1.不可視の秒針
シンガポール取引所のメインサーバー室。窒素冷却された静寂の中で、数千万の光ファイバーが明滅を繰り返している。
午前10時14分22秒。その「事件」は起きた。
世界中の金融アルゴリズムが、コンマ数秒の不自然な「空白」を検知した。ニューヨーク、ロンドン、東京。主要なマーケットのチャートが一瞬だけ硬直する。それは、心電図が平坦な線を描くような、不気味な静止だった。
「ラグを確認。遅延時間、0.12秒」
ICPOのサイバー犯罪センターでは、若きアナリストたちが悲鳴に近い声を上げていた。0.12秒。人間には知覚することすら不可能な刹那だが、1秒間に数万回の取引を行う高頻度取引(HFT)の世界では、数億ドルの富を移動させるのに十分すぎる時間だ。
「また奴だ……。『第4の勢力』を名乗る正体不明のハッカーグループ。米中露、どの陣営のIPも偽装していない。いや、すべての陣営を同時に攻撃し、互いに疑わせるようにログを書き換えている」
直後、各国の情報当局には「東側諸国による金融テロの予兆」という偽の情報が流れ、緊張が走る。市場はパニックに陥り、為替は乱高下を始めた。その裏で、何者かが「空白の0.12秒」を利用し、暴落する直前のポジションを売り抜け、底値で買い戻していた。
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国連事務次長ハリー・エヴァンスは、自身の執務室でモニターを見つめていた。画面には、今回の事件で最も巨額の利益を上げたと目される人物の顔写真が映っている。
ヴィクター・チェン。
若き慈善事業家、環境エネルギー投資の寵児。その端正な顔立ちと、恵まれない子供たちへ寄付を惜しまない姿は、世界中で「聖人」のように語られている。
「インターポールもCIAも、奴が黒幕だと確信している。だが、証拠がない」
エヴァンスの傍らに立つ秘書が、苦渋の表情で報告する。
「ヴィクターの資金洗浄の手口は完璧です。すべての通信は物理的に遮断されたシールドルームで行われており、衛星からの傍受も不可能です。法的に彼を裁くには、現行犯でサーバーを押さえるしかありませんが……彼は主権国家の庇護下にあります」
「法、か」
エヴァンスは鼻で笑った。国際法、主権、証拠能力。それらはすべて、ヴィクターのような怪物を守るための盾に成り下がっている。大国同士が互いに核を突きつけ合い、互いの工作員を疑い合っている冷戦状態(三極対立)において、ヴィクターのような「影の操り手」は、最も捕らえがたい存在だった。
「公式な手段では、世界経済が崩壊するのが先か、第三次世界大戦が始まるのが先か、という段階だ」
エヴァンスはデスクの引き出しから、一般のネットワークに繋がっていない特別な無線端末を取り出した。
「記録に残らない解決が必要だ。彼らを呼べ」
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インド洋、海面下100メートル。
暗い海の中を、一匹の巨大なトビウオのような影が滑るように進んでいた。
アヴァロン。流線型のステルス船体は、磁気流体推進によってソナーにも映らない無音の航行を続けている。
作戦会議室の大型ホログラム・テーブルに、ヴィクター・チェンの立体像が浮かび上がった。
『ターゲット確認。ヴィクター・チェン、31歳。資産総額、推定120億ドル』
クラウディアの、鈴の音のように透き通った声が室内に響く。
『彼は実在しない『第4の勢力』という虚像を作り上げ、三極のパワーバランスを意図的に崩しています。今回の金融攻撃も、彼が開発した独自のAIによるものです。わたくしの演算によれば、次の攻撃は48時間以内に行われます』
「……0.12秒の空白、か。傲慢な数字だね」
テーブルを囲む精鋭たちの中に、レンの冷徹な声が混じった。彼は丁寧に整えられた指先でホログラムを操作し、ヴィクターの行動ログを追う。
「彼は自分が神にでもなったつもりで、チェス盤を外側から動かしていると思っている。でも、盤の上に立っていないマニピュレーターなんて、ただの観客に過ぎない」
「へっ、理屈はいい。つまり、その気取ったツラを地面に叩きつければいいんだろ?」
ガウスが愛銃のボルトを引き、硬質な金属音を響かせた。
「ガウス、乱暴はダメよ。ヴィクターはとっても繊細な人なんだから」
アイリスが可笑しそうに笑いながら、レンの肩に腕を回す。彼女の指先がレンの首筋をなぞり、吐息が耳にかかる。
「ねえレン、今回はどんな『役』で彼に近づく? あたしたち、最高のカップルに見えるように練習しなきゃね」
レンは眉一つ動かさず、アイリスの手を静かに、だが拒絶するように外した。
「……アイリス、私情を挟むな。クラウディア、潜入ルートは?」
『既に手配済みです、レン様』
クラウディアは優雅に一礼するホログラムを表示した。
『ヴィクターは明晩、シンガポールのマリーナベイ・サンズのカジノに現れます。新たな出資者を探すためです。レン様、あなたは北欧の海運王の放蕩息子として、アイリス様はその愛人として、最高級の舞台に上がっていただきます』
部屋の隅で、寡黙なスナイパー、マヤが静かにライフルのクリーニングを終え、一言だけ呟いた。
「……風は、止まっている」
アヴァロンは静かに加速した。
世界を救うためでも、正義のためでもない。ただ、平和の裏側にある「バグ」を取り除くためだけに、彼らは動き出す。
「チェックメイトは、カジノのテーブルで。作戦開始だ」
レンの断定的な言葉とともに、アヴァロンのゼロ・ポイント・リアクターが青白い光を増した。




