第33話 テキストの中の俺
手記は、封筒に入っていた。
封筒の表には、丁寧な字でこう書かれていた。
《これを読む人へ》
差出人の名前はなかった。
それが浜霧市の東端にある、市民向けカルチャースクール《アトリエ・ぼなんざ》の備品室の棚の上に、無造作に置いてあったのである。
備品室からは、油絵用の高級絵具セットが一式消えていた。定価にして三万円ほど。サークルの会費で積み立てた共有財産である。
田所刑事が呼ばれたのは、それが理由だ。
盗難届が出ているわけではなかった。サークルの代表・遠藤が「一応、専門家に見てほしい」と言ったのである。
田所としては、軽い気持ちで来たつもりだった。
明智院金四郎がついてきたのは、完全に想定外だった。
「なぜいるんですか」
と田所は言った。
「封筒を聞いた」
と明智院は言った。
「誰から聞いたんですか」
「君から」
「言っていません」
「言いそうだったから来た」
「先制して来るのやめてください」
真柴透子が、その後ろで静かに会釈した。
「お邪魔します」
「透子さんまで」
「先生がいると聞いて」
「誰から聞いたんですか」
「先生から」
「この人が言いふらしてる」
*
備品室は狭かった。
棚にはキャンバス、筆、スケッチブック、固形水彩などが並んでいる。その一角に、明らかに何かが置いてあった跡がある。埃の四角い痕だ。
「絵具セットはここにあったんですね」
と透子が言った。
「そうです」
遠藤が答えた。
「先週の水曜日まではあったんですが、今日来たらなくなっていて」
「使った人間は?」
と田所。
「それが、誰も使っていないと言っていて」
「全員に聞いたんですか」
「聞きました。サークルのメンバーは六人なんですが、全員が知らないと」
「鍵は?」
「備品室の鍵は、サークルの棚に掛けてあって、メンバーなら誰でも使えます」
「外部の人間が入ることは?」
「このフロアは受付を通らないと来られないので、部外者はまず無理かと」
「つまり内部の誰かが持ち出した可能性が高い」
「そうなんですが、全員が否定していて……それで、今日この封筒が棚の上に」
田所が封筒を手袋越しに手に取った。
「中を見ていいですか」
「はい、私も中は読んでいません」
田所は封筒を開けた。
中には、便箋が二枚。
田所が読み始めた瞬間、明智院が横からするりと覗き込んだ。
「読ませてください」
「自分で読んでますから」
「並行して読みます」
「並行して読まれると落ち着かない」
田所が渋々、明智院に便箋を渡した。
「先生」
と透子。
「内容を教えてもらえますか」
「うむ」
明智院は便箋を広げた。
そこには、こう書いてあった。
*
《手記》
俺は盗んでいない。
それだけははっきり言っておきたい。俺があの絵具セットを持ち出したと思っている人間がいるなら、それは誤解だ。
俺の名前はあきら。職業はジムのインストラクターで、絵は完全な趣味だ。週に一度このサークルに来て、油絵を描いている。去年から通い始めたが、正直まだ下手だ。だから、あの高級絵具セットを借りることもあった。それは認める。
でも、盗んではいない。
先週の水曜日、俺は確かに備品室に入った。絵具を借りようとしたからだ。だがその時、すでに絵具セットはなかった。棚には埃の痕だけが残っていた。俺はそれを見て、誰かが先に使いに行ったのだろうと思い、その日は自分の絵具で描いた。
誰かに話すべきだったかもしれない。でも、サークルの空気が最近少し重くて、余計なことを言うのが怖かった。俺が最後に備品室に入った人間だということは、皆も薄々知っているだろう。だから、疑われるのが嫌で、黙っていた。
黙っていたのは間違いだったと思う。だからこうして書いた。
信じてもらえるかはわからない。でも、俺は盗んでいない。
あきら
*
沈黙。
田所が言った。
「なるほど。倉田あきらさんですね。メンバーの一人です。先週の水曜日に備品室に入ったが、その時にはもうなかった、と」
「倉田さんは今日は来ていないんですか」
と透子。
「連絡したんですが、まだ来ていなくて」
と遠藤。
「では後ほど話を聞きましょう」
と田所。
そこで、明智院が便箋から目を離さずに言った。
「田所君」
「何ですか」
「この手記を書いた人物だが」
「倉田あきらさんですね」
「それはテキスト外の情報だ」
「え?」
「今この手記の中に書かれているのは"あきら"という名前と"ジムのインストラクター"という職業と、一人称の"俺"だ。倉田という苗字は、遠藤さんから聞いた話だ。テキストそのものには書かれていない」
