1.シュプレー川の静寂
夜のベルリンは、歴史の断層の上に成り立つ冷徹な美しさを湛えていた。
再統一から30年以上が経過してもなお、この街の空気には、かつて世界を分断していた「境界線」の記憶が、霧のようにまとわりついている。ブランデンブルク門を照らす淡いライトアップは、平和の象徴というよりは、崩れやすい均衡を必死に繋ぎ止める重しのようにも見えた。
シュプレー川の緩やかな流れに沿って、一台の黒いメルセデス・ベンツが音もなく滑っていく。
車窓から流れるベルリン国立歌劇場の壮麗な外観を眺めながら、後部座席に座る男――フォン・クラウスは、薄い唇を吊り上げた。東欧の某国から派遣されたこの特命全権公使は、仕立ての良いタキシードの胸元を整え、手元にある小さなチタン製のケースを指先でなぞった。
その中には、西側諸国が数千億ユーロの予算と10年の歳月を投じて構築した「NATO次世代統合防衛網」のマスター暗号鍵が収められている。
「……まもなく到着いたします、閣下」
運転席の男が、バックミラー越しに短く告げた。
「ああ。今夜の『魔笛』は、歴史上もっとも高価な幕間劇になるだろうな」
クラウスの声には、選ばれた者特有の傲慢さが滲んでいた。彼は知っている。自分が今、どれほど危険な火遊びをしているかを。そして同時に、自分が「外交官」という聖域の中にいる限り、誰一人としてその火を消すことはできないということも。
そのメルセデスから数百メートル後方。観光客を装った数台の車両と、周辺のビルに配置された観測員たちが、殺気立った沈黙の中でその動向を追っていた。
ドイツ連邦情報局(BND)――ベルリンの暗部を司る彼らにとって、クラウスは喉元に刺さった毒針に等しかった。
『ターゲット、歌劇場正面に到着。降車します』
偽装された清掃車両の中から、現場指揮官のマイヤーがその無線を聞いていた。彼の眼前のモニターには、クラウスが優雅に車を降り、出迎えた劇場支配人と握手を交わす姿が映し出されている。
「各班へ。現行犯以外での接触は厳禁だ。繰り返す、絶対に手を出すな」
マイヤーの声には、苦渋が混じっていた。
「いいか、相手は外交官だ。ウィーン外交関係条約第29条。身体の不可侵権。……我々が彼の手荷物を検査しただけで、ベルリンと東欧諸国との関係は氷河期に突入する。ベルリンの空にミサイルが飛んでこない限り、我々にできるのは『眺めること』だけだ」
『しかし、マイヤー指揮官!奴が今夜、東側の工作員と接触するのは確実です!』
若手エージェントの声が無線に割り込む。
『あのケースの中身が国境を越えれば、ドイツの防衛網は文字通り『素通し』になる。それでも指をくわえて見ていろと言うんですか!』
「……黙れ」
マイヤーは、コンソールを強く叩いた。
「それが『法』だ。我々BNDは、この国の法を守る組織であって、壊す組織ではない。……奴が自らデータを手放し、受け渡しを完了した瞬間にのみ、我々の『法』が発動する。それまでは、たとえ奴が目の前で核のボタンを押そうとしていても、我々は丁重にエスコートするしかないんだ」
歌劇場の重厚な扉が、クラウスを迎え入れるように開いた。
豪奢なシャンデリアの光が溢れ出し、夜の闇を一時的に押し戻す。正装したベルリンの社交界の面々が、シャンパングラスを傾けながら、これから始まる芸術の夜に酔いしれようとしていた。
その華やかな喧騒の裏側で、BNDのエージェントたちは息を潜め、冷たい汗を拭った。
彼らは、自分たちの無力さを噛み締めていた。民主主義のルールに従う限り、ルールを悪用する悪党には勝てない。その不条理な真実が、深夜の冷気と共に彼らの肩に重くのしかかる。
外交官ナンバーのメルセデスは、主を降ろすと再び闇の中へと消えていった。
BNDの監視網、外交特権という名の防壁、そして東側工作員の影。
ベルリンという巨大なチェス盤の上で、駒は揃った。
だが、この盤上に「存在しないはずの駒」が紛れ込んでいることに気づいている者は、まだ誰もいなかった。
シュプレー川の深い底から、銀色の魚のような影が、音もなく歌劇場の方角へと進路を取った。
世界が平和という名の嘘を維持するために、法が匙を投げたその領域へ。記録に残らない「亡霊」たちが、ついに動き出そうとしていた。




