第32話 それはダイイングメッセージではない
人が倒れている。
その指先に文字が残されている。
この二つがそろった時、人はたいてい冷静さを失う。
まして、その場に明智院金四郎がいた場合、失われるのは冷静さだけではない。
常識も、現実感も、だいたい一緒に失われる。
*
事件が起きたのは、町内会館の一階、集会室だった。
翌日に控えた商店街の夏まつりに向けて、役員たちが景品の確認をしていたのである。
テーブルの上には、福引き用の景品が並んでいた。
洗剤セット。
箱ティッシュ。
乾麺の詰め合わせ。
地元喫茶店のコーヒーチケット。
そして、特賞の温泉旅館ペア宿泊券。
もっとも、その宿泊券は、すでに消えていた。
「ないんです!」
町内会の会計係、田中久美子が叫んだ。
「さっきまで、ここにあったんです。封筒に入れて、この箱の上に置いておいたんです!」
そして、その数分後。
町内会長の大河内勝三郎が、集会室の床に倒れているのが発見された。
倒れた大河内の右手には、黒い油性ペン。
その指先のすぐそばには、白い模造紙が広げられていた。
そこに、震えた文字で、こう書かれていた。
たなか
田所刑事は、それを見て思った。
面倒なことになったな。
その横で、明智院金四郎は、静かに目を細めていた。
「ついに来たか」
「来なくていいです」
田所は即座に言った。
「ダイイングメッセージだ」
「死んでません」
大河内は床に横たわったまま、低くうめいた。
「腰が……腰が痛い……」
「ほら、生きてます」
「だが、倒れた人間が最期の力を振り絞り、文字を残した」
「だから最期じゃないです」
「田所刑事」
明智院は、ゆっくりと振り返った。
「人はいつ死ぬかわからない」
「一般論で押し切らないでください」
真柴透子が、模造紙の文字を見つめていた。
「たなか……」
田中久美子が青ざめた。
「わ、私じゃありません!」
「誰もまだ言ってません」
田所が言った。
だが明智院は、すでに片手を上げていた。
「犯人はこの中にいる!」
「早い!」
田所が叫んだ。
「まだ倒れた理由もわかってません!」
「文字は語っている」
明智院は低く言った。
「被害者は、犯人の名を残したのだ」
「被害者じゃなくて町内会長です」
「たなか」
明智院は模造紙を指差す。
「これほど明白な告発があるだろうか」
「ありますよ。本人が普通に『田中です』って言った時とか」
「田中久美子さん」
明智院は静かに名を呼んだ。
「あなたが、特賞の宿泊券を奪い、大河内会長を突き飛ばしたのではありませんか」
「違います!」
田中は泣きそうな顔で叫んだ。
「私、会計なんですよ! 宿泊券がなくなったら一番困る立場なんです!」
「それもまた、犯人によくある言い分だ」
「よくありません」
田所が遮った。
「だいたい、会長は突き飛ばされたんですか?」
「いや……」
床の上の大河内が、情けない声で言った。
「たぶん、すべった……」
「すべったそうです」
「すべらされた可能性がある」
「何ですべらせるんですか」
「宿泊券のために」
「町内会の福引きで、そこまでします?」
その場にいた役員たちは黙っていた。
洗剤セット担当の中田啓介。
焼きそば券担当の山元美代。
子ども会の係をしている若い母親の小野寺沙紀。
そして、会計係の田中久美子。
全員が、床の文字を見ていた。
たなか。
ひらがなで書かれた四文字は、やけに無邪気で、やけに残酷だった。
「待ってください」
中田啓介が、おそるおそる手を上げた。
「これ、田中さんとは限らないんじゃないですか」
「ほう」
明智院が目を細めた。
「何か心当たりが?」
「いや、俺の名字、中田なんです」
「なかた」
透子が言った。
「逆から読めば、たかな……ではなく、なかた」
「惜しいですね」
田所が言った。
「惜しくないです」
中田は困った顔をした。
「でも、ほら、文字を途中から読ませる暗号とかあるじゃないですか」
「あります」
明智院は即答した。
「むしろ大好物です」
「大好物とか言うな」
