4.沈黙のチェス・メイト
ニューヨーク、国際連合本部ビル。地上でもっとも安全であるはずの会議場は、今や言葉の暴力が飛び交う最前線と化していた。
「ロシア側の『ヴォルゴグラード』がミサイルハッチを開放した! これは明らかな先制攻撃だ!」
「ふざけるな! 貴様らの電子戦攻撃が我々のシステムを焼いたのだ。これは正当防衛である!」
西側諸国と東側諸国の全権大使が、顔を真っ赤にして互いの胸倉を掴みかねない勢いで罵り合っている。ホットラインは繋がっている。だが、そこから流れるのは対話ではなく、互いへの不信と「先に撃たねば殺される」という恐怖の残響だけだった。事務総長アーサー・ペンドラゴンが叩く静止の槌の音は、怒号の渦に虚しく消えていく。
世界各国の戦略軍司令部では、既に大統領や首相の承認を待たず、AIによる自動報復プログラムが主導権を握っていた。着弾まで、あと180秒。人類が積み上げた数千年の文明が、システムのバグという名の些細な火種で灰になろうとしていた。
その絶望の直上、高度2万メートルの成層圏。そして水深1,000メートルの暗淵。
二つの「目」が、世界を俯瞰していた。
「こちらガウス、水中ドローン『リヴァイアサン』展開完了。ロシア潜水艦の至近距離に待機中。最悪の場合、物理的にスクリューを粉砕して停止させる」
ガウスがコンソールを叩き、野獣のような笑みを浮かべる。
「こちらマヤ、高高度電磁パルスドローンを展開。米駆逐艦の通信アンテナをいつでも焼ける」
マヤの指先が、トリガーにそっと添えられる。
だが、レンはコーヒーの最後の一口を飲み干すと、静かに告げた。
「二人とも、その必要はないよ。……クラウディア、掃除を始めてくれ」
『承知いたしました、レン様。三極の『不協和音』を調律いたします』
アヴァロンの心臓部、ゼロ・ポイント・リアクターから膨大な電力が供給され、クラウディアの演算リソースが100%解放される。それは現代のスーパーコンピュータを数万年分凝縮した、神の領域のハッキングだった。
まず、クラウディアは米露両軍の衛星通信網に「不可視の楔」を打ち込んだ。1秒間に数テラバイトという濁流のようなフェイクデータが、両陣営の戦術コンピュータを埋め尽くす。
『……侵食開始。ロシア軍『ヴォルゴグラード』の火災警報ログを強制書き換え。エラー原因を『回路の老朽化』に特定し、自律防衛プロトコルを強制終了。続いて米駆逐艦『ハミルトン』のレーダー情報を改ざん。敵ミサイルの熱源反応を『鳥群の誤検知』として上書き。……チェックメイトです』
その瞬間、世界中の司令部のモニターから、真っ赤な警告が消えた。
「……消えた? 敵のロックオンが外れただと!?」
「システムエラーの復旧を確認! 誤作動……すべては、ただの誤作動だったというのか?」
極限の緊張状態にあった士官たちが、次々にその場にへたり込む。核のボタンにかけられていた指は震え、世界は一気に弛緩した。
「……フン、出番なしかよ。せっかく面白そうな玩具を準備したってのによ」
ガウスがリヴァイアサンを回収モードに切り替え、つまらなそうに鼻を鳴らす。マヤもまた、無言でドローンの操作を解除し、愛銃の清掃に戻った。
ニューヨーク、国連本部の秘密会議場。先ほどまで怒号と罵声が飛び交っていた室内は、耳が痛くなるほどの沈黙に包まれていた。
大型モニターに表示されていた「核ミサイル着弾まで00:00」のカウントダウンは消え、代わりに『System Restored - No Target detected(システム復旧:標的なし)』という、あまりに無機質な白い文字が点滅している。
西側の大使は、掴みかかろうとしていた東側の大使の襟元を、所在なげに離した。両者ともに、額からは脂汗が滴り、高級なスーツは見る影もなくしわ寄せられている。それぞれの秘書官が慌てた様子で耳打ちをする。
「……誤作動、だったのだな?」
東側の大使が、掠れた声で確認するように呟いた。その声には、先ほどまでの覇気はなく、ただ死の淵を覗き込んだ者の震えだけが混じっている。
「左様だ。我が方のイージス・システムが、貴国の潜水艦の『消火訓練』を攻撃と誤認した。……実に遺憾な、技術的トラブルだ」
西側の大使が、現実を自分たちに都合の良い形へねじ曲げるための「言葉」を即座に紡ぎ出した。隣国や新興勢力の大使たちも、深く椅子に背を預け、一様に安堵と、それ以上に深い「決まずさ」を共有している。
つい数分前まで、彼らは互いの国を地上から消し去ることを是認し、文明の終焉を確信していた。その醜悪なまでの生存本能と、あまりに脆弱な安全保障の正体が、この静寂の中で白日の下に晒されていた。
「この件だが……」
新興勢力の代表が、眼鏡を拭きながら低い声で切り出した。
「公式記録には『気象観測データの異常による合同通信演習の中断』と記載すべきだろう。ベーリング海で核兵器の引き金に指がかかっていたなどと、納税者が知れば……世界経済は明日を待たずに崩壊する」
「異議なしだ。我が国も、潜水艦の火災ログは『定期メンテナンス』として処理する」
「米艦隊の迎撃態勢も、ソフトウェアの定例アップデートに伴うバグとして広報に回そう」
彼らは互いの目を見ようとはしなかった。ただ、事務的に、迅速に、この「人類最大の失態」を歴史の闇へ葬る作業に没頭し始めた。それは、平和への努力というよりは、自分たちの無能さを隠蔽するための、共犯者たちの談合だった。
ホットラインの向こう側、ワシントンやモスクワの首脳たちも、おそらく今頃は同じように「なかったこと」にするための電話を掛け合っているはずだ。
「……やれやれ。茶番だな」
その様子を、アヴァロンのモニター越しに眺めていたガウスが吐き捨てた。
「あいつら、さっきまで殺し合おうとしてたクセに、今は仲良く嘘の塗り固めかよ」
『それが『政治』というものですよ、ガウス様』
クラウディアが、慈しむような、しかしどこか突き放したようなトーンで答える。
『真実よりも、心地よい嘘の方が、世界を安定させることもあります。……もちろん、その嘘を維持するための『掃除人』が必要になりますけれど』
レンは、モニターの中で握手を交わし始めた大使たちの姿を冷ややかに見つめ、通信を切断した。
「行こう。偽りの平穏が戻ったのなら、僕たちがここに留まる理由はない」
光学迷彩を纏ったアヴァロンは、誰にも気づかれることなく深海へと潜っていく。
数時間後、世界各国のニュース番組は「ベーリング海付近で一時的な通信障害が発生したが、現在は復旧した」という短いトピックスを、街角のグルメ情報のついでに淡々と報じることになる。
それが、チームQが守った「日常」の正体だった。




