3.黄金のバカラ
カジノ・パイザ・クラブの最深部、マホガニーの重厚なテーブル。レンの目の前には、1枚1万シンガポールドル(約110万円)の価値を持つチョコレート色の高額チップが、地層のように積み上がっていた。
「バンカーに、50万ドル」
レンが無造作にチップの束を押し出すと、周囲にいた観戦者たちから短い溜息が漏れた。1ハンドで約5,500万円。シンガポールの物価でさえ家が一軒買える額が、わずか数分の勝負に投じられる。だが、レンの瞳には勝利への渇望も、失うことへの恐怖も微塵もなかった。
『レン様、シューの中身は残り42枚。次のカードは『8』、対するプレイヤーは『3』。統計的勝利確率は98.4%です。どうぞ、退屈な勝利をお楽しみください』
Q-Linkにより脳に直接響くクラウディアの冷徹な声。レンは配られたカードを絞ることすらせず、ディーラーが公開するのを黙って待った。結果は、クラウディアの予言通り。レンの圧倒的な勝利だった。
「……また勝ったか」
レンは吐き捨てるように呟き、グラスに残ったヴィンテージのクリュッグを飲み干した。これまでに積み上げた利益は、既に300万ドル(約3億3千万円)を超えている。普通なら狂喜乱舞する場面だが、レンは椅子の背にもたれかかり、天井のシャンデリアを虚ろに見上げた。
「ねえエリック、もう十分じゃない?飽きちゃったの?」
アイリスがレンの首筋に顔を埋め、吸い付くようなキスを贈る。彼女の香水の甘い香りがレンの感覚を麻痺させようとするが、レンの役作りは完璧だった。彼はアイリスの腰を乱暴に引き寄せると、その耳元で周囲にも聞こえるような低い声を出した。
「金が欲しくてやっているんじゃない。……ただ、この程度の数字の変動では、心臓が跳ねもしないのが不愉快なだけだ」
その「不遜な独白」が、静まり返ったフロアに染み渡る。その瞬間、背後から小気味よい拍手の音が聞こえた。
「実に贅沢な悩みだ。数字に魂を奪われない人間というのは、この場所では絶滅危惧種だと思っていたよ」
レンがゆっくりと首を巡らせると、そこには完璧にプレスされたライトグレーのスーツを纏った男が立っていた。ヴィクター・チェン。ホログラムで見た通りの、整いすぎた容貌と、慈愛に満ちているようでいてその実、何も映していない硝子のような瞳。
ヴィクターはレンの隣の席を指差し、無言の問いを送る。レンは短く顎をしゃくってそれに応じた。
「失礼。君のような『退屈』を愛せるプレイヤーには、つい声をかけたくなってしまう」
ヴィクターはディーラーに会釈し、自らもチップを置いた。レンは彼をじろりと一瞥し、興味なさげに視線をテーブルに戻す。
「……あんた、誰だ?」
「これは失礼した。私はヴィクター・チェン。この街で少しばかり、明日のための投資を生業にしている者だ」
ヴィクターは柔和な笑みを浮かべた。彼はレンが自分の正体を知らないことを前提に、獲物を観察する捕食者のような冷徹さを、社交的な仮面の下に隠している。レンは鼻で笑い、アイリスの手を弄びながら名乗った。
「エリック・クリスチャンセン。北欧のしがない海運屋の跡継ぎだよ。シンガポールは初めてだが、期待していたほど熱い場所じゃないな。湿気と、予定調和な数字が転がっているだけだ」
「初めてのシンガポールで、初日にして300万ドルを毟り取る……。君の言う『予定調和』には、ずいぶんと重みがあるようだ」
ヴィクターが探るような視線を向ける。レンはそれを受け流し、ディーラーが配る次のカードを見つめながら、さりげなく言葉を添えた。
「あんたの名前、どこかで聞いたことがある。確か……環境エネルギーか何かの聖人君子だったか。この汚れた鉄火場には、いささか不似合いな経歴だ」
「聖人?ははは、買い被りだよ。私はただ、効率を愛しているだけだ。無駄な摩擦のない、滑らかな世界をね」
ヴィクターの言葉に、レンは心の中で冷笑した。摩擦のない世界。それは、彼が「第4の勢力」という偽像を使い、各国の防衛システムや金融網をハッキングして、邪魔な「ノイズ」を消し去ることを指しているのだ。
「効率、か。俺が一番嫌いな言葉だ。ギャンブルも人生も、予測不能なノイズがあるからこそ、その隙間に『刺激』が生まれる」
レンはそう言うと、手元にあるチップの半分、150万ドルをプレイヤー側に、あえて「負ける確率が高い方」へ一気に押し出した。
「クラウディア、次のカードは?」
『『0』と『2』。勝率は12%以下です。無謀な賭けです、レン様』
「それでいい」
カードが開示される。レンの負けが決まった。一瞬にして1億5千万円以上が消えたが、レンは初めて満足げな笑みを浮かべ、隣のアイリスを引き寄せて深いキスを交わした。
ヴィクターの瞳の奥で、確かな火が灯ったのをレンは見逃さなかった。合理性を追求する怪物にとって、自分とは正反対の「破滅的なロマンチスト」ほど、利用価値が高く、かつ興味深い対象はない。
「エリック。どうやら君とは、もう少しゆっくりと『ノイズ』について語り合う必要がありそうだ」
ヴィクターが内ポケットから、金箔が施された厚手の招待状を取り出した。
「明晩、セントーサ島の私の私邸でささやかなパーティを開く。そこにはカジノのテーブルよりも、ずっと刺激的で、実体のない『賭け』が用意されている。……君と、その美しいパートナーを招待したい」
アイリスがレンの胸に指を這わせ、期待に満ちた声を上げる。
「ねえ、エリック。行きましょうよ。退屈しのぎにはなりそうじゃない?」
レンはヴィクターの招待状を無造作に受け取ると、それをアイリスのドレスの胸元に差し込み、ヴィクターをまっすぐに見据えた。
「いいだろう。あんたの言う『刺激』が、期待外れでないことを祈るよ。ヴィクター・チェン」
二人の視線が火花を散らす。背後では、マヤがスコープ越しにヴィクターの眉間を捉え続けていた。潜入の第一段階は、これ以上ない形で完了した。