「そうですね。苗字は書いていませんね」
「つまり」
明智院はゆっくりと便箋を下ろした。
「この手記の書き手が倉田あきらだという確証は、まだない」
「いや、文脈的に考えて」
「名探偵は文脈で動かない。テキストで動く」
田所がため息をついた。
「先生、何が言いたいんですか」
明智院は、重々しく言った。
「この"俺"は、女性かもしれない」
沈黙。
遠藤が、少し困った顔で明智院を見た。
「あきら……という名前は」
と透子が静かに言った。
「確かに、男女どちらでもあり得ますね」
「そうだ」
明智院は透子に向かってうなずいた。
「"あきら"という名前は中性的だ。ジムのインストラクターも、今や男女を問わない職業だ。そして一人称が"俺"であることも、必ずしも書き手が男性であることを証明しない」
「まあ、そうですけど」
と田所。
「つまりこの手記は、書き手の性別について、何も確定していない」
「いや、倉田さんっていう人が書いたって言いましたよね」
と遠藤が言った。
「それはテキスト外です」
と明智院。
「でも現実の話ですよ」
と田所。
「名探偵はまずテキストに誠実であるべきだ」
「テキスト外の現実に生きていますよね我々は」
明智院は便箋をもう一度広げた。
「見たまえ。"俺は盗んでいない"。この書き出し、潔いと思わないか」
「思います」
と透子。
「"気合いを入れて"とか"黙って見過ごせない"という語感ではなく、静かに、しかし強く否定している。これは……追い詰められた人間の文体だ」
「そこは同意します」
と田所。
「だがそれと同時に、この"静かな強さ"は、必ずしも男性的なものではない」
「……まあ」
「むしろ、ひとりで抱えてきた人間の文体だ」
「そこも同意します」
「だとしたら」
明智院は言った。
「この"俺"が女性である可能性を、今ここで排除することはできない」
「できませんけど、でも」
と田所。
「犯人はこの中にいる!!」
全員がびくっとした。
「急に言いましたね」
と田所。
「タイミングを計っていた」
「計った結果これですか」
「うむ」
「今回の"この中"はどこですか」
「このテキストの中だ」
「手記の中に犯人が?」
「書き手が"俺は盗んでいない"と言っている。つまり書き手は自分が疑われていることを知っている。つまり書き手は、何かを知っている」
「それはそうですね」
「そしてこの書き手が女性であるなら、話は変わってくる」
「なぜ」
「サークルのメンバーで、女性で、名前があきらで、ジムのインストラクターで、先週の水曜日に備品室に入った人間がいるとしたら」
「それは倉田さんですよ」
と遠藤が言った。
「倉田さんは男性です。普通に」
「テキスト外の情報です」
と明智院。
「現実の情報です」
と田所。
「名探偵はまずテキストに」
「先生」
田所が静かに、しかしはっきりと言った。
「遠藤さんが今、倉田さんは男性だとおっしゃいました」
「聞こえていた」
「それでもまだ、テキスト上の可能性を追いますか」
「追う」
「……なぜですか」
「遠藤さんの発言もまた、テキストだ」
遠藤が少し困った顔で田所を見た。
田所が深くため息をついた。
*
三十分後、倉田あきらが来た。
扉が開いた瞬間、田所は無言でうなずいた。
倉田あきらは、身長百八十五センチはあろうかという、がっしりとした体格の男性だった。ジムのインストラクターという職業が、全身から説得力をもって伝わってくる。短く刈った髪、日焼けした肌、落ち着いた目。
田所が「ほら」と言う代わりに、明智院をちらりと見た。
明智院は、扉のところに立つ倉田あきらを、じっと見ていた。
三秒ほど、沈黙があった。
「……倉田あきらさんですか」
と田所。
「はい」
倉田は静かに言った。
「手記を読んでもらえましたか」
「読みました」
田所がもう一度、明智院を見た。
「先生」
「うむ」
「倉田さんです」
「わかっている」
「男性ですね」
「……」
「先生」
「テキストと現実が、今、乖離している」
「乖離していません。一致しています」
「私の中では乖離している」
「先生の中だけです」
倉田が、状況を飲み込めない顔で田所と明智院を交互に見た。
「あの……何か」
「いえ」
と田所。
「こちらの話です。気にしないでください」
明智院は便箋を取り出し、もう一度広げた。
「確認させてください」
と明智院は倉田に言った。
「はい」
「あなたがこの手記を書いたんですね」
「そうです」
「間違いなく」
「間違いなく」
