第六十二話 最後の取引
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
ダリウスが到着したのは、翌日の昼過ぎだった。
随員がいなかった。馬一頭と、身一つ。それがすでに答えだった——公式の視察でも外交的な訪問でもない。個人として、兄として来た。
クルトは客間でダリウスを迎えた。ヴィオラが扉の前で「同席しますか」と聞いた。
「いや、俺一人で聞く」
「……領主様」
「大丈夫だ」
ヴィオラは一瞬、何か言いたそうにしたが、頷いた。扉が静かに閉まった。
ダリウス・ヴァイスは、相変わらず整った外見をしていた。旅装だったが、埃一つ払ってある。二十四歳の長身の男が、椅子に座って微笑んでいる。その微笑みは崩れていない。まだ崩れていない。
「久しぶりだ、クルト」
「ああ」
「ここも随分、変わったな。道が——見違えた」
「用件を聞かせてくれ」
ダリウスは少しだけ微笑みの形を変えた。笑いながら、少し寂しそうな顔をする。得意な表情だ、とクルトは思った。
「直接的だな。……まあ、それもお前らしい」
ダリウスは膝の上で指を組んだ。
「提案がある」
「聞いている」
「ノルトクロイツでのお前の功績を、ヴァイス辺境伯家の事業として正式に文書化する。それに同意してくれれば——コンラートたちへの政治的な圧力を取り下げる。フォーゲルへの告発も封じ込める」
クルトは答えなかった。ダリウスは続けた。
「兄弟として言うが、お前には政治の素養がない。俺が王都で戦う。お前はここで土を掘り続ければいい。それがお互いにとって一番いい」
静かな提案だった。理路整然としていた。感情的でなかった。それが余計に、うっかり頷いてしまいそうな重さを持っていた。
だが、クルトの中で何かが止まっていた。
橋を架けた日のことを思い出した。エーデル川に橋脚を下ろす前夜、設計図を三度見直した夜のことを。フリッツが泥だらけになりながら資材を運んでいた朝のことを。大潮の夜、城壁の上でエルドリックと並んで立っていた時のことを。ランベルトが「……なるほどな」と初めて認める言葉を出した日のことを。
全ての功績をヴァイス家に。
その言葉が、クルトの中で奇妙な温度を持っていた。怒りではなかった。だがはっきりと、違うと感じた。
「三日考える」とクルトは言った。
「……三日か」
「それ以上は待てないなら、今断る」
ダリウスは少しだけ眉を動かした。それだけだった。
「……三日、もらおう」
クルトは立ち上がり、客間の扉を開けた。「部屋を用意させる」と言い、ヴィオラに目で合図した。
──────
三日間の猶予の最初の夜、クルトは一人で街を歩いた。
酒場の前を通ると、フリッツが中から出てきた。
「あ、領主様!珍しいですね、こんな時間に」
「散歩だ」
「一緒にいいですか」
「構わない」
フリッツは隣に並んだ。二十歳の若者は、背がクルトと同じくらいになっていた。最初に会った時より少し大きくなった気がした。
「ダリウス様、いい方ですよね。なんか——貴族っぽいというか」
「そうだな」
「何かまずいことでも?領主様、今日から表情が少し違う気がして」
「……いや、大丈夫だ」
フリッツは素直に「そうですか」と言った。それ以上は追わなかった。この青年は、昔からそういう子供だった——いや、もう子供ではないが。
街の道を歩いた。水路が月明かりを反射している。橋の手前で立ち止まり、欄干に手を置いた。石の冷たさが手のひらに伝わった。
(これは誰のものか)
設計したのは自分だ。材料を調達したのは自分の指示だ。でも、積んだのはフリッツで、固めたのはランベルトの仕事仲間で、管理しているのはエルドリックの部隊で、記録しているのはヴィオラだ。
これをヴァイス家の事業と呼ぶことが、クルトにはできなかった。なぜできないかを説明する言葉は、まだ見つかっていなかった。
二日目の午後、ヴィオラが報告に来た。
「領主様、北の草原からエルドリック様の調査隊が戻りました」
クルトは書類から顔を上げた。
「何か見つかったか」
「……魔物誘導装置の残骸が見つかったそうです」
クルトは一秒、止まった。
それから頭の中で、素早く計算した。
フォーゲルへの告発を封じ込める——ダリウスがそう言った。その意味は、証拠を隠すか、圧力をかけて調査を止めさせるか、だ。だが、もし物的証拠が出てしまったなら。財務省の発注記録と一致する残骸が出てしまったなら——ダリウスの切り札は、根本から消える。
「エルドリックを呼んでくれ。今すぐ」
「はい」とヴィオラは言い、もう駆けていた。
夜、執務室で一人になった時、クルトは設計図を広げた。
ノルトクロイツ全域の地図だ。道路、水路、橋、城壁、水門。全て書き込んである。
(これは誰のものか)
答えは、出ていた。
三日目の夜が来る前に、ダリウスへの返答は決まっていた。それは拒絶ではなかった。宣言だった。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
続きもよろしくお願いします。




