5.ボイラー室のキリング・フィールド
地下第4層、ボイラー室。そこは歌劇場の華やかな舞台からもっとも遠く、もっとも醜悪な熱気に満ちた「心臓部」だった。
巨大な配管が血管のようにのたうち回り、高圧蒸気が漏れ出す湿った音が、地上のオーケストラを打ち消す低周波の唸りとなって響いている。
フォン・クラウスは、タキシードの裾を汚さぬよう細心の注意を払いながら、煤けた鉄扉の前に立っていた。背後のボディガード二人が、懐のサブマシンガンに指をかけ、周囲の暗がりに鋭い視線を走らせる。
「……時間だ。姿を見せたらどうだ、同志諸君」
クラウスの声が、金属質の壁に反響した。
蒸気のカーテンの向こうから、音もなく三つの影が浮かび上がる。東側諸国の工作員たちだ。彼らは一切のバッジを排したタクティカルウェアに身を包み、最新型の抑制器付き短機関銃を構えていた。中央の男が、無言で手のひらを見せる。
クラウスは満足げに頷くと、チタン製のケースを差し出した。
「NATO次世代統合防衛網のマスター暗号鍵だ。これがあれば、君たちの国の古い巡航ミサイルも、ベルリンの空を散歩する自由を得るだろう」
工作員がケースを受け取り、内部のストレージを確認した。青白いLEDが正常な読み取りを示した、その瞬間だった。
「連邦情報局だ!全員動くな!武器を捨てろ!」
ボイラー室の全方位から、高輝度のフラッシュライトが闇を切り裂いた。防弾シールドを先頭に、ガスマスクを装着したBNDの突入班が、訓練されたタクティカル・ムーブで包囲網を狭めていく。指揮官マイヤーの怒号が、蒸気混じりの空気を震わせた。
「クラウス公使!貴様を国家反逆およびスパイ容疑で拘束する!外交特権は現行犯の前では無力だ!」
だが、クラウスの顔に動揺はなかった。それどころか、彼は嘲笑を浮かべて一歩下がった。
「マイヤー……。君たちは、自分たちが『追い詰めている』と本気で思っているのか?」
その言葉が終わるより早く、工作員の一人が腰に下げた特殊手榴弾を床に叩きつけた。
爆音。しかしそれは殺傷用ではない。強烈な白光と高周波のノイズがボイラー室を真っ白に塗りつぶした。
「撃てッ!」
マイヤーが叫ぶのと同時に、地獄の蓋が開いた。
一転して、静寂の地下はキリング・フィールドへと変貌した。
東側の工作員たちは、目つぶしの閃光の中でも迷いなく、BNDのタクティカル・ライトの光源を狙って銃弾を叩き込んだ。抑制器越しの「パパパパッ」という乾いた破裂音が、ボイラー室の金属壁に跳ね返り、凄まじい騒騒音となって渦巻く。
「コンタクト!前方12時方向、敵3名!遮蔽しろ!」
BNDのエージェントが、被弾したシールドの火花に顔を背けながら、MP5の引き金を引いた。9ミリ弾の雨が、巨大な蒸気タンクの表面を叩き、凄まじい金属音と共に灼熱の蒸気を噴出させる。
「クソッ、視界がゼロだ!赤外線を使え!」
「ダメです!ボイラーの熱源が強すぎてノイズだらけだ!」
工作員たちの動きは、洗練された死のダンスのようだった。彼らはあらかじめ配置されていた予備の武器コンテナへ向かって躍動し、手榴弾を正確にBNDの突入経路へ放り投げる。爆発の衝撃波で配管が破裂し、高圧の熱湯がスプリンクラーのように降り注いだ。
クラウスのボディガードもまた、タキシードの下からPDWを抜き放ち、乱戦に加わった。
「こちらアルファ1!激しい抵抗を受けている!増援を地下4層へ回せ!奴ら、最初から我々の突入を予期して待ち伏せていたぞ!」
マイヤーが壁に背を預け、飛び交う跳弾の嵐の中で無線に怒鳴り込む。
銃撃戦の火花が、暗いボイラー室を断続的に照らし出す。
崩れ落ちる棚、粉砕される計器、そして蒸気の向こう側で冷酷に動く工作員たちのシルエット。BNDは数で勝っていたが、狭隘な地下空間での高度なゲリラ戦術の前に、一人、また一人と負傷者を出し、防戦を強いられていった。
この閉鎖された殺戮の迷宮で、血と硝煙、そして錆びた水の臭いが混じり合う。
クラウスは工作員に守られながら、BNDの弾幕をあざ笑うように後退し、さらに深い闇――非常用の脱出口へと逃げ込もうとしていた。
誰もが、この戦いの勝者は「力」で圧倒するどちらかの陣営になると信じて疑わなかった。
しかし、その激しい閃光と銃声の狭間に、音もなく忍び寄る「亡霊」たちの存在に、未だ誰も気づいてはいない。




