2.デッドライン・シンドローム
ベーリング海、北緯63度。大気は凍結し、荒れ狂う波濤が鋼鉄の船体を容赦なく叩きつける死の世界。
アメリカ海軍アーレイ・バーク級駆逐艦『ハミルトン』の戦闘指揮所(CIC)は、青白いコンソールの光に照らされ、異様な熱気に包まれていた。外部のマイナス30度の冷気とは対照的に、電子機器が発する廃熱と、乗組員たちが放つじっとりとした脂汗の臭いが充満している。
「ソナーにコンタクト!方位1-8-0、距離12,000。急速に接近中!」
オペレーターの悲鳴に近い報告が、電子音の洪水を引き裂いた。戦術情報表示画面(TAD)上では、友軍を示す青いシンボルの目と鼻の先に、正体不明の赤い光点が拍動している。東側諸国、ロシア海軍のオスカーII型原子力潜水艦だ。
「挑発行為か、それとも事故か。艦長、奴らは潜望鏡深度まで浮上してきています!」
「面舵一杯。衝突を回避せよ。警告信号を送れ、ここは我々の排他的経済水域だ」
艦長の指示が飛ぶ。だが、その瞬間、海中では誰も予期せぬ悲劇が起きていた。
ロシア海軍潜水艦『ヴォルゴグラード』の艦内。老朽化した消火システムの配線が、結露によるショートを起こしたのだ。本来なら単なる設備不良で済むはずの火花だったが、この海域に張り巡らされた高精度の電子戦網が、最悪の「解釈」を下した。
『ヴォルゴグラード』の戦術AIが、火災報知器の信号を「西側諸国の高エネルギー指向性兵器による外部からの攻撃」と誤認。即座に自律防衛プロトコルが発動し、艦内に深紅の警報灯が回転する。
「外部攻撃を検知!司令部との通信不能、ジャミングを受けています!」
ロシア側副長の声が上擦る。実際には荒天による通信障害だったが、システムが表示する「電子戦攻撃:99%」という予測値が、艦長の理性を剥ぎ取った。
「報復を許可する。魚雷発射管1番から4番、注水!P-700グラニート、射出シークエンス開始!」
この瞬間、システムの連鎖が始まった。潜水艦から放たれたアクティブ・ソナーのピンガーが、米駆逐艦の船体を物理的な衝撃として揺らす。それは海の世界における「宣戦布告」に他ならない。
『ハミルトン』のCICで、戦術コンピュータが冷徹な合成音声を発した。
『警告。敵潜水艦、攻撃準備を確認。ミサイルハッチ開放。推定着弾まで、12分』
その情報は、瞬時に衛星通信を経由して、米本土のペンタゴン、そして東側のクレムリンへと転送された。三極構造のパワーバランスにおいて、一方の「先制攻撃」は、全陣営による「全力報復」を意味する。
「大統領へ連絡しろ!デフコン2を発令。アラスカ基地の迎撃ミサイル、および戦略核弾頭の全基をスタンバイさせろ!」
「東側司令部より入電!『我々は攻撃を受けている、これは正当防衛である』との声明です。外交ルートは完全に遮断されました!」
モニターの中では、三極の境界線が真っ赤に焼けただれている。ベーリング海の一隻の潜水艦のミスが、複雑に絡み合った自動報復システムの糸を引き、地球規模の絞首刑台を作り上げていく。
北極圏の地下深くでは、数十年の沈黙を破り、大陸間弾道ミサイル(ICBM)のサイロが重々しい音を立てて開き始めた。大気圏外では、西側の衛星兵器が東側の軍事拠点をロックオンし、新興勢力の情報局は、核の炎から逃れるための地下シェルターの扉を閉ざし始めている。
「あと11分だ……。11分後には、この海域も、ワシントンもモスクワも、すべてが太陽の表面と同じ温度になる」
『ハミルトン』の艦長が、震える手で十字を切った。
もはや、人間の言葉は届かない。電子の論理が、人類を絶滅へと導く全自動のレールを走り始めたのだ。世界が息を止め、最初の一発が空を裂くのを待つ「空白の12分間」。
その死に体の静寂を破ったのは、国家の通信網でも、正規軍の命令でもなかった。
漆黒の深海、米露どちらのソナーにも映らない「空白の領域」を、巨大な影が音もなく滑り出した。翼を広げたトビウオのような、しかし生物の温もりを一切感じさせない、鋼鉄の魔物。
オーバーテクノロジーの結晶、多機能潜行艇『アヴァロン』。
その内部では、地上の地獄絵図などどこ吹く風といった、あまりに場違いな会話が始まろうとしていた。




