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第31話 次は「5」だ。

 最初のトランプが見つかったのは、喫茶ルビーの床の上だった。


 ハートのAである。


 そしてそのすぐそばで、店主の安西が、頭を押さえてうずくまっていた。


「痛っ……!」


 もっとも、重傷ではなかった。

 安西は額の上を押さえながら、

「何すんだこの野郎!」

と怒鳴っていたし、

怒鳴られた大学生アルバイトの矢口は、アイスコーヒーの空きグラスを持ったまま素直に言った。


「いや、落としました」


 沈黙。


 常連客の春山が新聞から顔を上げ、

 ウエイトレスの美代子が「あー」と言い、

 たまたまナポリタンを食べていた男が「ならしょうがないな」と言った。


 そこへ、窓際でブレンドを飲んでいた男が、ゆっくり立ち上がった。


 名探偵・明智院金四郎である。


 黒い外套。

 鋭い眼差し。

 重々しい沈黙。

 そして、床の上のハートのAを見つめて、明らかに嬉しそうな顔。


「……なるほど」


「何がです」

 と美代子が聞いた。


「始まったのだよ」


「何が」

 と春山。


 明智院はハートのAを拾い上げた。


「見立て連続事件が」


 喫茶店が静まり返った。


「いや」

 と矢口が言った。

「グラス落としただけです」

「黙りたまえ」

 と明智院は言った。

「事件は、まだ一枚目にすぎない」


「一枚目?」

 と安西が額を押さえながら聞いた。

「何の話だ」


 明智院は、カードを高く掲げた。


「A」


「Aですね」

 と美代子。


「始まりを意味する記号」

 明智院は低く言った。

「第一の犠牲。

 第一の予告。

 そして――」


「いや、たぶん誰かがトランプ落としただけだろ」

 と春山。


「浅い」

 と明智院。


「今日も始まったな」

 と美代子。


         *


 事情はきわめて単純だった。


 矢口が洗い物の済んだグラスを棚へ戻そうとして足を滑らせ、グラスが安西の額へ当たった。

 その拍子に、近くの椅子の上に置かれていたトランプが一枚、床へ落ちた。


 以上である。


 店にいた全員がそう思っていた。


 ただし、明智院金四郎だけを除いて。


「待ちたまえ」

 彼は言った。

「ここで問題なのは、グラスではない」

「いやグラスだろ」

 と安西。


「トランプだ」

 明智院。

「なぜハートのAだったのか」


「束の一番上にあったからじゃないですか」

 と矢口。


「その“たまたま”がもっとも怪しい」

 と明智院。


「便利な言葉だな」

 と春山。


 そこへ、田所刑事が入ってきた。

 近所の交番に寄った帰りにコーヒーでもと思ったのだが、店内の空気でだいたい嫌な予感がした。


「何ですか」

 田所は状況を見回した。

「喫茶店でまた何かあったんですか」


「見立て連続事件だ」

 と明智院が言った。


「来るな」

 と田所。


「ハートのAです」

 美代子が言った。


「それが?」

「店長のそばに」

「で?」

「グラスが額に当たりました」

「はい」

「矢口くんが落としました」

「はい」

「本人も認めてます」

「はい」

「でも先生が見立て連続事件だって」

「はい、通常営業ですね」

 と田所。


 矢口が手を挙げた。


「すみません、僕です」

「はい終わり」

 と田所。


「待ちたまえ!!」

 と明智院が叫んだ。


 喫茶ルビーの全員が、だいたい同じ角度で天井を見た。

 始まったな、という顔だった。


「矢口氏はたしかにグラスを落とした」

 明智院は言った。

「だが、それが事件の本質だとは限らない」

「グラスが頭に当たったんだから、だいぶ本質だろ」

 と安西。

「違う」

 明智院は言った。

「本質はトランプだ」


 彼はAをテーブルの上に置いた。


「Aが落ちた。

 なぜJでもQでもなく、Aだったのか」

「一番上にあったから」

 と矢口。

「それだ!」

 明智院が言った。


「何がだよ」

 と田所。


「“一番上にあったから”――なんと都合のよい説明だろう」

「いやほんとに一番上にありました」

 と矢口。


「しかも、Aだ」

 明智院は続けた。

「トランプにおいて、Aは特別だ。

 始まりにもなれば、終わりにもなる。

 最弱にもなれば、最強にもなる。

 なんという曖昧さ」

「喫茶店で急にA論を始めるな」

 と春山。


