第六十五話 お前には分からない
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
ダリウスが部屋に入ってきた時、クルトは机の前に座ったまま動かなかった。
蝋燭の光の中で、次兄の顔がはっきり見えた。整った顔立ちは変わらない。しかし「洗練」という表面の下に、ここ数日で何かが削れている。焦燥だ。追い詰められた人間の顔だ、とクルトは思った。前世でも見たことがある。予算を使い切ってしまった現場監督が、竣工前日に事務所に来た時の顔に、少し似ていた。
ダリウスは扉を閉め、向かいの椅子には座らずに立ったまま言った。
「フォーゲルが逮捕されたな」
「ああ」
「……お前が動いたのか」
「コンラートが動いた。俺は証拠を集めた」
ダリウスが口を結んだ。しばらく沈黙があった。
「聞くが。お前は俺も告発するつもりか」
「それはお前の行動次第だ」
「……今でもそうか」
「今でも」
クルトは嘘をついていない。告発するかどうかは、確かにダリウスが次に何をするかによる。それだけだ。
──────
ダリウスが先に口を開いた。
「俺が言いたいことを、聞け」
「聞いている」
「お前がノルトクロイツで成功できたのは、俺が政治的に守ってやったからだ」
クルトは遮らなかった。
「王都では何度も、フォーゲルたちがノルトクロイツへの直接介入を主張した。それを俺が押さえた。お前の設計図も、契約も、全部ヴァイス家の名前があったから中央が無視できなかった。感謝しろとは言わないが——事実だ」
「続けろ」
「その上で言う。お前の全ての実績は、ヴァイス家の名前と政治的な後ろ盾があって初めて成立している。それをヴァイス家に帰属させることに、何の問題がある。お前一人では何もできなかった」
ダリウスはそこまで一気に言い切って、クルトの反応を見た。
クルトは少し間を置いた。それから、静かに口を開いた。
「お前が守ったのは、俺じゃない」
「何?」
「お前が守ったのは、ヴァイス家の体面だ。俺が失敗すれば、三男を送り込んで失敗した辺境伯家という汚点が残る。俺が成功すれば、その功績を回収できる。だからお前は守った。俺を守ったのではなく、賭けを守った」
ダリウスの顔が少し変わった。
「……それが同じことだと言っているんだ。結果的にお前は守られていた」
「結果としてはそうかもしれない。でも動機が違う。お前がここに来ていたのは——俺の兄として来ていたんじゃない。利用できるものを管理しに来ていた」
「感情論だ」
「そうかもしれない。それでも言う」
クルトは立ち上がった。窓の方へ歩いた。夜のノルトクロイツが外に広がっていた。荒廃していた頃には存在しなかった灯りが、いくつも点在している。民家の窓の光だ。誰かが起きていて、家族と話して、食事をして、眠る前の時間を過ごしている。
「俺は当初、ここの人たちを施工環境として見ていた。道路を直す場所。水路を設計する現場。そこに住んでいる人間は、条件のひとつだった」
ダリウスは何も言わなかった。
「だがお前は俺の仕事を道具にしようとした。俺が変わっても、お前のその目は変わらなかった。俺にとって、もうここの人たちは道具じゃない」
クルトは窓の外を指した。
「あの灯りが、俺の答えだ。誰かが生きている。そこに道があるから、水が来るから、壁があるから、生きていられる。それは政治が作ったんじゃない」
長い沈黙があった。
ダリウスが口を開いた。
「……それは感情論だ。政治の世界では——」
「そうだ。それが答えだ」
「は?」
「感情論だと言ったな。そうだ。俺の答えは感情論だ。それで十分だ」
ダリウスが何かを言おうとして、止まった。言葉を探しているようだった。しかし言葉は出てこなかった。クルトが「感情論だ」という言葉を否定せず、むしろそれを「答えだ」と返した。その構造が、ダリウスの論理の枠組みをうまく機能させなかった。
──────
「お前が俺を追い出したいなら、やってみろ」
クルトは振り返った。
「でも——俺が作ったものは、追い出しても消えない。道は残る。橋は残る。水路は残る。そこに住んでいる人間は、俺がいなくなっても、その道を歩く。それはもう、取り返しがつかないことだ」
ダリウスは動かなかった。
クルトは机の前に戻った。
「明日、出ていけ。交渉の余地はない」
また沈黙があった。今度は長かった。ランプの芯が小さく弾けた音だけが聞こえた。
やがてダリウスが動いた。扉の方へ歩いた。
ドアノブに手をかけたところで、一瞬だけ止まった。
「……俺は」
声が出た。しかしそこで止まった。「兄弟として」という言葉が続かなかった。
扉が開いて、閉まった。
──────
廊下でヴィオラと目が合った、とエルドリックが後で教えてくれた。ダリウスは何も言わず、廊下の奥へ去った。
クルトが窓の外の灯りをまだ見ていると、しばらくして控えめなノックがあった。
「入れ」
ヴィオラだった。いつもの書類は持っていなかった。
「……よかったです」
それだけ言った。
クルトは「ああ」と返した。
言葉は少なかった。しかし二人の間には、その少ない言葉だけで十分な何かがあった。夜のノルトクロイツの灯りが、窓の外にまだ揺れていた。
クルトは椅子に座り直した。
──────
執務室で一人、街の灯りが一つずつ消えていくのを見ていると、扉が叩かれた。
エルドリックだった。腕を組んで、廊下に立っている。
「ダリウス殿が荷物をまとめている。夜明けには発つようだ」
クルトはしばらく黙って、窓の外を見続けた。
「……そうか」
それ以上は何も言わなかった。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
続きもよろしくお願いします。




