主の肖像画と、実戦で使われたであろう武具が並んで飾られている。力と品格が、同じ空間に同居していた。
床には、深紅の絨毯が長く伸びていた。踏むたびに、こつり、こつり、と靴音が吸い込まれる。天井は高く、大きな窓から差し込む光が、埃ひとつない床に長い影を落としていた。
「客間はこちらに用意しております。旅の疲れを癒された後、夕刻には晩餐の席を設けさせていただきますが、よろしいでしょうか」
マヒーシャが、案内役の従者に目配せをしながら言った。
「ありがたい申し出だ。よろしく頼む」
オルディアスが応じると、マヒーシャは満足げに頷き、先に立って歩き出す。廊下の途中、何枚もの肖像画が並ぶ壁の前を通り過ぎる時、リゼルはほんの一瞬だけ、その視線を止めた。
(歴代当主……この中に、いずれルドラの肖像も加わるのだろうか)
その考えは、すぐに完璧な表情の下へ沈められた。
やがて、一行は客間のある一角へたどり着いた。重厚な木の扉が並ぶ廊下は、玄関広間よりもさらに落ち着いた造りをしている。壁には控えめな灯りが並び、床には音を吸い込む厚手の絨毯が敷かれていた。
「こちらが、大侯爵閣下のお部屋にございます。隣室が、リゼル嬢と侍女殿のお部屋となります」
「行き届いた手配、痛み入る」
「いいえ。むしろ、我が家のような無骨な屋敷では、行き届かぬ点も多いかと存じます。何かご不便がございましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ」
マヒーシャの言葉には、社交辞令を超えた誠実さが滲んでいた。武の家に嫁いだ者らしい、しなやかな気配りだった。
そして、思い出したように、マヒーシャはオルディアスへ向き直った。
「失礼、閣下。一つ、お許しをいただきたき儀がございます。先ほどのお申し出、リゼル嬢が製法をお教えくださるとのこと。当家の料理長は腕は確かなのですが、王都風の繊細な菓子作りには不慣れなところがございまして。この滞在の間に、料理長をリゼル嬢のもとへ伺わせても構いませんでしょうか」
「いいえ」
リゼルは、静かに、しかしはっきりと首を横に振った。
「料理長様に、こちらへお越しいただく必要はございません。わたくしが、厨房へ伺います」
その場の空気が、一瞬にして止まった。
カルガが、目を丸くする。マヒーシャに至っては、口元に手を当てたまま、言葉を失っていた。
「り、リゼル嬢が、自ら厨房へ……?」
「畏れながら、それはあまりに……」
マヒーシャが、慌てたように言い淀む。ヴァルクロア大侯爵家の令嬢を、厨房などという場所へ足を運ばせるなど、もてなす側として看過できることではなかった。
「閣下の御令嬢に、そのような真似をさせるわけには参りません。せめて、料理長をこちらへ」
カルガもまた、申し訳なさそうに言葉を重ねる。武門の家とはいえ、客人への礼を欠くことは、彼らの誇りが許さなかった。
「お気遣い、痛み入ります。ですが」
リゼルは、穏やかに、しかし揺るがぬ調子で続けた。
「この菓子作りは、言葉だけでは、決してお伝えしきれません。生地を混ぜる際の力加減、泡立てる時の手首の返し、砂糖を加える瞬間の見極め――そのどれもが、目の前で、実際に手を動かしてお見せしなければ、正しく伝わらないのです。伝え聞いた通りに作っても、必ずどこかで、味が変わってしまいます」
「……それほどまでに、繊細なものなのですか」
「はい。たとえば」
リゼルは、指を一本立てた。
「生地に用いる白翼鶏の卵は、常温に戻してから泡立てねばなりません。冷えたままでは、空気を含みにくく、生地が重くなります。砂糖は、一度に入れず、3度に分けて加えます。目安は、匙にして小さじ3杯分ずつ。一度に入れすぎれば、泡が潰れてしまいます」
その説明に、マヒーシャは思わず息を呑んだ。
「小麦粉を混ぜ込む時は、決して力任せに掻き回してはなりません。ゴムべらを使い、底からすくい上げ
るように、大きく、静かに。せいぜい40回ほど。混ぜすぎれば、生地が硬くなり、あの軽やかな食感は失われます」
「40回、でございますか。数えながら……?」
「はい。焼き上げる際の炎の強さも重要です。窯の中は、170マグドに保ちます。それより強ければ表面だけが焦げ、生地の中心まで火が通りません」
「生クリームは、泡立てすぎず、角がゆるやかに立つ程度で止めます。泡立てすぎれば分離し、風味が損なわれます。果実は、酸味の強い赤い実を薄く切り、生地の隙間に挟み込みます。甘さと酸味の均衡が、この菓子の要にございます」
リゼルは、そこで一度言葉を切り、微笑んだ。
「このように、どの工程にも、目と手で確かめねばならない見極めがございます。感覚や勘に頼っては、二度と同じ味は作れません。一度お見せすれば、料理長様も、きっとすぐに会得なさいましょう。ですから、わたくしが厨房へ伺うのが、最も確実かと存じます」
理路整然とした説明だった。4歳の童の言葉とは、到底思えない。カルガとマヒーシャは、しばし顔を見合わせた。
「……分かりました。そこまで仰るのであれば」
マヒーシャが、深く息を吐きながら頷いた。
「ですが、決して、厨房の者に無理な真似はさせません。リゼル嬢には、あくまで指導役としてお越しいただき、力仕事は厨房の者に任せていただきますよう」
「ご配慮、痛み入ります」
「本当に……このような御令嬢に育て上げられた、オルディアス様が羨ましい限りですわ」
マヒーシャは、そう言って、感じ入ったように目を細めた。
その隣で、オルディアスは、内心で複雑な思いを抱えていた。
(娘が厨房へ立つと言い出した時は肝が冷えたが……それすらも、計算のうちだったのか)
「明日にでも、時間を頂戴できますでしょうか。厨房の皆様にも、あらかじめお伝えいただければ幸いにございます」
リゼルの返答に、マヒーシャは嬉しそうに目を細めた。
「なんとありがたいこと。夕食の後にでも、料理長を紹介させていただきますわね」
「かしこまりました」
「夕刻の晩餐までは、どうぞごゆるりと。……ああ、それと」
マヒーシャは、思い出したように付け加えた。
「先ほど申しました娘のほかにも、息子が2人おります。上の子は、当家には珍しく、剣よりも書物を好む質でしてね。ですが、末の子は、それを補って余りあるほど武に恵まれた子でして」
その言葉に、オルディアスは思わず苦笑した。自分の娘が「武に恵まれた」などという単純な言葉では到底片付けられない規格外だとは、口が裂けても言えなかった。
その時だった。廊下の奥から、何やら騒がしい気配が近づいてきた。
「あら」
マヒーシャが、小さく苦笑する。
「もう聞きつけたようですわね」
その一言に、オルディアスの胸に、かすかな緊張が走った。まだ見ぬ人物への予感が、廊下の先から急速に近づいてきていた。
まだ、この訪問は始まったばかりだった。




