3.アヴァロンの昼下がり
ベーリング海の荒れ狂う海面から数百メートル下。あらゆるソナーを無効化する磁気流体推進の微かな振動だけが、潜行艇『アヴァロン』の静寂を支配していた。
戦略指令室の大型モニターには、世界中の軍事ネットワークから傍受した「破滅のカウントダウン」が赤い文字で踊っている。
「着弾まで、あと7分42秒」
だが、その緊迫感はこの部屋の空気には1ミリも浸透していなかった。
「あー、もう!このポテトチップス、湿気てんじゃねえか。なあ、クラウディア。保存状態の管理はどうなってんだよ」
ソファに深く沈み込み、行儀悪く足を放り出しているのはガウスだ。20代半ばの逞しい体躯には不釣り合いなほど、その表情は退屈しきっている。
『ガウス様。それは昨日、あなたが封を開けたままトレーニングルームに放置されていた物です。自業自得という言葉を、辞書で引いてご覧になりますか?』
天井のスピーカーから、涼やかで一切の隙がない美声が返る。支援AI、クラウディアだ。
「あたしはその湿気たチップスより、今この瞬間、北極圏の全核サイロが全開になってる方が気になるんだけどなー」
アイリスが、ホログラム・ディスプレイで新作のネイルカラーを品定めしながら、軽い口調で割り込んだ。彼女はメディックであり、毒物のスペシャリストだが、今はただのファッションに妥協しない20代の女性にしか見えない。
「マヤ。あんたはどう思う?世界が終わる前に、この『ペイル・ピンク』、買っとくべき?」
部屋の隅、影に溶け込むように座っていたマヤが、愛銃のボルトを引く手を止めた。彼女は視線すら上げず、短く答える。
「……死んだら、塗れない」
「相変わらず夢がないわねえ」
アイリスが肩をすくめたその時、ラウンジの中央にホログラムが展開された。現れたのは、冷や汗で顔をテカらせたUN事務次官、ハリー・エヴァンスだ。
『レン!聞いているか、レン!状況は最悪だ。米露両軍のシステムが完全に暴走し始めた。もはや大統領にも止められない!猶予はあと7分を切ったんだぞ!』
「お疲れ様です、事務次官。随分とお顔の色が悪い」
部屋の奥、アンティークのチェス盤を前にした青年――レンが、ようやく顔を上げた。彼はクラウディアが淹れたばかりのコーヒーを一口啜り、完璧な所作でカップを置く。
『……うるさい!貴様ら、今の状況が分かっているのか!世界が消滅するんだぞ!』
「分かっていますよ。だから、今こうしてコーヒーを飲み干したところです」
レンは立ち上がり、軽く首を鳴らした。その瞳には、熱狂も恐怖も、あるいは正義感すらも宿っていない。あるのは、ただ精緻な機械のような冷徹な知性だけだ。
「ガウス、遊びは終わりだ。重い腰を上げろ。アイリス、毒の準備を。マヤ、ターゲットの選定は終わっているね?」
「……完了」
「クラウディア。アヴァロンの演算リソースを80%解放。米露両軍のセキュア通信網へ、僕の署名を叩き込んでくれ」
『承知いたしました、レン様。既にバックドアの構築は完了しております』
それまでバラバラだった4人と1AIの空気が、一瞬で収束する。それは、猛獣が獲物を前にして牙を隠したまま、音もなく忍び寄るような、静かな殺気。
「さて、事務次官。平和という不愉快な嘘を守る代償は、高くつきますよ?」
レンがコンソールに指を触れた。
「ミッション開始。世界を少しだけ、黙らせよう」
アヴァロンが加速する。世界を救うための、あまりに不謹慎で、あまりに鮮やかな「空白の12分間」への介入が始まった。




