第六十一話 遠い戦場の報せ
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
書簡は朝の執務が始まって間もない時間に届いた。
差出人の名を見た瞬間、ヴィオラが「コンラート・シュルツ様から、です」と静かに言った。クルトは手を伸ばし、封を切った。
走り書きではなかった。几帳面な文字が、細かく、密度高く並んでいる。コンラートという男は感情的になっても字が乱れないタイプだと分かった。だが今回は、ところどころ筆圧が強くなっている。興奮か、あるいは慎重さか——おそらく両方だ。
クルトは黙って最後まで読んだ。
「……何が書かれていましたか」
ヴィオラの声に、クルトは書簡を机の上に広げた。
「フォーゲルの件だ。財務省内で内部告発が出た。調査が進んでいる。コンラートによれば——失脚は時間の問題かもしれない、とある」
ヴィオラの表情が、一瞬だけ緩んだ。しかし、すぐに引き締まった。
「喜ぶのはまだ早いと思います」
「分かっている」
クルトは書簡をもう一度読んだ。コンラートの文章は慎重で、確定したことと推測していることを明確に区別していた。その几帳面さが、信頼できる理由の一つだった。
内部告発の経緯。調査の範囲。財務省内での動き。そして——末尾に近い部分に、もう一つの情報があった。
「ダリウスがノルトクロイツへの直接交渉を計画しているという噂がある、と書いてある」
ヴィオラの表情が硬くなった。
「……いつ、こちらへ来るか分かりますか」
「コンラートも把握していない。噂の段階だ」
クルトは立ち上がり、窓の外を見た。晴れた朝だった。街道は乾いており、馬車が一台、北の方角から入ってくるのが見えた。商人らしい積み荷だ。通常の交易だ。
「証拠書類の整理状況を確認したい。王都側が調査に使える文書が、今どれだけ揃っているか」
「はい。六章分の記録は完全に整理済みです。ただ——」
「何が不足している」
「フォーゲルの発注記録と、こちらの物品台帳との突合が一部まだです。三十件ほど残っています」
「今日中に終わらせられるか」
「……頑張ります」
「数字で話しましょう」とクルトは言った。「今日の執務時間は何時間ある」
「午前が四時間、午後が三時間です」
「七時間で三十件なら、二十四分に一件のペースだ。余裕がある」
ヴィオラが少し口元を引き締めた。そういう言い方をされると反論しにくい、という顔だった。
「……記録は正確に、仕上げます」
「頼む。コンラートへの返書も書く。口頭で指示するから、書き取ってくれ」
クルトは机に戻り、羽ペンを手に取った。ヴィオラが帳面を構えた。
「コンラート・シュルツ殿へ。報告に感謝する。こちらでも追加の記録を準備する。証拠の精度を上げることに注力している。政治的な動きについてはそちらを信頼する。以上だ」
「……短いですね」
「必要なことは書いた」
──────
昼頃、エルドリックが執務室の扉を叩いた。
「フォーゲルの件、聞きました」
クルトが招き入れると、エルドリックは腕を組んだまま部屋に入った。傷だらけの顔に、珍しい表情が浮かんでいた。何か言いたいことがある、という顔だ。
「やっと動いたか」と彼は言った。静かだったが、声に重みがあった。「遅すぎるくらいだ」
「まだ確定じゃない」
「分かっています。それでも——」
エルドリックは少し黙った。
「ダリウス殿が来るという話は本当ですか」
「噂の段階だ」
「来るなら、俺が門で止めます」
「止めなくていい」とクルトはすぐに言った。「話を聞く価値はある」
エルドリックは何も言わなかった。同意ではなく、反論もしない、という沈黙だった。
「……承知しました」とだけ言い、廊下に戻った。
夕方、ランベルトが鍛冶場の煤を手拭いで拭きながら顔を出した。
「コンラートとかいう若者から書簡が来たそうじゃないか」
「ああ」
「で、俺たちはどうする」
クルトは答えた。「今まで通り、作り続ける」
ランベルトは少しの間、クルトの顔を見た。それから、手拭いを肩にかけ直した。
「……そうか。お前が折れなければ、それでいい」
それだけ言って、作業に戻った。
──────
夕刻、クルトは一人で街に出た。
ランベルトでもエルドリックでもヴィオラでもない、一人の時間が必要だった。理由は自分でも説明できなかった。ただ、歩きたかった。
道路は乾いていて、締まっていた。三年前に自分が設計し直したアスファルト代わりの砕石舗装だ。雨水はきちんと側溝に流れ、路盤は沈下していない。荷馬車の轍の形跡があるが、深さは問題ない。良好な状態だ。
橋を渡った。欄干の石積みを指で確かめる。目地はしっかりしている。コンクリートもどきの充填材が固化して、もう動かない。
水路を確認した。流量は安定している。水の色は澄んでいる。堰の開閉記録が杭に刻んである——ヴィオラのアイデアだった。
(これが証拠だ。どんな文書より雄弁な)
内心でそう呟いた時、前世の記憶がかすかに浮かんだ。地方の市道を設計して、施工して、供用開始した後、その道が地図に載るだけで誰にも何も言われなかった日々。
ここは違う。
街角でミレイという老婆に「領主様、今日も歩いてるんですか」と声をかけられた。クルトは「確認です」と答えた。老婆は「そうですか、ご苦労様です」と言って、家の中に入った。
たったそれだけの言葉だった。だが、クルトはしばらく立ち止まった。
執務室に戻ると、ヴィオラが書類の整理をしていた。クルトが入ると、顔を上げた。
「コンラートへの返書、届けました。それから——」
ヴィオラは一瞬、口ごもった。
「書簡の末尾をもう一度確認したのですが……」
クルトは「何だ」と言った。
「コンラート様の筆跡とは別の字体で、一行追記があります。返書を書き終えてから気づきました。記録を見直していたところで——」
ヴィオラが書簡を広げ、末尾の一節を指差した。
「読み上げます。『ダリウス・ヴァイス殿はすでに王都を発った模様』——」
クルトは書簡から目を上げ、窓の外を見た。
夕暮れの街道が見える。クルト自身が設計し、領民たちと一緒に作り直した道だ。その道の先に、王都がある。そしてその道を、今この瞬間、兄が歩いてこちらへ向かっているかもしれない。
「……分かった」
クルトはそれだけ言い、設計図の引き出しを開けた。明日の仕事を続ける。それだけだ。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
続きもよろしくお願いします。




