7.告発の津波
『……残り10秒。9、8……』
地下最深部。クラウディアのカウントダウンが、ガウスの網膜ディスプレイに無機質な光を刻む。書斎から続く螺旋階段からは、増援の警備兵たちが放つサブマシンガンの乾いた銃声と、壁を削る火花が絶え間なく降り注いでいた。ガウスはSIG MCXの銃身を階段の角へ突き出し、指先の感覚だけで制御された精緻なタップ射撃で、押し寄せる軍靴の音を押し戻す。
『7、6……転送レート、最大。……コンプリート。全データ、外部サーバーへのアップロードを開始しました』
「よし、引き上げるぞ!」
ガウスはメインサーバーのポートから、過熱した超小型ハッキング・デバイスを乱暴に引き抜いた。デバイス内部のサーマル・チップが作動し、回路は一瞬で溶融、結晶化する。チームQの指紋も、プログラムの残滓も、この屋敷には一切残らない。物理的な証拠はすべて、ガウスのポケットの中でただの熱いゴミと化した。
「レン、アイリス、データは頂いた!撤収だ!」
ガウスの通信と同時に、邸宅内の全電子ロックが解放され、ヴィクター・チェンの個人端末には絶望的なログが流れ込んだ。彼が数年かけて構築した「第4の勢力」のプロトコル、各国の諜報機関を翻弄した工作の記録、そしてマネーロンダリングの全容が、インターポールと世界中の有力メディアへ向けて、濁流のように送信されていく。
「おのれ……っ!貴様ら、何をした!」
書斎の窓際で、ヴィクターは狂ったように端末を操作したが、画面にはクラウディアによる「SystemOverwritten」の文字が踊るだけだった。彼は窓の外、闇に沈むジャングルへ向かって闇雲に銃を放ちながら、隠し通路へ逃れようと背を向けた。
――パァン!
乾いた狙撃音が、夜の空気を切り裂いた。
ヴィクターの数センチ先、大理石の床が弾け、破片が彼の頬を掠めた。800メートル先、丘の斜面から放たれたマヤの.338ラプア・マグナム弾だ。マヤは何も語らない。ただ、その一撃に込められた圧倒的な精密度が、「一歩でも動けば次は脳幹だ」という死の宣告を、雄弁にヴィクターの脊髄へと叩きつけていた。
ヴィクターは凍りついたように足を止めた。その背後からは、いつの間にかケブラーベストに身を包み、サブコンパクト・ウェポンを構えたレンとアイリスが、幽霊のように歩み寄っていた。
「……貴様ら、何者だ。CIAか、それとも東側の暗殺部隊か」
ヴィクターは震える手で銃を向け直したが、レンの冷徹な眼光に射すくめられ、引き金を引くことすらできなかった。レンはタキシードの汚れを払うこともせず、ただ静かに、絶望の淵に立つ男を見下ろした。
「名乗るほどの者じゃない。僕たちはただの掃除屋だ。世界というチェス盤にこびりついた、君のような不快な『バグ』を取り除きに来ただけだよ」
「掃除屋だと……?笑わせるな!」
ヴィクターは血走った目で叫んだ。
「こんなことをして何になる!私を消したところで、世界は何も変わらない!私が消えれば、明日には別の『第4の勢力』が現れる。人間が欲望を持つ限り、この盤上から悪が消えることはないんだ!」
遠くから、シンガポール警察のパトカーが鳴らすサイレンの音が、島全体を包囲するように近づいてくる。アイリスはサプレッサー付きの銃口を向けたまま、残酷な微笑を浮かべた。
「ええ、そうね。あなたの言う通りだわ。世界はちっとも綺麗にならない」
「……だからこそ、僕たちの仕事はなくならないんだ」
レンが言葉を継ぐ。その声には、怒りも、正義感による高揚もなかった。あるのは、無限に続く任務に対する、果てしない虚無感だけだった。
「世界が濁り続ける限り、僕たちは何度でも現れる。君は特別な存在じゃない。ただ、この盤面から取り除かれるべき、ありふれた駒の一つに過ぎないんだ。チェックメイトだ、ヴィクター・チェン」
パトカーの赤色灯が屋敷の白壁を血の色に染め始める。
「撤収する。……アイリス、行くぞ」
レンとアイリスは迷いなくバルコニーから夜の海へと身を投げ出した。高度20メートルからのダイブ。海面に叩きつけられる衝撃をベストが吸収する。水中には、ガウスが潜入時に使用し、隠しておいた2台の水中スクーターが青いライトを点滅させて待機していた。二人はスクーターに備え付けられた酸素供給マスクを装着し、一気に深海へと潜行を開始した。
地下から直接海へと抜けたガウスも、自身のスクーターを起動し、合流地点へと加速する。一方、北の丘にいたマヤは、ライフルのボルトを抜き、瞬時に分解して背中のバッグへ収めていた。彼女の頭上には、自律型ステルスドローンが静かに滞空している。
マヤはドローンから降りた回収用ワイヤーをハーネスに固定した。
「……マヤ。離脱する」
彼女の体は夜の闇に吸い込まれるように、垂直に引き上げられていった。
数分後、警察の特殊部隊が突入したとき、そこには拘束されたヴィクター・チェンと、もぬけの殻となったサーバー室があるだけだった。海面には月光が反射し、潜水艦の航跡一つ残っていない。
チームQは、再び「存在しない歴史」の深淵へと帰還していく。暗い海底で、アヴァロンの巨大な影が彼らを迎え入れた。平和の代償を支払うための戦いは、まだ始まったばかりだった。