田所。
明智院は模造紙の前にしゃがみ込んだ。
「なるほど。単純に田中を示すのではない。文字の順序そのものに罠がある可能性」
「罠にするな」
「たなか。なかた。かなた。たかな」
「最後、野菜みたいになってますよ」
透子が静かに言った。
「先生」
「何か気づいたかね」
「この文字、名前とは限らないのでは」
明智院が、ぴたりと止まった。
「続けたまえ」
「たなか、という音だけを見れば、人名に見えます。けれど、漢字が書かれていない。田中ではなく、棚か、という問いの途中かもしれません」
田所は思わず透子を見た。
「透子さん、今日はまともですね」
「いつもまともです」
「たまに先生側へ行くじゃないですか」
「先生側、という言い方はやめてください。そこは高みです」
「高みかなあ」
明智院は、ゆっくりと立ち上がった。
「棚か」
彼は低く言った。
「そうか。これは人名ではない。場所を示す言葉」
「おっ」
田所が少しだけ期待した。
「つまり、犯人は田中ではなく、棚の中にいる!」
「いるわけないだろ」
全員が言った。
*
集会室の隅には、古いスチール棚があった。
上段には、去年の祭りで使った提灯。
中段には、紙皿や割り箸の段ボール。
下段には、ビニールシートと古い延長コード。
田所は棚を見ながら言った。
「まあ、宿泊券を隠すなら棚はあり得ますね」
「犯人は棚の内部に証拠を隠した」
明智院が言った。
「それだけでいいです。犯人を棚に住まわせないでください」
小野寺沙紀が、少し困った顔で言った。
「あの、さっき子どもたちが、この辺りで遊んでました」
「子ども?」
「はい。景品の箱を見たがって。触らないようには言ったんですけど」
「子どもは、時に最も自然な密室破りを行う」
明智院が言った。
「ただ手を伸ばすだけでね」
「いいこと言ってる風ですけど、普通に触っただけですよ」
田所が棚の中を調べる。
紙皿の箱。
割り箸の袋。
去年のうちわ。
何かのコード。
古いガムテープ。
宿泊券はない。
「ありませんね」
「浅い」
明智院が言った。
「棚とは、物を置く場所ではない。物が忘れられる場所だ」
「ちょっとわかるのが腹立つな」
透子が棚の横を見た。
「先生、ここに小さなかごがあります」
棚の右端、中段の奥。
紙皿の箱の陰に、白いプラスチックのかごが置かれていた。
田所がそれを引き出す。
中には、輪ゴム、予備の名札、古いボールペン、そして白い封筒が入っていた。
田中久美子が叫んだ。
「それです!」
封筒の中には、温泉旅館ペア宿泊券。
無事だった。
「ありましたね」
田所が言った。
「事件解決です」
「待ちたまえ」
明智院が静かに言った。
「まだ謎は残っている」
「残さないでください」
「なぜ、大河内会長は“たなか”と書いたのか」
「棚のかご、じゃないですか?」
田所が言った。
沈黙。
「……」
「……」
「……」
田中久美子が、小さく言った。
「あ、たなかご」
中田が頷いた。
「棚かご、ですね」
小野寺も頷いた。
「子どもが、たぶん封筒を持って、棚のかごに入れちゃったんだと思います。お片づけのつもりで」
その時、集会室の入口から、小さな男の子が顔を出した。
「ママ」
小野寺沙紀の息子、悠真だった。
「ゆうま、あんた、さっき白い封筒さわった?」
「うん」
「どこにやったの?」
「かご」
「どうして?」
「たいせつそうだったから」
沈黙。
田所は天井を見上げた。
「善意か……」
明智院が、わずかに反応した。
「最後のピースが見つかったね」
「今回は何です」
「片付けだ」
「だいぶ普通ですね」
「いや」
明智院は首を振った。
「片付けとは、時に隠蔽である」
「子どものお片づけを犯罪用語で言うな」
悠真は、よくわからない顔で明智院を見ていた。
「おじさん、だれ?」
「名探偵だ」
「めいたんてい?」
「うむ」
「じゃあ、なんでかご見つけられなかったの?」
集会室に、非常に正しい沈黙が落ちた。
田所が口元を押さえた。
透子はなぜか少し誇らしげだった。