「……この手記を書いた人物と、今ここに立っている人物は、同一人物ですね」
倉田が少し止まった。
「……はい。同じ人間です。俺です」
「なるほど」
「先生」
透子が静かに近づいた。
「うむ」
「倉田さんは男性です」
「テキスト上では」
「現実でも」
「現実は、テキストの外にある」
「今回は一致しています」
「完全にか」
「完全に」
明智院はしばらく便箋と倉田を交互に見比べた。
倉田は穏やかに、しかし少し疲れた顔で、それを受け止めていた。
「あの」
と倉田が言った。
「何でしょう」
と明智院。
「俺が女性に見えますか」
「テキスト上では、可能性を排除していませんでした」
「現実では」
「……現実では」
明智院は少しだけ目を細めた。
「あなたは、いかにも男性だ」
「そうです」
「惜しい」
「何がですか」
「田所君」
と田所。
「先生です」
「わかってます。先生、もう倉田さんへの尋問を始めてください」
「尋問ではない。テキストの確認だ」
「どちらでもいいので始めてください」
田所が改めて状況を確認し始めた。倉田は落ち着いた口調で、手記に書いた通りのことを話した。先週の水曜日、備品室に入ったが絵具セットはすでになかった。誰かに言うべきだったが言えなかった。後悔している。
「信じてもらえますか」
と倉田は最後に言った。
「今のところ、話に矛盾はありません」
と田所。
「もう少し確認させてください」
その間、明智院はまだ便箋を見ていた。
倉田が、田所との話が一段落したところで、明智院をちらりと見た。
「あの方が、探偵さんですか」
「名探偵です」
と透子が答えた。
「何か気になることがありましたか」
「あなたの手記を興味深く読みました」
と明智院は言った。
「そうですか」
倉田はやや戸惑った顔で言った。
「参考になりましたか」
「一点だけ確認させてください」
「はい」
「あなたはなぜ、一人称を"俺"にしたのですか」
倉田が少し考えた。
「……普段から俺って言うので」
「他に理由は?」
「特にないです」
「意図的に"俺"にしたわけではない?」
「はあ……普通に俺なので」
「ミスリードを狙ったわけでは」
「何のミスリードですか」
田所が静かに割り込んだ。
「先生。もういいですよ」
「だが」
「倉田さんは普通に俺と言う男性です。それだけです」
「テキストとしての可能性を」
「現実を見てください」
「テキストに誠実であることが名探偵の」
「現実に誠実であることが人間の基本です」
明智院は少し黙った。
倉田が、おそるおそる透子に言った。
「あの……この探偵さんは、大丈夫ですか」
「大丈夫です」
と透子は穏やかに言った。
「先生は、文字で書かれたものに対して、非常に誠実なんです」
「はあ」
「目の前の現実より、テキストを信じる傾向があります」
「それは……探偵として大丈夫なんですか」
「現実が追いつくことがあります」
「追いついてないですよね今回は」
「今回は少し現実が先行していました」
*
結局、絵具セットを持ち出したのは、サークル最年長のメンバー・岸本だった。
岸本は七十二歳で、物静かな人物だった。
話を聞いてみると、岸本は自分の絵具と間違えて持って帰ってしまったのだという。同じメーカーの絵具を使っていて、ケースの形も似ていたため、荷物をまとめる際に自分のものだと思って鞄に入れてしまった。家に帰ってから気づいたが、返しに行きづらくなってしまい、そのまま一週間が過ぎた。
「返すつもりはありました」
と岸本は言った。
「ただ……なんと言えばいいか、わからなくて」
「間違えて持って帰ってしまったと、そのまま言えばよかったですよ」
と田所。
「そうですね。わかっていたんですが」
「絵具セットは手元にありますか」
「はい、家に。すぐ持ってきます」
田所がため息をついた。
「事件の真相は、持ち帰りミスでした」
「物理的にはな」
と明智院。
「物理的も何も、それ以外の側面がありますか」
「テキスト上の問題が残っている」
「何がですか」
「この手記を書いた人物が"俺"と書いた。だがその書き手が、現実には倉田あきらという男性だとわかった。つまりこの事件において、叙述トリックは発動しなかった」
「最初からそうですよ」
「しかし」
明智院は言った。
「叙述トリックが発動しなかったという事実は、叙述トリックの可能性がなかったことを意味しない」
「意味しますよ。だって現実に」
「可能性は、現実によって遡及的に消えるものではない」
「哲学の話をしてる場合じゃないですよ」
