第六十四話 失墜の報せ
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
使者が門を叩いたのは、まだ朝靄が残る早い時刻だった。
クルト・ヴァイスは執務室で昨日からの水路の維持管理記録を見直していた。羽ペンを置いて廊下に出ると、エルドリックがすでに使者を迎えていた。馬は汗を大量にかいている。王都から一晩以上かけて飛ばしてきたらしい。
「領主様。コンラート・シュルツ殿からの至急書簡です」
封を確認した。蝋印はコンラートのものだ。クルトは執務室に戻り、ナイフで封を切った。
読みながら、表情は変えなかった。
ヴィオラが書類を抱えて入ってきた。クルトが書簡を差し出すと、彼女は受け取り、目を通し始めた。
三行目を読んだあたりで、ヴィオラの手が止まった。
「……ラインハルト・フォーゲル財務省管理官が、逮捕」
「前日に身柄を拘束された。共犯者も複数同時に。容疑は公金横領と、公職を利用した私有地取得、それから——魔物誘導装置の不正発注」
ヴィオラが書簡から目を上げた。緑の瞳が、じわりと赤くなっていた。
「……やっと、です」
声が震えていた。それだけ言って、ヴィオラは窓の方を向いた。肩が細かく動いている。
クルトは何も言わなかった。彼女がこの領地のために費やしてきた時間を、クルトは知っている。一睡もしない夜が何度あったか。数字が合わない帳簿を何度やり直したか。それを知っているから、今この瞬間は、彼女のものだと思った。
しばらくして、ヴィオラが向き直った。目が少し赤かったが、声は落ち着いていた。
「記録は正確に。……財務省の『ノルトクロイツ整理計画』も、正式に撤回されたとありますね」
「ああ。コンラートの書簡の末尾にある」
「ダリウス様は、まだここにいます」
クルトは短く頷いた。「分かっている」
──────
午前のうちに、クルトはランベルト、エルドリック、フリッツの三人を執務室に集めた。
書簡の内容を読み上げた。余計な言葉は加えなかった。事実だけ、順番通りに。
「フォーゲルが逮捕された。共犯者も含め、中央の腐敗グループは法的に処理される。ノルトクロイツの『整理』は消えた」
エルドリックが腕を組んだまま、口の端を僅かに動かした。
「ようやくか。遅すぎるくらいだ」
珍しく、笑っているような顔だった。
「ダリウス殿の部屋から、昨晩、物が割れる音がしたが……そちらは俺の管轄外だな」
「……ランベルト、何かあるか」
老職人は腕を胸の前で組んで、天井を見ていた。
「で、これで全部終わりか?」
「ダリウスがまだいる」
「そうか。……ならまだ終わっちゃいないな」
それだけ言って、ランベルトは席を立った。もう話すことはないという態度だった。これがランベルトの流儀だ。心配しているが、余計なことは言わない。
フリッツが「やりましたね領主様!」と声を上げかけて、クルトの表情を見て止まった。
「……あれ、まだ何かあるんですか?」
「ダリウスがまだいる」
「あ、そっか。……えっと、それは大丈夫なんですか」
クルトは答えなかった。
──────
午後、コンラートへの返書を書いた。
「証拠の整理に協力してくれた方々に感謝を。ノルトクロイツは引き続き機能します。今後の手続きについては追って確認させてください」
ヴィオラが「この文面で問題ありませんか」と確認した。クルトは「送れ」と言った。
その後、水路の補修記録に戻った。フォーゲルの逮捕は「解決すべき問題のひとつが閉じた」という感覚だった。喜ぶより先に、次の課題を確認する。前世でも、現場が終わった翌日には次の積算が始まっていた。それが体に染みついている。
ただ——ヴィオラの目が赤くなった瞬間だけは、記録に残った。
これは俺だけの戦いじゃなかった。この領地に来てからずっと、全員が戦っていた。
廊下を歩いていると、角で人と鉢合わせた。
ダリウスだった。
二人は向かい合ったまま、しばらく動かなかった。昨日まで「友好的な兄」を演じていた顔が、今は違う顔をしていた。切り札を失った者の顔だった。疲弊と、焦りと、それを隠そうとして隠せていない目。
クルトは何も言わなかった。ダリウスも何も言わなかった。
すれ違った。
廊下の端で、ダリウスの足音が消えるのを聞きながら、クルトは思った。
話をする必要がある。もう逃げられない場所まで来ている。それは俺も、お前も、同じだ。
──────
夜、執務室で明日の段取りをノートに書き出していると、扉が叩かれた。
ヴィオラが来る時間ではなかった。エルドリックではない——あの男はノックの仕方がもっと力強い。
クルトは手を止めた。
「クルト。話がしたい」
ダリウスの声だった。
いつもの「交渉」の声ではなかった。もっと削ぎ落とされた、何かが剥き出しになった声。
クルトは書類を脇に置いた。椅子の背もたれを正した。
「入れ」
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
続きもよろしくお願いします。




