4.42回目のロマンス
劇場の華やかな喧騒が遠ざかり、代わりに重厚なコンクリートの冷気と、古い配管が唸るような低周波音が支配する世界へと切り替わる。地下通路は、地上の豪華絢爛な装飾とは無縁の、機能性だけを追求した無機質な空間だった。
『ターゲット、地下第3セクションを通過。工作員との合流ポイントまであと50メートル』
キャットウォークから通気口を這い進むマヤの、温度のない声が耳朶を打つ。
「BNDの突入班も動いたわね。……あら、正面から2人。かなり殺気立ってるわよ、レン」
アイリスが、レンの腕に絡めた指先に力を込めた。曲がり角の先から、ラバーソールの乾いた足音と、タクティカルベストが擦れる微かな音が近づいてくる。BNDの哨戒兵だ。彼らは外交官クラウスを逃さぬよう、遮音壁で仕切られたこの閉鎖空間を完全に封鎖しようとしていた。
「……予定通りだ。アイリス、準備を」
「了解。……ふふ、最高の舞台ね」
足音が角を曲がるのと同時に、レンはアイリスを壁際へと押し込んだ。
「ん……っ!」
アイリスが甘い吐息を漏らし、レンの首に細い腕を回す。二人の唇が重なった。
直後、角から現れた二人のBNDエージェントが、銃を構えたまま凍りついた。彼らの視線の先には、劇場の喧騒を抜け出し、人目につかない地下通路で激しく愛を確かめ合う「世間知らずな若夫婦」の姿があった。
「おい、貴様ら!ここは立ち入り禁止だぞ!」
一人のエージェントが怒鳴るが、アイリスは怯えるどころか、さらにレンの胸に顔を埋め、上目遣いで潤んだ瞳を向けた。
「……ごめんなさい。でも、主人がどうしても我慢できないって……」
そう言いながら、アイリスは3Dプリンター製のドレスの裾を、ゆっくりと、挑発的に指先でつまみ上げた。防弾繊維のタイトなスリットから、白磁のような太ももが露わになろうとする。
その光景は、戦場を想定していたエージェントたちを激しく動揺させた。
「おい、これ……どうする?」
「……知るか、ただのバカな金持ちだろ」
その時、エージェントたちのインカムに、マイヤー指揮官の苛立った怒号が飛び込んだ。
『……マヌケめ!そんなバカな連中に構っている暇はない!ターゲットを逃す気か?放っておけ、さっさとクラウスを追え!』
指揮官の叱責に弾かれたように、エージェントたちは忌々しげに舌打ちをした。
「……チッ。部屋に戻ってやってろ、おめでたい奴らだ」
背中を向け、足早に走り去っていくエージェントたちの気配が完全に消えるまで、二人は唇を離さなかった。
数秒後、ようやく顔を離したレンが、冷淡な手つきでネクタイを整える。
「……42回目。演技の過剰演出は控えてほしいと言ったはずだが」
「あら、厳格なリーダーねえ。でもほら、あいつら完全に毒気が抜けてたじゃない?」
アイリスは、捲り上げたドレスの裾をパタパタとはたき、不満げに唇を尖らせた。
「せっかくいいところだったのに。これからが『本番』だったのにね」
その言葉に、アヴァロンの深淵からクラウディアの澄んだ声が割り込む。
『かしこまりました、アイリス様。次回の潜入任務においては、より深度の深い、いわゆる“本番”を想定した作戦立案および、周辺環境の物理的遮断を組み込んでおきます。レン様の心拍数上昇データも参考にさせていただきます』
「……クラウディア。冗談も、そのデータ収集も不要だ。作戦に集中しろ」
レンが眉間を押さえながら低く嗜めると、無線越しにガウスの豪快な笑い声が響いた。
『ハッ!良かったなレン、次からは個室付きの任務だそうだぜ。……さあ、いちゃつきタイムは終わりだ。地獄のボイラー室に、招かれざる客が揃ったぞ』
レンは一瞬で感情を殺し、瞳に冷徹な光を取り戻した。
「ああ。……亡霊の時間の始まりだ」
地下迷宮のさらに奥。ボイラーが吐き出す蒸気の向こう側で、フォン・クラウスと東側の工作員が接触しようとしていた。同時に、回り込んだBNDの銃口が彼らを捉える。
三極の火花が散る直前、チームQという「第4の勢力」が、静かにその闇へ同化した。




