5.毒と論理
アイリスが上気した頬を指先でなぞりながら、少し乱れたドレスの裾を整えてメインホールに戻ってきた。彼女がレンの腕に再び絡みついたその瞬間、ホールの喧騒を切り裂くように、重厚なヴィクトリア調の扉が音もなく開いた。
「エリック、アイリス。少し場所を変えないか。騒がしい連中に、我々の秘め事を聞かれるのは趣味じゃない」
ヴィクター・チェンの誘いは、抗いがたい磁力を帯びていた。レンはアイリスの肩を抱き寄せ、傲慢な放蕩息子の笑みを浮かべて頷く。三人は豪華なシャンデリアの下を通り抜け、邸宅の最奥にある書斎へと導かれた。
扉が閉まった瞬間、ホールの喧騒は分厚い防音壁の向こうへと消え、静寂が耳を刺した。
書斎には、床から天井まで届く巨大な強化ガラスのパノラマウィンドウが嵌め殺されており、眼下にはライトアップされたセントーサの海と、漆黒のジャングルが広がっていた。ヴィクターはその窓を背にし、時折外の静寂に目をやりながら、自身の完璧な支配を誇示するようだった。
彼はデスクに腰掛け、琥珀色の液体が満たされたグラスをレンに差し出した。
「さて、本題に入ろう。世界経済の『空白の0.12秒』……君はそれをノイズと呼んだが、私にとっては音楽だ」
ヴィクターは空中に指を滑らせた。青白いホログラムが浮かび上がり、そこには複雑に絡み合う三極の金融ネットワークの図解が展開される。
「西側のドル覇権、東側の資源独占、そして新興勢力の野心。これらが互いを牽制し合う圧力の隙間に、私は実在しない『第4の勢力』という幻影を差し込んだ。各国は実体のない敵を恐れ、互いに疑心暗鬼に陥り、防衛予算を膨らませ、通貨を投げ売る。私はその『恐怖の代価』を、ラグの合間に回収しているに過ぎない」
彼は淡々と、まるで明日の天気予報を語るような口調で、世界を破滅の淵へ追いやる計画の全容を露わにした。レンはグラスを傾け、冷徹な目でその図表を見つめる。
「……壮大なチェスだな。だが、ヴィクター。盤の外から動かしているつもりでも、いつの間にか自分が駒の一部になっていることに気づかないのか?」
レンの言葉に、ヴィクターの口角がわずかに上がった。だが、その笑みは先ほどまでの社交的なものではなかった。急速に温度を失い、死者のような無機質な冷酷さがその双眸を支配していく。
「鋭いな。だが、それこそが私が君をここへ呼んだ理由だ。エリック・クリスチャンセン」
ヴィクターはデスクの引き出しから、一束の極秘資料を取り出し、テーブルに放り投げた。そこには北欧の海運王、クリスチャンセン家の家族写真が収められていた。
「海運王の息子にエリックという名がいるのは事実だ。だが、私の手元にある最新の調査資料によれば、本物のエリックはまだ16歳の高校生で、スイスの全寮制学校でラグビーに興じている。……さて、目の前に立っているこの『出来のいい偽物』は、どこのドブネズミだ?」
空気が凍りついた。
アイリスの体がわずかに強張るのを、レンは腕越しに感じ取った。アイリスの指先が、ドレスの隠しポケットにある小型銃へ伸びようとしたその刹那、書斎の壁面に隠されていた隠し扉が四方から開き、サブマシンガンを構えたタクティカル・ベスト姿の警備員たちが雪崩れ込んできた。
カチリ、という硬質な金属音が室内に響く。
ヴィクターの手には、いつの間にかグロック17が握られていた。銃口はレンの眉間に寸分の狂いもなく向けられている。
「動くな。指一本でも不審な動きを見せれば、その美しいパートナーのドレスを赤く染めることになるぞ」
「……計算違いだったかな。君がこれほどまでに疑り深い男だとは」
レンの声は依然として低いが、その背中にはじっとりとした冷たい汗が伝っていた。
「質問を変えよう。お前たちは誰だ? どこの陣営の差し金だ。CIAか、SVRか、あるいはMSSか」
ヴィクターは銃口を突き出し、レンの額に冷たい銃口の感触を押し付けた。警備員たちのレーザーサイトが、レンとアイリスの心臓に赤い点を刻んでいる。
「死ぬ前に一つだけ教えてあげましょう」
アイリスが、震える声を装いながらヴィクターを見つめた。その瞳には、恐怖ではなく、絶体絶命の淵で研ぎ澄まされた工作員としての「牙」が、微かに、だが確実に光っていた。
「……あたしたちは、誰の味方でもないわ」
「そうか。ならば、誰に看取られることもなく、ここで消えてもらう」
ヴィクターの指がトリガーにかかる。物理的なネットワークから遮断されたこの密室で、チームQの心臓部は、かつてないほどの死の予感に包まれていた。