「名探偵は常に可能性の中に生きている」
「現実に生きていてください」
透子が、静かに言った。
「先生」
「何だね」
「今回の先生の読みは、半分は正しかったと思います」
「半分?」
と田所。
「先生は手記を読んで、"書き手の性別を確定するな"とおっしゃっていた。それ自体は正しい読み方だと思います。テキストだけから性別を断定するのは、確かに早計です」
「そうだ」
と明智院。
「ただ」
透子は続けた。
「今回の事件では、その読み方は真相の解明に貢献しませんでした」
「それは現実が単純すぎたためだ」
「かもしれません。でも先生」
「うむ」
「名探偵が対峙するのは、テキストではなく現実です」
明智院は少し黙った。
「……手記の"俺"が美しかった」
「はあ?」
と田所。
「追い詰められた人間が、静かに、しかし強く書いた一人称だ。あれは良いテキストだった」
「それは同意しますよ」
と田所。
「倉田さんの手記は、誠実に書かれていた」
「だから、あの"俺"にはもっと複雑な背景があってほしかった」
「ないんですよ。普通に男性です」
「惜しい」
「惜しくないですよ」
倉田あきらが、そこで少し笑った。
「俺の一人称、そんなに気になりましたか」
「ええ」
と明智院は真剣に言った。
「あなたの"俺"は、良い"俺"でした」
「……ありがとうございます」
と倉田は言った。
「褒められ慣れていない方向から褒められました」
*
帰り際、田所が明智院に言った。
「今日の先生、だいぶひどかったですね」
「どのあたりが」
「全部です」
「もう少し具体的に」
「目の前の現実より手記の文体に誠実でしたよね」
「それの何が問題ですか」
「探偵として全部が問題です」
「だが叙述トリックの可能性は」
「なかったです」
「現実には。だがテキスト上は」
「テキスト上もなかったと思います」
「なぜ」
「倉田さんが普通に"俺"と言う人だったからです」
「それはテキストを読んで知ることはできない」
「だから現実を見るんですよ」
「名探偵はテキストを」
「現実を見てください本当に」
透子が、歩きながら静かに言った。
「先生。今回の事件でひとつ、確かなことがありました」
「何だね」
「倉田さんは、本当のことを書いていた。手記は嘘ではなかった。先生が"このテキストには誠実さがある"と感じたのは、正しかったと思います」
明智院は少し黙った。
「……そうだな」
「テキストへの誠実さが、書き手の誠実さを見抜いていた。ただ、方向が少しずれていただけで」
「少しどころじゃなかったですよ」
と田所。
「方向性の問題だ」
「方向が全部ずれていたら意味がないですよ」
「核は正しかった」
「核だけ正しくても」
「名探偵の核は正しい」
「田所さん」
と透子。
「何ですか」
「先生の核は、いつも圧縮率が高いんです」
「展開するとずれるんですが」
「展開の精度の問題です」
「核から展開まで全部が探偵の仕事じゃないですか」
明智院は夜の道を歩きながら、ポケットに手を入れた。
「田所君」
「何ですか」
「叙述トリックというものは面白い」
「そうですね」
「書き手が意図しなくても、読み手が勝手に読み込むことで発生する。つまり、トリックは書き手ではなく読み手の中にある」
「……まあ、そういう考え方もあるかもしれません」
「私は今日、自分の中にトリックを作った」
「自作自演のトリックに引っかかったということですか」
「正確には、可能性の中に住んでいた」
「現実に帰ってきてください」
「物理的にはな」
「今日一番意味のわからない使い方をしましたね、それ」
透子が小さく笑った。
その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記された。
>『テキストの中の俺』
>手記があった。
>一人称は"俺"。名前は"あきら"。職業はジムのインストラクター。
>私はそこに、叙述トリックの可能性を見た。
>だが現実の書き手は、普通に男性だった。
>事件の真相は、老サークル員の持ち帰りミスだった。
>叙述トリックは発動しなかった。
>しかし。
>可能性は、発動しなかったことで消えるわけではない。
>テキストの中の"俺"は、最後まで"俺"だった。
>それは、書き手が誠実だったからだ。
>今回私は、現実ではなくテキストに勝った。
>テキストは正しかった。
それを横から読んだ田所刑事は、しばらく考えてから言った。
「……"テキストに勝った"って何に勝ったんだよ。負けてたのはお前だろ……」