 田所が腕を組んだ。


「つまり何です。

 アンタが言いたいのは、誰かがこのカードをわざと置いた、と」

「その通りだ」

 明智院。

「犯人は、この中にいる!!」


 矢口がもう一度手を挙げた。


「だから僕ですって」


「きみはグラスを落とした。

 だがカードを落としたとは限らない」

 と明智院。


「一緒に落ちました」

「それを見た者は?」

「僕です」

「当事者の証言は信用ならない」

「じゃあどうしろっていうんですか」

 と矢口。


 美代子が、ちょっとおもしろくなってきた顔で言った。


「でも先生、もし本当に見立て連続事件なら、次もあるってことですか」

「当然だ」

 明智院は低く頷いた。

「Aの次は2。

 そして3。4。

 犯人は順番に数字を進めながら、何らかの連続犯行を完成させようとしている」

「喫茶店で?」

 と春山。

「喫茶店だからこそだ」

「どういう理屈だよ」


 安西が額を押さえたまま言った。


「うちの店で何を連続させるってんだ」

「まだわからない」

 と明智院。

「だが、始まってしまった以上、次は来る」

「来ないよ」

 と田所。


         *


 そして二十分後、来た。


 レジ横のプリンが一個、床に落ちたのである。


 がしゃん、ではない。

 ぺちゃ、である。


 皿の横には、クラブの2が落ちていた。


 沈黙。


「……」

「……」

「……」


「来たか」

 と明智院が言った。


「いや待て」

 と田所。

「何で来るんだよ」


 美代子がレジの前で固まっていた。


「……すみません」

「お前か」

 と安西。


「プリン取ろうとして、肘が当たって」

「で、クラブの2も落ちた?」

 と春山。

「はい……」

「どこから」

「レジ横に置いてあったトランプの束から」

「何でトランプの束がそこにあるんだ」

 と田所。


 矢口が小さく手を挙げた。


「休憩時間に神経衰弱しようと思って」

「するな」

 と安西。


 だが明智院は、もうクラブの2を拾い上げていた。

 その目は完全に輝いている。


「Aの次に2」

 彼は低く言った。

「なんという愚直なまでの見立て」

「たまたま二枚目だっただけだろ」

 と田所。

「浅い」

 と明智院。


「いや、たまたまだろ」

 と全員が言った。


「見たまえ」

 明智院は言った。

「一件目は額への一撃。

 二件目はプリンの落下。

 一見、何の関係もない。

 だがそこにA、2と続いている」

「それ、カードがたまたま一枚ずつ飛んでるだけでは」

 と春山。


「そこが煙幕なのだよ」

 明智院。

「犯人は、“たまたま”を装って順番を刻んでいる」

「刻む場所が喫茶店の事故ばっかりなの、だいぶしょぼいな」

 と田所。


 安西が額を押さえたまま言った。


「じゃあ次は何だ」

「3だ」

 明智院は即答した。

「次は3が現れる。

 その時、より本質的な犯行が姿を見せる」

「より本質的な犯行って何だよ」

「まだわからない」

「便利だなあ」

 と春山。


         *


 その後、喫茶ルビーは妙な緊張感に包まれた。


 矢口はグラスを運ぶたびに足元を見て、

 美代子はプリンの皿を遠ざけ、

 安西は「今日はもうトランプを全部しまえ」と叫び、

 田所は「それで終わりだろ」と言った。


 だが、明智院だけは違った。


 彼は店の中央に立ち、窓の外を見ながら言った。


「犯人は、焦っている」

「何で?」

 と美代子。

「A、2と来た。

 ここで止めれば、むしろ不自然だ。

 犯人は必ず3を置かざるを得ない」

「置かなくていいよ」

 と田所。


「先生」

 春山がちょっと笑いながら言った。

「仮に3が来たとして、何が起きるんです」

「そこだ」

 明智院は低く言った。

「犯人は、カードの数字に見立てて、事件の段階を上げていくはずだ」

「段階?」

「Aは始まり。

 2は反復。

 そして3は――」

「何です」

「転換だ」

「ふわっとしてるなあ」

 と春山。


 その時だった。


 厨房の奥から、

「あっつ!!」

という声がして、

 寅松が飛び出してきた。両手におしぼりを持ち、その後ろから湯気が立っている。


「何だ」

 と安西。


「ヤカンの蓋が落ちて、手ぇいった!」


 その足元へ、ひらりと何かが落ちた。


 スペードの3である。


 沈黙。


「……」

「……」

「……」


「来たか」

