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UN-KNOWN:チームQの潜入記録  作者: やた
File01.亡霊のチェックメイト

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2.アヴァロンのブリーフィング

 ベルリンを流れるシュプレー川の底、数千年に及ぶ堆積物と冷たい暗闇に閉ざされた領域。そこに、物理法則をあざ笑うかのような「異物」が潜んでいる。


 多機能潜行艇アヴァロン。光学迷彩によって周囲の泥や水流と完全に同化し、熱源すら遮断したその船体は、現代のどのソナーをもってしても「存在しない波紋」として処理される。


 だが、その冷徹な外観とは裏腹に、船内のタクティカル・ラウンジに流れている空気は、驚くほど緩慢で私的なものだった。


「……だから言っただろ、アイリス。あの店の限定パンケーキ、並ぶ価値ねえって。トッピングのクリームが重すぎて、後半はただの苦行だったぜ」


 ガウスが、自室から持ち出したお気に入りのプロテインシェイカーを振りながら、ソファに深く沈み込んでいた。彼はトレーニングウェア姿で、はち切れんばかりの筋肉を休めている。


「えー、そうかなあ?あたしはあの背徳感がたまらないんだけど。ガウス、あんたは筋肉のことばっかり考えてるから味覚が原始人なのよ」


 アイリスは、タブレットのカタログを、指先で器用にスクロールさせていた。彼女が選んでいるのは、今夜の潜入で使うためのアクセサリーだ。


「見てよこれ、ヴァレンティノの新作。潜入用じゃなきゃ自腹で買いたいレベル。レン、経費で落ちるよね?」


 ラウンジの奥、磨き上げられたチェス盤の前に座るレンは、二人の雑談を遮ることなく、静かにコーヒーカップを口に運んだ。


「……作戦に必要な経費なら、事務次官が喜んでサインする。それが『世界の均衡』を守るためのチップ代だと彼に思わせるのが、君の仕事だ」


「話が分かる! さすがリーダー」


 アイリスが満足げにウィンクする。その傍らでは、マヤが無言でライフルのボルトを抜き、専用のクロスで丁寧に拭っていた。彼女にとって、この静かなメンテナンスの時間は祈りにも似た儀式だ。


 その穏やかな――ある種の脱力感に満ちた日常を切り裂いたのは、空間に突如として出現した巨大なホログラムだった。


 映し出されたのは、国連事務次官ハリー・エヴァンス。その顔は、数分前までベルリンの監視モニターを見つめていたマイヤー以上に、焦燥と疲労で歪んでいる。


『……レン、聞いているか。事態は一刻を争う』


 エヴァンスの声がラウンジに響き渡る。


『フォン・クラウスが動いた。奴は今夜、ベルリン国立歌劇場で東側の工作員と接触する。NATOの次世代暗号鍵……これが東側諸国へ流出すれば、西側の防衛システムは数時間にわたって完全に無力化されるだろう。BNDも現場に展開しているが、彼らは外交特権という見えない壁の前で立ち往生している』


 レンはコーヒーを飲み干し、静かにカップをソーサーに戻した。その音だけが、エヴァンスの悲鳴に近い説明を遮る。


「承知しています、事務次官。BNDのマイヤー指揮官は優秀ですが、彼は『ルールを守る』ために雇われている。僕たちのように、ルールそのものを無視するために雇われているわけではない」


『嫌味を言っている暇はない!猶予は今夜、オペラの幕間(インターミッション)が終わるまでだ。データの奪還、そしてクラウスの失脚。これらを「公式には何も起きなかった」状態で完遂せよ。……頼む、チームQ。この綱渡りを支えられるのは、君たちだけだ』


 ホログラムが消えると、ラウンジの空気が一変した。


 先ほどまでの弛緩した雰囲気は霧散し、それぞれの瞳にプロフェッショナル特有の鋭い光が宿る。


「さて、ブリーフィングを始めようか」


 レンが指を鳴らすと、ラウンジの中央に歌劇場の精密な3Dマップが展開された。


「ターゲットはフォン・クラウス。目的は物理ストレージの奪還。そして何より重要なのは、BNDにも、クラウスにも、東側にも、僕たちの存在を悟らせないことだ」


 レンの細い指が、マップ上の地下区画を指し示す。


「BNDはクラウスが現行犯でデータを受け渡す瞬間を狙っている。だが、東側の工作員も馬鹿じゃない。彼らは人気がない地下の遮音区画、ボイラー室付近を接触ポイントに選ぶはずだ。そこなら銃声が響いても、上の観客には聞こえないからね」


「なるほど、暗闇の中での乱戦か。俺の出番だな」


 ガウスが首の骨をボキリと鳴らし、不敵に笑う。


「ガウスは劇場の技術スタッフとしてバックステージから潜入。混乱に乗じてBNDの視界を塞ぎ、工作員たちの逃走経路を『演出』してもらう。マヤはキャットウォークから狙撃。……ただし、殺してはいけないよ。特殊麻酔弾で、一瞬の意識混濁だけを与えてくれ」


「了解」


 マヤが短く応える。


「そしてアイリス。君と僕は、今夜の主役だ」


 レンの言葉に、アイリスが楽しげに身を乗り出した。


「ええ、分かってるわ。若くて野心的な富豪夫妻、フォン・ベルンシュタイン男爵とその夫人。新婚旅行の途中で、オペラ座の最前列で愛を語り合う……素敵じゃない?」


「設定は最小限でいい。……問題は、監視の目をどう潜り抜けるかだ。地下への通路にはBNDの哨戒兵が立っているはずだ」


 アイリスはいたずらっぽく笑い、レンの肩に手を置いた。


「大丈夫よ、レン。そういう時は『情熱的な演技』で乗り切るのが潜入の基本でしょ?兵士だって、新婚夫婦の熱いプライベートを邪魔するほど無粋じゃないはずよ」


「……またそれか。いい加減、他の方法を考えてほしいんだが」


 レンが露骨に顔を顰める。


「あら、何言ってるの。前回のモスクワでのミッションは、結構様になってたわよ?」


『……記録によれば』


 クラウディアの澄んだ声が、天井から降ってきた。


『お二人の潜入任務における接吻は、本日行われれば通算42回目となります。アイリス様、今回のシチュエーションに合わせて、平均持続時間を3秒ほど延長するプランをご提案しましょうか?』


「それいいわね!採用!」


「……クラウディア、余計な計算はしなくていい」


 レンは溜息をつき、立ち上がった。


「作戦開始だ。各自、装備の最終確認を。……今夜の演目は『魔笛』。誰もが奇跡を信じたくなるような、美しい結末を世界にプレゼントしてあげよう」


 アヴァロンのハッチが静かに開き、シュプレー川の冷たい水流が入り込む。


 暗闇の中、四人の亡霊たちがベルリンの地上へと向かって放たれた。


 その背後で、クラウディアが完璧な敬語で呟いた。


『お気をつけて。……皆様の夜が、素晴らしい喜劇(コメディ)となりますように』

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