4.混迷の号砲
アクタウ港を支配していたのは、膠着という名の不気味な静寂だった。装甲列車の重量感のある車輪が、錆びついた鉄路の上で軋んだ音を立て、最後の一台のコンテナがクレーンによって中央車両へと据え付けられた。
「積み込み完了だ。野郎ども、出発の準備をしろ!」
イヴァンの野太い声が港湾に響き渡った。勝利を確信した彼の表情には、世界を出し抜いた悦悦とした笑みが浮かんでいる。
しかし、その瞬間だった。
――ヒュォォォォ……ッ!
空を切り裂くような鋭い音が響き、直後、真昼のような暴力的なまでの白い光が港全体を飲み込んだ。一つ、二つ、三つ。間髪入れずに撃ち上げられた複数のマグネシウム照明弾が、漆黒のカスピ海の空を焼き尽くし、ヤードに潜んでいたすべての「影」を白日の下に晒し出した。
「何だ? どこのどいつだ!」
イヴァンが目を細め、光の出処を探して叫ぶ。だが、返ってきたのは答えではなく、無慈悲な銃声だった。
「デルタ・ワンより各員! 照明弾は我々の指示ではない! 繰り返す、我々の……」
コンテナの陰で身を潜めていた西側の分隊長が通信機に叫ぼうとしたが、突如として耳を刺すような高周波のノイズが彼の鼓膜を突き抜けた。
「……ッ、ジャミングか!?」
暗視ゴーグルが強烈な光でホワイトアウトし、パニックが広がる。無線機からは、これまでの司令部との通信に代わり、低く抑揚のない機械音声が一定のリズムで流れ始めた。
『――撤退セヨ。直チニ現場ヲ離脱セヨ。サモナケレバ排除スル』
「ふざけるな! 誰だ、貴様らは!」
分隊長が無線機を叩きつけるが、音声は無機質に繰り返される。同時に、彼のわずか数センチ横のコンテナに、大口径の弾丸が着弾し、火花を散らした。正確な威嚇射撃。相手は自分たちの位置を完全に把握している。
反対側の倉庫に潜伏していた東側のSVR部隊もまた、同様のパニックに陥っていた。
「隊長、通信不能! 予備回線もすべて潰されました! 例の機械音声が……」
「落ち着け! 西側の仕業か? 奴ら、ついに理性を失ったのか!」
SVRの指揮官が窓の外を見ると、そこには自分たちと同じように、混乱し、コンテナの影で右往左往するデルタフォースの姿があった。さらに、デルタフォースの足元にも、どこからともなく飛来した弾丸が土煙を上げている。
東西両陣営は、自分たち以外の「第三の勢力」が、自分たち双方を同時に攻撃しているという異常事態に気づき始めた。
「……共通発光信号だ! 奴らと意思疎通を図れ!」
SVRの指揮官が、手近な赤外線ビーコンを手に取り、緊急用の国際共通信号を点滅させた。
『我々ハ攻撃ノ意図ナシ。未知ノ敵ニ狙撃サレテイル。状況ヲ共有セヨ』
数秒の沈黙の後、対岸のデルタフォースからも同様の赤外線信号が返された。
『我々モ同ジダ。正体不明ノ勢力ガ介入。衝突ヲ避ケ、同時ニ後退セヨ』
皮肉なことに、互いに銃口を向け合っていた最強のライバルたちは、正体不明の「透明な審判」を前にして、初めて手を取り合おうとしていた。
その混戦の隙を突き、装甲列車のディーゼルエンジンが唸りを上げた。
「野郎ども、構うな! 撃ち合っているのは鼠どもだ! 俺たちはこのまま抜けるぞ!」
イヴァンが叫び、列車が動き出す。しかし、この「透明な勢力」の矛先は、マフィアにも容赦なく向けられた。
――ドォォン!
列車の後尾車両、予備の兵員と弾薬を積んでいた二両が、突如として内部から爆発したかのように炎上した。正確に連結器を狙い撃たれたのだ。炎を上げ、脱線した車両が鉄路を塞ぎかける。
「クソが! 切り離せ! 行かせるんだ!」
イヴァンは狂ったように命じた。機関士が非常レバーを操作し、燃え盛る後尾車両を切り捨てる。銀色の装甲列車は、致命傷を負いながらも、加速して港のゲートを突破し、カザフスタンの広大な闇へと滑り込んでいった。
それと同時に、あれほど激しかったノイズがピタリと止んだ。
「通信回復! こちらデルタ・ワン、司令部聞こえるか!」
『こちら本部! デルタ・ワン、直ちに撤退せよ! 公式な命令だ。これ以上の滞在は政治的自殺に等しい。現場を放棄し、直ちにポイント・ブラーボへ向かえ!』
SVR側にも、モスクワから全く同じトーンの、悲鳴に近い撤退命令が下っていた。
港に残されたのは、燃え盛る二両の残骸と、あまりにも鮮烈だった白い光の残像だけだった。
「……何だったんだ、一体」
デルタの分隊長は、撤退しながら背後の闇を振り返った。そこには何もいない。レーダーにも、暗視カメラにも、一切の反応はない。しかし、自分たちの命が、何者かの指先一つで掌握されていたという戦慄だけが、冷たい汗となって背筋を伝っていた。
チームQが仕掛けた「透明な壁」によって、世界は一瞬だけ立ち止まり、破滅を免れた。しかし、その代償として、死の灰を積んだ鋼鉄の怪物は、追跡不能な荒野へと解き放たれてしまったのだ。
「想定内の失敗か」
遠く離れた海域で、レンはQ-Linkのコンソールを閉じ、静かにそう呟いた。