明智院は、静かにコートの襟を正した。
「名探偵は、時に答えを子どもに譲る」
「負け惜しみの角度がすごい」
田所が言った。
*
その後、大河内会長は椅子に座らされ、湿布を貼られていた。
「いやあ、棚のかごに入ってるのが見えてね」
大河内は苦笑した。
「みんなに伝えようと思って、模造紙に“たなかご”って書こうとしたんだよ」
「なぜ口で言わなかったんですか」
田所が聞く。
「腰が痛くて」
「それでも“棚のかご”くらい言えたでしょう」
「なんか、書いた方が早いかなと思って」
「早くなかったですね」
田中久美子は、ようやく胸をなでおろした。
「よかった……私、本当に犯人にされるかと思いました」
「失礼しました」
田所が頭を下げた。
「主にこの人が」
「いや」
明智院が言った。
「私は最初から違和感を抱いていた」
「田中さんを名指ししましたよ」
「だからこそだ」
「何が、だからこそなんですか」
透子が静かに言った。
「先生は、“田中”というあまりにもわかりやすい答えに、あえて踏み込むことで、その単純さの危うさを示されたのではないでしょうか」
「違うと思います」
田所が言った。
「ま、まあそういうことかな」
「乗るな」
田中久美子は苦笑した。
「でも、ひらがなって怖いですね。漢字だったら、すぐわかったのに」
「いや」
明智院が言った。
「ひらがなだからこそ、真実は開かれていた」
「今度は何ですか」
「田中にも、棚かにも、棚かごにもなれる。ひらがなとは、意味が固まる前の可能性だ」
透子が、はっと息を呑んだ。
「先生……」
「やめて。今のはちょっと良さそうだから、やめて」
田所が言った。
だが透子は止まらない。
「先生は、文字そのものではなく、意味が確定する直前の揺らぎを見ておられたのですね」
「うむ」
「だからこそ、“たなか”をただの人名と断じることの危うさを、我々に体験させた」
「その通りだ」
「違うだろ」
田所が言った。
「完全に田中さんを犯人扱いしてたろ」
明智院は窓の外を見た。
夕方の商店街には、明日の祭りに向けて提灯が吊られている。
赤や白の提灯が、風に小さく揺れていた。
「田所刑事」
「何ですか」
「人は、倒れた者のそばに文字があると、そこに真実を見たがる」
「まあ、それはありますね」
「だが、文字はいつも真実を語るとは限らない」
「今回は途中でしたからね」
「そう。真実ではなく、途中だった」
透子が静かに頷く。
「途中の言葉を、完成した告発として読んでしまう。そこに、人間の早とちりがある」
「今日はいい感じにまとまってきましたね」
田所は少しだけ認めた。
明智院は満足げに頷いた。
「つまり、本件の犯人は」
「いません」
「この中に」
「いません」
「いるとすれば」
「いません」
「意味を急いだ我々の中に」
「ちょっといるかもしれないのが腹立つな」
*
その夜、明智院金四郎の事件ノートには、こう記された。
> 『それはダイイングメッセージではない』
>
> 町内会館にて、福引きの特賞宿泊券が消失。
> 同時に、大河内会長が床に倒れ、
> その傍らには「たなか」の文字が残されていた。
>
> 一見、それは田中久美子氏を告発する
> ダイイングメッセージに見える。
>
> しかし実際には、
> 大河内会長が「棚かご」と書こうとして、
> 途中で力尽きたものであった。
>
> なお、力尽きた理由は死亡ではなく腰痛である。
>
> 文字は、完成して初めて意味を持つとは限らない。
> だが、未完成の文字を完成した意味として読んだ時、
> 人はしばしば、そこに存在しない犯人を作り出す。
>
> ダイイングメッセージとは、
> 死者の声である前に、
> 生者の早とちりである場合がある。
>
> 注意したい。
それを横から読んだ田所刑事は、しばらく黙ってから言った。
「なお、今回いちばん注意すべきなのは、
腰を打った町内会長の横で、勝手にダイイングメッセージを始める名探偵なんだよなあ……」




