6.亡霊の介入
ボイラー室の混沌が臨界点に達しようとしていた。
BNDの突入班は、工作員たちの組織的な反撃によって防波堤を崩され、熱い蒸気と硝煙の渦に飲み込まれていた。マイヤーが壁際で弾倉を交換し、反撃の指示を飛ばそうとした、その時だ。
世界から、すべての光が剥ぎ取られた。
非常用照明すらも沈黙し、完全なる虚無がボイラー室を包む。同時に、エージェントたちのイヤーモニターから耳を刺すような高周波のノイズが溢れ出した。
「クソッ、ジャミングか!?暗視バイザーに切り替えろ!」
マイヤーの叫びに応じ、隊員たちがバイザーを起動させる。だが、緑色の電子視界に映し出されたのは、スノーノイズの嵐だけだった。
「ダメです!電子機器が完全に機能不全しています!」
それは、クラウディアによる超広帯域指向性ジャミングと、論理爆弾によるシステムジャックだった。BND、工作員、そしてクラウスの護衛――現場にいたすべての正規軍・諜報機関の最新装備が、ただの重いプラスチックの塊へと成り下がった。
その絶対零度の暗闇の中、音もなく「亡霊」たちが舞い降りる。
「……マヤ。ターゲットの心拍、固定」
レンの冷徹な指示が、チームQだけのQ-Linkに流れる。
「了解。……おやすみなさい」
キャットウォークの闇から、抑制器すら必要としない特殊空気銃の「プシュッ」という微かな音が3回響いた。
混乱の渦中で逃走を図ろうとしていたフォン・クラウス、そして彼を守る2人のボディガードの首筋に、痕跡が残らないナノ針を用いた特殊麻酔弾が吸い込まれる。彼らは悲鳴を上げる暇もなく、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「ガウス。BNDの『掃除』を。アイリス、君は宝探しだ」
「了解だ。……おいBNDの諸君、少しは運動させてくれよ?」
暗闇の中で、ガウスの巨体が躍動した。彼は暗視装置を必要としない。網膜に直接投影されるクラウディアの拡張現実が、敵の骨格と筋肉の動きを鮮明に描き出している。
BNDの隊員が闇雲に放った銃撃を、ガウスは紙一重で回避し、その懐へ滑り込んだ。
「重いぜ、これは!」
防弾シールドの上から叩き込まれた掌打が、隊員の腕の骨を軋ませ、数メートル後方へ吹き飛ばす。別の隊員が格闘戦を挑むが、ガウスは流れるような動作でその腕を捻り上げ、頸動脈を圧迫して一瞬で意識を刈り取った。
その喧騒の影で、アイリスは蝶のように舞っていた。
彼女は混乱する工作員の一人に近づき、背後から接触、彼は思わずその手元からチタン製のケースを床に落とす。その瞬間、アイリスはアヴァロン製の「完璧なデコイ」とすり替え、工作員は慌ててその“偽物”を本物のように大事に抱える。
作業時間は、わずか2秒。
「回収完了。……さあ、彼らにも『出口』を見せてあげなきゃね」
クラウディアが、迷宮の奥にある非常口の扉付近に、一筋の、極めて微かな光を灯した。
「向こうだ!」
パニックに陥っていた東側の工作員たちは、その救いの光に吸い寄せられるようにして走り出す。彼らは自分たちの懐にある中身が、すでに無価値な金属片に変わっていることなど、微塵も疑っていなかった。
「敵、12時方向に逃走中!追え!逃がすな!」
マイヤーが声を枯らして叫ぶが、BNDの隊員たちは次々に闇から飛んでくる「何か」に叩き伏せられていく。
見えない。何も見えない。
銃声は聞こえるが、それは自分たちが放ったものだ。相手の足音すら聞こえない。ただ、仲間が次々に音もなく崩れ落ち、暗闇の中から物理的な衝撃だけが襲いかかってくる。
「何だ……何が起きている……!誰がいるんだ!」
マイヤーは、残された最後の一弾を闇に放った。だが、銃声の残響が消えた後に聞こえてきたのは、冷淡な足音だけだった。
ボイラー室は、再び深い沈黙に包まれる。
BNDの精鋭たちが地面に這いつくばり、暗闇の恐怖に震える中、彼らのすぐ側を、音もなく何かが通り過ぎていく。
それは、彼らが守るべき「法」の外側に棲む、冷徹な秩序の足音。
「……撤収だ」
レンの声が闇に溶ける。
BNDの隊員たちにとって、その数分間は永遠に等しい絶望だった。
照明が消えたボイラー室は、もはや戦場ですらなかった。そこは、名前も顔も持たない「亡霊」たちが支配する、一方的な処刑場と化していた。




