4.セントーサの要塞
シンガポール本島から南へ。富裕層の楽園として知られるセントーサ島の、最も隔絶された一角「セントーサ・コーヴ」。そこにはヴィクター・チェンが私有する、海を望む石造りの巨大な邸宅がそびえ立っていた。
夜の帳が下りる頃、屋敷は眩いばかりの光に包まれる。バレーパーキングには、フェラーリ、ロールスロイス、そして特注の装甲が施された高級SUVが列をなしていた。
「エリック、見て。あそこの彫刻、本物の金かしら?」
アイリスがレンの腕に寄り添い、無邪気な声を上げた。今日の彼女は、背中が腰まで大きく開いたクリムゾンレッドのシルクドレスを纏っている。レンは、漆黒のタキシードの襟元を微調整するふりをして、Q-Linkの接続を確認する。
「クラウディア、接続状況は」
『現在、邸宅周囲の商用通信網のみを掌握しています。ヴィクターのメインサーバー及びセキュリティネットワークは、物理的に外部ネットワークから切り離された『エアギャップ』状態です。アイリス様による物理的なデバイス設置がなければ、侵入は不可能です』
シャンパングラスの触れ合う繊細な音と、柔らかなヴィオラの旋律。一見すれば、それは上流階級の洗練された夜会そのものだった。しかし、レンの網膜に投影されるクラウディアのスキャンデータは、その華やかな仮面を容赦なく剥ぎ取っていく。
『レン様、ゲストの顔認証照合を完了。……極めて興味深いリストです。右前方、モルドバの元国防副大臣。現在は国際指名手配中の武器商人です。左手のバルコニーにいるのは、メキシコ・カルテルの資金洗浄を担う通称『会計士』。そして中央の円卓を囲んでいるのは、東欧の独裁政権と太いパイプを持つ新興財閥の縁者たち……』
クラウディアの淡々とした報告が、レンの思考を冷徹に研ぎ澄ませる。
「……慈善事業家のホームパーティにしては、いささか毒気が強すぎるな。まるで、世界中の『悪意の縮図』をこの屋敷に集めたかのようだ」
レンは口角をわずかに上げ、エントランスに飾られた巨大なレオナルド・ダ・ヴィンチの模写を眺めるふりをした。
『左様でございます。出席者の8割以上に組織犯罪または国際制裁対象者との関連が認められます。ヴィクター・チェンという『聖人』が、いかに底知れない深淵の上に立っているかの証左と言えるでしょう』
アイリスがレンの腕を強く抱き寄せ、耳元で愛らしく囁いた。
「ねえエリック、ここってパーティ会場じゃなくて、国際犯罪者の見本市だったみたいね。あたし、場違いなドレスを着てきちゃったかしら?」
その瞳には、獲物を前にした猟犬のような鋭い光が宿っている。彼女もまた、この贅沢な空間に漂う、死と硝煙の混じった独特の「腐敗臭」を敏感に感じ取っていた。
レンはシャンパングラスをトレイから取り、アイリスの腰を強く引き寄せた。彼女は「んっ……」と甘い声を漏らし、レンの胸に顔を埋める。周囲の客たちは、北欧から来た傲慢な若きカップルの熱愛ぶりに、呆れと羨望の入り混じった視線を送った。
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屋敷から北に800メートル。ジャングルに覆われた丘の斜面で、マヤは土の匂いと同化していた。
彼女の横には、最新の電子スコープ「スマート・シグナル」を搭載したAXMCライフルが据えられている。スコープのモニターには、邸宅の外周を巡回する民間軍事会社の警備員たちの心拍数と呼吸の間隔が、デジタル数字で表示されていた。
「……こちらマヤ。ターゲット、12。すべてプロ。……いつでもいける」
彼女の指が、冷たいトリガーにそっと触れる。マリーナベイのカジノでは指一本動かせなかった鬱憤を晴らすかのように、彼女の意識は極限まで研ぎ澄まされていた。
一方、邸宅直下の海岸線。波打ち際の岩陰から、漆黒のウェットスーツを着たガウスが這い上がってきた。彼の背中には、ショートバレルのSIG MCX SPEAR LTと、超小型の熱切断装置が収められている。
「ったく、海水の温度がぬるすぎて反吐が出るぜ。マヤ、アイリス、早くしろ。俺の指はもう、引き金を引きたすぎて疼いてんだ」
ガウスは無線越しに毒づきながら、電子双眼鏡で防犯カメラの首振り周期を確認した。
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パーティの喧騒が最高潮に達した頃、ヴィクター・チェンが中央の階段から現れた。彼はレンの姿を見つけると、親しげに歩み寄ってくる。
「ようこそ、エリック。君が来てくれて嬉しいよ。今夜は、カジノのような『偶然』に左右されるゲームではなく、もっと確実な『支配』の話をしようじゃないか」
「期待しているよ、ヴィクター。退屈なシャンパンよりも、刺激的な数字の話をね」
レンがヴィクターの注意を完全に逸らした瞬間、アイリスが少し足元をふらつかせ、レンの胸を軽く叩いた。
「エリック、飲みすぎちゃったみたい……。少しお化粧を直してくるわね」
アイリスは千鳥足のような危うい足取りで、ゲスト用のトイレへと向かった。廊下には、無表情な警備員が二人立っている。アイリスは彼らに向かってウィンクを投げかけながら、個室へと消えた。
個室の鍵を閉めた瞬間、アイリスの瞳から酔いが消えた。彼女はドレスの太腿に仕込まれたガーターベルトから、タバコの箱ほどのサイズのデバイス――クラウディアの分身とも言える「ブリッジ・ノード」を取り出した。
「クラウディア、天井の点検口を確認」
『左上30センチです。アイリス様、時間は30秒しかありません。巡回が来ます』
アイリスはシルクのドレスを気にすることなく、便器の上に飛び乗り、天井のパネルを音もなく外した。そこにある防犯カメラの中継基盤へ、デバイスを直接クランプさせる。
「接続。……マヤ、お願いね」
その通信を合図に、静寂が引き裂かれた。
邸宅の外、裏門を守っていた二人の警備員が、悲鳴を上げる間もなく同時に倒れた。マヤが放った亜音速のサプレッサー弾が、二人の延髄を正確に貫いたのだ。銃声は、屋敷の中で流れるモーツァルトの旋律にかき消された。
「……外周、クリア。ガウス、侵入許可」
「待たせやがって!」
ガウスは一気に崖を駆け上がり、無力化された防犯カメラの死角を突いて、地下の搬入口へと滑り込んだ。彼は腰から下げたサーマル・カッターを起動し、サーバー室へと続く強化チタンの扉に押し当てる。
「レン、今から『地下室の鍵』をぶち壊す。派手に踊っててくれよ」
火花がガウスのバイザーを照らす。パーティ会場のきらびやかなシャンデリアの下で、レンはヴィクターと乾杯を交わした。その瞳の奥では、クラウディアが地下のセキュリティ・ゲートを次々とハッキングでこじ開けていくログが、超高速で流れていた。
虚飾の宴の裏側で、チームQの鋭い牙が、ヴィクターの心臓部へと確実に食い込んでいた。




