8.虚構の果ての真実
シンガポールの空は、昨夜の嵐のような銃撃戦が嘘だったかのように、どこまでも高く、残酷なまでに澄み渡っていた。地上200メートル、マリーナベイ・サンズの最上階。世界一高い場所にあるインフィニティ・プールの水面は、周囲の摩天楼を鏡のように映し出し、観光客たちの享楽的な歓声が微かな風に運ばれてくる。
レンとマヤは、プールサイドの白いデッキチェアに身を預けていた。レンは手元の防水タブレットに流れる現地ニュースの速報を無機質な目で見つめている。
『慈善事業家ヴィクター・チェン氏、大規模な不正送金と国家機密漏洩の疑いで逮捕。背後に巨大なハッカー組織の影か』
画面の中、警察に連行されるヴィクターは、昨夜の傲慢な面影を失い、ただの困惑した男として映し出されていた。レンはその映像を消すと、隣でサングラスをかけ、じっと動かずにいるマヤに視線を向けた。
「……世界は変わらない、か」
マヤが、昨夜のヴィクターの断末魔をなぞるように呟いた。彼女の視線は、プールサイドの一角で母親に手を引かれ、無邪気に笑いながら水際を駆ける幼い少女の姿に固定されていた。その少女が手にしたカラフルなビーチボールが、この残酷な世界の重力とは無縁に跳ねている。
「彼の言ったことは、ある意味で真理だよ」
レンの声は、乾いた風に溶けていく。
「一つのバグを取り除けば、また新しいバグが生まれる。僕たちが守っているこの『平和』というシステムは、最初から欠陥品なんだ。昨日救ったはずの金融システムも、明日にはまた誰かの強欲で歪められる。いたちごっこさ」
「……非効率な仕事」
「そうだね。でも、その非効率な繰り返しこそが、かろうじて世界を繋ぎ止めている。あの子たちが、何も知らずに笑っていられるだけの時間を稼ぐためにね」
マヤは何も答えず、ただ少女が水しぶきを上げてプールに飛び込む瞬間まで、その光景を網膜に焼き付けていた。二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。硝煙の匂いと死の予感が、まだ皮膚の裏側にこびりついているような、そんな陰気な静寂。――それを打ち破ったのは、激しい水飛沫だった。
「ちょっと!二人とも、そんな湿気た顔してると、せっかくの高級プールが台無しよ!」
水面を勢いよく割り、アイリスが姿を現した。濡れた長い髪をバサリと振り払い、真珠のような滴を弾き飛ばしながら、彼女はレンのデッキチェアのすぐ側まで歩み寄る。アイリスは滴る水を拭うこともせず、躊躇いもなくレンの胸元に両手を添え、上から覆いかぶさるように顔を近づけた。
「ねぇレン、昨日の『愛人役』……まだ終わってないって言ったら、信じてくれる?」
アイリスの顔が、至近距離まで迫る。彼女の瞳は熱を帯びて潤み、その奥には嘘か真か判別できない、底知れない魔性が揺らめいていた。彼女の吐息がレンの唇にかかる。
「あたし、本気であなたを愛しているのよ。これは任務じゃない、アイリスという一人の女としての告白。……ねえ、どう答えてくれるの?」
アイリスの柔らかな指先がレンの頬をなぞり、そのまま引き寄せるようにして、深い、深いキスを贈った。周囲の観光客たちが、若く美しいカップルの情熱的な光景に目を奪われ、口笛を鳴らす。
レンが呆然として沈黙を保っていると、耳の裏のQ-Linkから、空気を読まない完璧な敬語が割って入った。
『レン様。アイリス様の瞳孔の開き、及び末梢血管の血流量の増加を確認いたしました。これらは人類における恋愛感情に伴う生理反応と92%の確率で一致します。ここで拒絶という選択をすることは、心理的リアクタンスを招き、今後のチームの作戦効率を著しく低下させる恐れがあります。リーダーとして、適切に応じるべきです』
クラウディアの淡々とした、しかし決定的な援護射撃。レンが何か言い返そうとする前に、彼女はさらに畳みかけた。
『また、このプールは宿泊者専用施設のため、現在ハリー・エヴァンス事務次長名義で最上階のプレジデンシャル・スイートが確保されています。非常に広大で、プライバシーも完璧に保たれたお部屋です。延泊の手続きを完了しましょうか?チェックアウトの延長、ルームサービスの予約、すべて準備は整っております』
「……クラウディア、その統計には多分に主観が含まれている。それに、勝手に部屋を取るな」
レンはようやくアイリスを優しく、だが断固として引き離すと、溜息をつきながら濡れた前髪をかき上げた。
「アイリス、遊びは終わりだ。……撤収するぞ。アヴァロンが待っている」
レンが逃げるように立ち上がり、更衣室へと歩き出す。その後ろ姿を見送りながら、アイリスは濡れた唇を指でなぞり、勝利を確信したような小悪魔的な笑みを浮かべた。
「ふふっ。逃げても無駄なんだから。……ねえクラウディア、今のレンの心拍数は?」
『正常値より15%上昇しております、アイリス様。攻略の余地は十二分に残されていると推測されます』
数メートル離れたデッキチェアで、ガウスは「マッスル・プロテイン」と書かれたシェイカーを乱暴に煽りながら、鼻で笑った。
「ったく、あいつら。戦場で弾丸避けるより、よっぽど疲れることしてやがる。リーダー、腰が引けてんぞ」
「……ターゲット、捕捉。レンの心拍、依然として不安定」
マヤもまた、サングラスを掛け直し、再びプールで遊ぶ子供たちの喧騒へと視線を戻した。
シンガポールの高層ビル群に夕陽が沈み始め、空が血のような橙色に染まっていく。世界は何も変わらない。けれど、この歪な平和の欠片を繋ぎ止めるために、彼らはまた次の「存在しない戦場」へと向かう準備を始めていた。




