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UN-KNOWN:チームQの潜入記録  作者: やた
File01.亡霊のチェックメイト

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3.夜の魔笛

 ベルリン国立歌劇場の壮麗なロビーには、香水の甘い香りと高価な織物の擦れる音が充満していた。


 プロイセン様式の円柱が並ぶ大広間を、イブニングドレスを纏った貴婦人やタキシード姿の紳士たちが優雅に行き交う。その華やかな群衆の中に、一組の若き夫婦がいた。


「ねえ、レン。見て、あのシャンデリア。まるで星が降ってきたみたい」


 アイリスが、レンの腕にしなだれかかりながら、無邪気な声を上げた。彼女が身に纏っているのは、クラウディアが艦内の高精度3Dプリンターで分子レベルから再構成した特注のドレスだ。シルクの光沢とナノ繊維の防弾性能を併せ持つ漆黒の布地は、アイリスの白い肌をいっそう際立たせていた。


「……ああ。だが、星に見惚れて足元を掬われないように。ベルンシュタイン男爵夫人」


 レンは隣を歩くアイリスの腰をエスコートしながら、右耳の裏、髪に隠れた皮膚の感触を確かめた。そこには超小型の通信デバイス、Q-Link(キュー・リンク)が吸着している。


 このデバイスは、一般的な無線機とは一線を画すオーバーテクノロジーの産物だ。装着者の脳波を直接デジタル信号に変換し、神経接続を通じて意思を伝達する。


「――Q-Link、リンク正常。ノイズなし」


 レンは喉を震わせることなく、ただ「思考」した。声に出さずとも、彼の意志は即座にチーム全員の意識へと直接流れ込む。


「こちらアイリス、クリアよ。……やっぱりこのQ-Link、いつ使っても不思議な感覚ね。頭の中に直接レンの声が響くなんて、まるで本当の夫婦みたいじゃない?」


 アイリスの艶っぽい思考が、レンの脳内に直接展開される。このシステムの最大のメリットは、潜入時の完全な無発声通信だ。至近距離に敵がいても、呼吸一つ乱さずに複雑なタクティカル連携が可能となる。


「……マヤ、配置。視覚・バイタル情報の共有を開始」


 続いて、マヤの短く冷徹な思考が共有された。同時に、レンの視界の端にはマヤが捉えている狙撃スコープの映像と、ガウスの心拍数、そしてクラウディアによる精神ナビゲートの座標データなと、あらゆる情報が、拡張現実(AR)として脳に直接マッピングされていく。


「脳を直接いじられるのは、何度やっても慣れねえな。……だが、おかげで迷子にならずに済むぜ」


 ガウスの粗野な思考が、バックステージの喧騒と共に脳内へ流れ込んでくる。


 4人とAIが、Q-Linkによって一つの巨大な神経系のように結ばれる。


「クラウディア。Q-Linkの暗号化強度を最大に。……ここからは思考の漏洩すら許されない」


『承知いたしました、レン様。皆様の精神状態(バイタル)は私が常に監視しておりますわ。……どうぞ、雑念を捨ててオペラをお楽しみください』


 完璧な秘匿性とコンマ数秒を争うタクティカルな連携。

 この「脳内共有」がある限り、どれほど強固な警備に囲まれようと、彼らにとってこの劇場は自分たちのリビングルームも同然だった。


「各員、配置完了。……クラウディア、劇場の監視カメラのループ処理はどうだ?」


『完了しております、レン様。現在、保安室のモニターに映っているのは5分前の静止画を合成した偽映像です。ガウス様、そちらの搬入口はいかが?』


 スピーカーではなく、耳の奥に直接届くクラウディアの声。


「おう、こっちは順調だ。機材搬入のバイト君たちは今頃、倉庫で仲良く昼寝してるぜ」


 劇場のバックステージ、薄暗い通路を歩くガウスは、劇場のロゴが入った作業服に身を包んでいた。その手には重々しい機材ケース。中身は照明器具ではなく、指向性ジャマーと近接戦闘用の非殺傷装備だ。


