第五十七話 この子なら直せる
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
書類箱は古かった。
木の表面が年月で滑らかになり、金具の部分だけが鈍く光っていた。ヴィオラが鍵を差し込む前に、一度だけ深呼吸した。
「これを受け取ったのは、先代様が亡くなる直前です」
声が静かだ。感情を制御しようとしているのが、かすかに伝わってくる。
「『この子が来たら開けなさい』と言われました。クルト様が来るまで……ずっと、待っていました」
鍵が回った。蓋が開いた。
中には書類が三枚、丁寧に重ねて入っていた。封蜡がかかっている。ヴァイス家公式の紋章ではない——個人の紋章だ。先代領主・エアハルト・ヴァイスが個人として押した印。
ヴィオラが封を切った。クルトに渡した。
クルトが一枚目を手に取った。
「後継者指名書」
王国の公証を経ていない私文書だが、自筆の署名がある。証人として二名の名前も記されている——当時の家老と、教会の神父。文面は短かった。
クルトが読んだ。
三男クルト・ヴァイスに、ノルトクロイツの建て直しを委ねる。この子は土と水と石を理解できる。この子なら直せる。
その一文の前で、クルトの指が止まった。
紙の表面から目が離れなかった。
前世の記憶が、洪水のように返ってきた。
三十年間、地方自治体の土木部門で働いた。道路を作り、橋を設計し、水路を整備した。「地味な仕事だ」と言われ続けた。感謝されなかった。完成した道路の上を誰が歩いているかを知らないまま、次の図面を引いていた。年六十時間、七十時間の残業。最後の現場で倒れて、救急搬送されて、そのまま死んだ。
誰にも「あなたが正しかった」と言われなかった。
その自分が、転生して——会ったことのない人間が書いた「この子なら直せる」という文字を、今読んでいる。
──────
クルトがどのくらいそうしていたか、わからなかった。
ヴィオラが何も言わずに待っていた。
クルトが目を伏せた。一度、ゆっくりと目を閉じて、また開いた。
「……先代は、なぜ俺を選んだんだ」
「先代様は若い頃、あなたと同じように土木の仕事に興味を持っていた、と聞いています」ヴィオラが静かに答えた。「辺境伯家の三男なら、土を理解できる可能性があると思っていたのかもしれません。先代様自身が、若い頃にそうだったから」
クルトが二枚目を手に取った。
「ノルトクロイツの問題リスト」。先代が生前に書き留めた荒廃の原因と、建て直しの優先課題。排水不良。地盤沈下。道路崩壊。水路の機能停止。
クルトが自分が到着した日に書いた現状評価と、ほぼ同じ内容だった。
「……俺と同じことを見ていた」
「先代様もエンジニアの目を持っていた」とヴィオラが言った。「ただ実行する力が、時間が、足りなかった」
三枚目を開いた。「財務省に関する警告文」。
中央の官僚の一部がノルトクロイツの整理を狙っている。記録を残しておきなさい。記録だけが、後に真実を証明できる。
クルトが三枚の文書を揃えた。丁寧に重ねて、机の上に置いた。
「ヴィオラ」
「はい」
「あなたが正しかった。記録は、ちゃんと意味があった」
ヴィオラが目を細めた。泣きそうになるのを、唇を少し結んで堪えているのが分かった。
「先代様に言われた通りにしただけです」と彼女は言った。「記録を守り続けることが、私の仕事でした」
「十年間」
「はい。十年間」
クルトがもう一度、一枚目の文書を見た。「この子なら直せる」という一文を。
先代領主クルトを知らなかった。会ったことがない。それでもこの人は、何かを見ていた——地名でも名声でもなく、ヴァイス家の三男という境遇の中に、建てることを理解できる人間がいると信じていた。
前世で、誰かに選ばれたことはなかった。期待されたことも。ただ仕事をした。正確に、丁寧に、誰にも見られないところで。
この遺言書はその答えではない。先代は前世を知らない。
それでも——この一文は、同じことを言っていた。
──────
翌朝、工房でランベルトに会った。
クルトが遺言書のことを(詳細は伏せて)「先代が俺を選んでいたらしい」と話した。ランベルトが鉄を磨く手を止めた。
「そうか」
「驚かないんですか」
「なぜ驚く」ランベルトが鉄を叩き始めた。「先代は目利きだったな」
それだけだった。それ以上は言わなかった。
クルトが工房を出ようとした時、エルドリックが入り口で待っていた。
「遺言書の話、ヴィオラから聞いた」とエルドリックが言った。「そういうことか。先代様はちゃんと残していたんだな」
「……そうらしい」
「大潮の前夜に言ったことを覚えているか。設計図が、剣より強かった、と」
「覚えています」
「先代の選択も、正しかった」エルドリックが静かに言った。「俺が言えることじゃないかもしれないが」
クルトは何も言わなかった。それが答えで十分だった。
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執務室に戻ると、ヴィオラが書類の整理を始めていた。
「コンラート様への書簡を準備し始めます」とヴィオラが言った。「F-01、F-02、F-05、F-07——全ての記録の目録を作ります。先代様の遺言書も含めて」
「先代の遺言書は別扱いだ」とクルトが答えた。「あれは証拠じゃなく、遺言だ。証拠は証拠として使う。遺言は遺言として使う」
ヴィオラが手を止めて、クルトを見た。
「分かりました。記録は正確に整理します」
「頼む」
クルトが目録の草稿を受け取りながら「足りないものは何もない。今日、動く」と言った。
ヴィオラが書類に視線を戻した。その手が、今度は迷いなく動いていた。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
続きもよろしくお願いします。




