6.高高度からの死神
高度1万2000メートル。成層圏の端、空の色が濃紺から漆黒へと溶け込む境界線に、アヴァロンは光学迷彩を纏って静止していた。機体周囲の気圧は海面の4分の1以下、外気温はマイナス50度。死の世界だ。
「ハッチ開放まで、あと60秒。ガウス、酸素供給を確認しろ」
レンの声は、Q-Linkを通じて極めて明瞭に脳内へ届く。彼はすでに、黒い高高度降下用のタクティカル・スーツを全身に纏い、顔面をフルフェイスの酸素マスクで覆っていた。
「確認済みだ、リーダー。……しっかし、この高度から飛び降りるたびに思うぜ。俺たちの仕事は、いつから宇宙飛行士になったんだ?」
ガウスは重厚な降下用バックパックのストラップを締め直し、不敵に笑った。彼のマスク越しに聞こえる呼吸は、これから始まる地獄を楽しんでいるかのように深く、力強い。
『ガウス様、宇宙飛行士の訓練時間は平均2年ですが、皆様の今回の降下所要時間はわずか5分弱です。精密な弾道予測によれば、時速300キロを超える速度で「動く要塞」に突っ込むことになります。生存確率は……』
「ああ、計算はいい。どうせ100パーセントじゃねえんだろ?」
『98.2パーセントです。残りの1.8パーセントは、降下中に東側のハインド攻撃ヘリが発射するミサイルの破片に接触する可能性、および予測不能な突風によるものです』
クラウディアの声はどこまでも平穏で、冷酷なまでに論理的だった。
「レン、目標まで30分を切った」
機体後方の狙撃管制室から、マヤの冷徹な声が入る。彼女の視界は、アヴァロンから射出された4機の「Q-D」と同期していた。ドローンは列車の進行方向数キロ先に展開し、砂塵に紛れて東側の攻撃部隊の動向を監視している。
「ハインド2機、基地から出撃を確認。高度を維持しながら接近中。接触まで、残り28分。急いで」
「了解だ。……アイリス、聞こえるか」
レンが呼びかける。
「ええ、バッチリ。こっちは砂埃と男たちの汗臭さで、せっかくのボディスーツが台無しよ」
列車の第3車両、増員された戦闘員たちがたむろする兵員室から、アイリスの軽快な声が返ってきた。彼女は周囲のマフィアたちに悟られないよう、発声せずに脳波だけで通信を行っている。彼女の網膜には、レンとガウスが今まさに飛び降りようとしている現在位置が投影されていた。
「イヴァンは先頭の指揮車両。核弾頭は真ん中の重装甲貨車にあるわ。扉は電磁ロックと生体認証の二重掛け。私が内部から細工して、あなたたちの着地に合わせてロックを解除する。……でも、一つだけ問題が。東側のヘリを警戒して、列車の対空機関砲が全部稼働状態に入ったわ。空から降ってくるあなたたちは、格好の的よ」
「それはマヤの仕事だ」
レンが短く答えた瞬間、アヴァロンの後部ハッチが重々しく開放された。凄まじい風圧と轟音が機内を襲う。レンとガウスは、躊躇なく暗黒の虚空へと身を投げ出した。
HAHO(高高度降下低高度開傘)。パラシュートを開かず、自由落下によって敵のレーダー網を潜り抜ける。風の絶叫が全身を叩き、体感温度はさらに急降下するが、Q-Linkが提供する拡張現実の視界が、漆黒の荒野に走る一本の銀色の糸――装甲列車を鮮明に描き出していた。
「マヤ、掃討を開始しろ」
「了解、クラウディア、演算を」
『かしこまりました。ドローン、電子攻撃モードへ移行。対空機関砲の射撃管制装置に偽装信号を流し込みます』
クラウディアの演算支援を受け、マヤが指先で仮想空間のトリガーを引く。
地上では、疾走する列車の屋根に取り付けられた23ミリ機関砲が、突如としてあらぬ方向へ銃身を向け、虚空に向かって火を吹き始めた。ドローンが放つ電子的な「幻影」に、マフィアのオペレーターが翻弄されているのだ。
「いい子ね、マヤ。おかげでこっちは大騒ぎよ」
アイリスは混乱する兵員室の喧騒に紛れ、手首の端末から貨車のセキュリティシステムへ侵入を開始していた。彼女の周囲では、マフィアの傭兵たちが武器を手に「空から何かが来るぞ!」と怒鳴り散らしている。
「レン、ガウス、着地まで残り15秒。……高度1500。開傘!」
レンの合図で、2人の背中から小型の高機能パラシュートが展開された。一瞬、凄まじい衝撃が体に走るが、彼らは訓練通りに姿勢を制御し、列車の貨車屋根へとピンポイントで吸い寄せられていく。
「リーダー、着地3秒前だ! 衝撃に備えろ!」
ガウスが叫ぶ。直後、2人のブーツが、時速140キロで疾走する鉄の塊を捉えた。磁力吸着グローブが屋根の鋼板を掴み、彼らを疾走する死の淵に繋ぎ止める。
「着地成功。アイリス、開けろ」
レンの声に応じるように、足元のハッチが鈍い音を立ててスライドした。
「いらっしゃい。ちょうど、東側のハインドが水平線に見えてきたところよ」
貨車の中から見上げたアイリスの瞳には、死線の中でこそ輝く不敵な笑みが宿っていた。
上空では、マヤのドローンが最後の一撃を放ち、列車の通信アンテナを物理的に破壊した。これで列車は完全に孤立した。
「よし。20分以内に終わらせるぞ」
レンが貨車の中へと滑り落ちる。その背後、カザフスタンの朝焼けを背にして、東側のハインドの巨大なシルエットが、死神の鎌のように近づいていた。