「マヤ。天井の居心地はどう?」


 アイリスが無線に割り込む。


「……涼しい。ターゲット、視認」


 劇場の天井裏、キャットウォークの影に潜むマヤは、漆黒のタクティカルウェアに身を包んでいた。彼女の膝の上には、分解・再構築された折り畳み式の特殊狙撃銃が鎮座している。その銃口は、3階のVIPボックス席に座るフォン・クラウスの、ちょうど後頭部を捉えていた。


 同じ頃、劇場の外周ではBNDのマイヤーが、歯噛みしながら無線機を握りしめていた。


「……クラウスが席に着いた。2列後ろの14番と15番に潜入員を配置。だが、距離が遠すぎる。奴の隣には屈強なボディガードが2人。……これでは受け渡しの瞬間を撮るのも一苦労だ」


 外交特権という名の防壁が、劇場内の華やかな照明の下でいっそう強固に感じられる。マイヤーには、クラウスの余裕に満ちた横顔が、自分たちへの嘲笑に見えていた。


 やがて、場内の照明がゆっくりと落ち、指揮者がタクトを振り上げた。


 モーツァルトの傑作オペラ『魔笛』の序曲が、重厚に響き渡る。


 舞台の幕が上がると、そこには異国の王子タミーノが大蛇に追われる幻想的な世界が広がっていた。3人の侍女に救われたタミーノは、夜の女王の娘パミーナの肖像画を見て恋に落ち、鳥刺しのパパゲーノと共に、彼女を救い出す旅に出る――。


 物語が進むにつれ、観客たちはその魔法のような音楽と演出に引き込まれていく。夜の女王が歌う超絶技巧のアリア『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』が劇場を震わせ、人間の愛と試練、そして知恵の勝利を謳い上げる。


 だが、VIP席のクラウスにとって、この舞台は単なる「待ち時間」に過ぎなかった。


 彼は時折、タキシードの内ポケットに忍ばせたチタン製のケースを確かめるように触れていた。その隣では、ボディーガードたちが微動だにせず、客席の動きを監視している。


 レンは隣席のアイリスの手を握りながら、瞳の奥でクラウスの心拍数と視線の動きを計算していた。


(……クラウス、君は音楽を楽しんでいないね。時計を見る回数が多すぎる。……待ち合わせの時間は、第1幕が終わると同時に訪れるわけだ)


 舞台上では、タミーノとパパゲーノが沈黙の試練に挑んでいる。


 パミーナの嘆き、そしてザラストロの厳格な教え。光と闇が交錯する物語は、第1幕のクライマックスへと向かっていく。


 レンは周囲の観客の熱狂とは裏腹に、極限まで集中力を研ぎ澄ませていた。


「ガウス、地下ボイラー室への経路にBNDの哨戒兵が2名。……彼らを傷つけずに『どいて』もらう準備を」


『了解だ。……ちょっとした『舞台演出』を見せてやるよ』


「マヤ。工作員が地下へ降りるタイミングを逃すな。……彼らがストレージを手にした瞬間が、僕たちの開演だ」


『……了解。ロックオン継続』


 そして、ついにその時が来た。


 第1幕が終了し、万雷の拍手と共に場内の照明が点灯する。


 観客たちが一斉に立ち上がり、シャンパンや会話を求めてロビーへと溢れ出していく「幕間(インターミッション)」の始まりだ。


 クラウスは、周囲の観客に合わせて自然な動作で立ち上がった。


 彼はボディーガードに耳打ちし、ロビーとは逆の方向――関係者以外立ち入り禁止の重い扉が並ぶ、地下通路の方角へと歩みを進める。


 その直後、レンとアイリスもまた、談笑する若い夫婦を完璧に演じながら、群衆を縫うようにして彼らの後を追った。


「さあ、レン。42回目の本番、楽しみにしてるわね?」


 アイリスの囁きが、レンの耳元でいたずらっぽく跳ねた。


「……やれやれ。今夜の演目は、台本通りにはいかないぞ」


 レンはそう言い残すと、背後の喧騒を捨て、冷たい沈黙が支配する地下迷宮へと足を踏み入れた。


 BNDのマイヤーが「ターゲットが動いた! 全員、地下区画へ急げ!」と無線で怒号を飛ばす中、アヴァロンの深淵でクラウディアが静かに微笑んだ。


『……幕間劇の始まりです。皆様、どうぞ素晴らしい『亡霊の仕事』を』

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