2.仮面の行進
マリーナベイ・サンズ、地上200メートル。空を切り裂くような三棟の巨塔が支える「サンズ・スカイパーク」の直下、カジノのハイリミット・エリア「パイザ・クラブ」の空気は、下界の湿気た熱帯夜とは無縁の冷徹な静寂に包まれていた。
一晩の最低賭け金が数千万円を下回らないこの特権階級の社交場では、酸素濃度が意図的に高く保たれている。客たちの脳を活性化させ、ギャンブルによるドーパミンを最大限に引き出すためだ。金木犀と高価な葉巻の香りが混ざり合う通路を、一組の男女が優雅に歩を進めていた。
北欧の海運王の放蕩息子「エリック」に扮したレンは、サヴィル・ロウで仕立てられたミッドナイトブルーのタキシードを完璧に着こなしていた。その隣には、彼に心酔しきった様子の愛人、アイリス。彼女の纏うシルクのイブニングドレスは、動くたびに深海の真珠のような光沢を放ち、鍛え上げられたしなやかな肢体を惜しげもなく強調している。
「ねえ、エリック。今夜の運勢、私のキスで占ってあげましょうか?」
アイリスは周囲の視線など意図的に無視し、レンの首筋に白皙の腕を絡めた。彼女の唇がレンの耳たぶをかすめる。それは演技というにはあまりに湿り気を帯びた、熱い吐息だった。アイリスの指先が、レンのシャツのボタンの隙間から、彼の胸を優しく撫でる。
「……アイリス、遊びが過ぎる」
レンは低い声で嗜めたが、その表情には放蕩息子らしい余裕の笑みが張り付いたままだ。彼はアイリスの腰を強く引き寄せ、衆人環視の中で彼女の額に深く、執拗なキスを返した。
『わたくしの計測によれば、アイリス様の現在の体温は平熱より0.8度上昇しています。演技による興奮か、あるいは個人的な情動か。興味深いデータです、レン様』
レンの脳にQ-Linkを通してクラウディアの無機質な声が響く。
「クラウディア、その解析は後回しだ。……ガウス、聞こえるか。ポイント・アルファに到着した。状況を報告しろ」
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カジノの華やかな喧騒から垂直に15メートル下、巨大な空調ダクトの内部。ガウスは漆黒のタクティカル・ギアに身を包み、ヤモリのように壁面に張り付いていた。彼の視界には、コンタクトレンズ型ディスプレイを通じて、クラウディアから送られる建物の三次元透過図が投影されている。
「こっちは順調だ。排気ファンの回転周期をクラウディアが同期させた。ネズミ一匹通さねえセンサーの隙間を抜けて、今、中央監視室の真上だ」
ガウスは背中のSIG MCX SPEAR LTのストックが壁に当たらないよう細心の注意を払いながら、レーザーカッターを取り出した。彼の指先は、戦場での荒々しさとは対照的に、外科医のような精密さでダクトの接合部を焼き切っていく。
一方、マリーナベイ・サンズから1.2キロメートル離れた、ガーデンズ・バイ・ザ・ベイの巨大な人工ツリー「スーパーツリー」の頂上付近。観光客の立ち入りが禁止された保守用デッキで、マヤは影と同化していた。
彼女の傍らには、組み立てられたばかりのAXMCライフルが静かに横たわっている。マヤは風速計を兼ねた観測用デバイスを覗き込み、シンガポール特有の気まぐれな海風を読み取っていた。
「……マヤ。準備完了」
彼女の言葉は、無線越しでも温度を感じさせないほど短い。彼女の電子スコープは、カジノの防弾ガラス越しに、レンとアイリスがバカラのテーブルに着く姿を捉えていた。もしもの事態が起きれば、彼女の放つ.338ラプア・マグナム弾が、2秒後にはターゲットの脳幹を粉砕するだろう。
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「バンカーに、10万ドル」
レンはチップを投げ出した。日本円で1,000万円を超える賭け金にもかかわらず、彼の眉一つ動かない。
アイリスはレンの肩に顎を乗せ、彼の髪を指で遊びながら、うっとりとした目でテーブルを見つめている。彼女は自由な方の手で、自身のクラッチバッグの底を優雅に撫でた。そこにはカジノのローカル・ネットワークに強制介入するためのナノ・インジェクターが仕込まれている。
「素敵よ、エリック。あなたがお金を捨てる時の目、本当にゾクゾクするわ」
アイリスは再びレンの頬に唇を寄せ、吸い付くようなキスを贈った。その瞬間、彼女は囁いた。
「……3時方向、ヴィクターの側近がこちらを監視してる。クラウディア、顔認証を開始して」
『了解しました。データベース照合中……。対象はヴィクター・チェンの警備主任、元SASのマーク・ケインと推定。レン様、アイリス様。魚が餌に興味を示し始めました』
カジノの喧騒、シャンパングラスの触れ合う音、そして巨額の金が消えていく虚無感。そのすべてを背景に、レンはアイリスの腰を抱き寄せ、勝利の女神を独占する男の顔で、ゆっくりとシャンパンを口にした。
彼らの背後、豪華な装飾が施された大理石の柱の影で、冷徹な視線がこちらを射抜いているのを、レンは背中の皮膚で感じ取っていた。
ターゲット、ヴィクター・チェンの出現まで、あと数分。
盤上の駒は、既に完璧に配置されていた。