 と明智院が言った。


「来るんだなあ」

 と春山。


 田所が額を押さえた。


「何でだよ……」


 寅松が言う。


「いや、トランプの束、さっき棚の上に避けたんだけど、

 ヤカン取ろうとした拍子に肘が当たって……」

「お前もか」

 と安西。

「今日は全員だめだな」


 だが明智院は、ついに静かに笑った。


「見たまえ」

「何をです」

 と田所。

「犯人は、もう隠しきれなくなっている」

「いや全員が不器用なだけだろ」


 明智院はスペードの3をテーブルに置き、A、2の横へ並べた。


「A。2。3」

 彼は低く言った。

「もはや偶然ではない」

「いや、偶然っぽさしかないですよ」

 と田所。


「待ちたまえ」

 明智院は目を細めた。

「ここで問題なのは、次が4かどうかではない」

「違うのかよ」

「順番そのものだ」

「始まったな」

 と春山。


「犯人は、我々に“順番通りに進んでいる”と思わせたいのだ」

 明智院は言った。

「だが本当にそうか?」

「いや、順番通りにしか見えないが」

 と田所。


「浅い」

 明智院は言った。

「トランプとは、順番を示す記号であると同時に、

 順番に囚われる者を誘導する道具でもある」

「ちょっとそれっぽいな」

 と春山。


「つまり」

 美代子が言った。

「次は4じゃない?」

「違う!」

 明智院が叫んだ。

「そこが罠だ!」

「いや、4だろ」

 と全員が言った。


 その時、店の奥の棚から、

「あっ」

と千代子婆さんの声がした。


 振り返ると、店の手伝いに来ていた千代子婆さんが、うっかり砂糖壺を倒していた。

 白い砂糖がざらざらと床へこぼれ、

 その上に、ダイヤの4がきれいに乗っていた。


 沈黙。


「……」

「……」

「……」


「4だったな」

 と田所。


「4だったねえ」

 と春山。


 明智院はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。


「……なるほど」


「もう認めろ」

 と田所。


「いや」

 明智院は顔を上げた。

「これで確信した」

「何を」

「犯人は、この中にいる!!」

「まだやるのか」

 と安西。


「A、2、3、4。

 あまりにも順番通りだ。

 ここまで順番通りということは、むしろ順番を信じさせるための工作――」

「いや、トランプの束の上から順に落ちてるだけだろ」

 と田所。


 喫茶店が静まり返った。


「……」

「……」

「……」


 矢口が、おそるおそる言った。


「それです」


「何が」

 と明智院。


「さっきから束の上から順に落ちてるだけです」


「……」

「神経衰弱の準備で、A、2、3、4って順にそろえて輪ゴムで仮留めしてたんですけど、

 さっき輪ゴム切れちゃって」


 沈黙。


「……」

「……」

「……」


 春山が、ものすごくゆっくり頷いた。


「じゃあ、最初から最後まで全部、

 ただ順番に落ちてただけか」


「はい」

 と矢口。


「見立て連続事件でも何でもない?」

 と美代子。


「はい」

 と矢口。


「犯人もいない?」

 と安西。


「いや、グラス落としたのとプリン落としたのとヤカンやけどと砂糖ぶちまけたのは、それぞれいます」


 田所が、明智院を見た。


「ほら」


 明智院は、テーブルの上のA、2、3、4を見つめていた。

 その顔は、わずかに悔しそうで、でもどこかまだ諦めていない。


「だが」

 彼は言った。

「それならなぜ、Aから始めた」

「トランプだからでしょう」

 と全員が言った。


 長い沈黙。


 それから明智院は、静かにコートの襟を直した。


「今日はここまでにしておこう」


「いや、始めたのお前だろ」

 と田所。


 その夜、明智院金四郎の事件ノートには、こう記された。


>『ルビー連続落下事件』

>A、2、3、4と、順にトランプが現れた。

>それに応じて、店内では小事件が連続した。

>一見、これは見立て連続事件の開幕に見える。

>だが実際には、トランプの束が順番に落ちていただけであった。

>犯人の意志を見すぎると、時に輪ゴムの劣化すら陰謀に見える。

>注意したい。


 それを横から読んだ田所刑事は、赤字でこう書き加えた。


いや、注意すべきは最初のAで見立て連続事件を始めるお前だ。

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