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第30話 消えた恋人が遺した言葉

 その日の午後、真柴透子は、珍しく少しだけ困った顔をしていた。


 明智院金四郎の事務所で、透子が困ることはあまりない。

 先生の妄言には慣れているし、田所刑事の呆れ顔にも慣れている。

 依頼人の混乱にも、事実関係の整理にも、たいていは静かに対処する。


 だが、その日、透子の前に座っていたのは友人だった。


「つまり」

 田所刑事が言った。

「彼氏がいなくなった?」


「はい」

 と女は答えた。

「昨日の夜から連絡がつかなくて。部屋にも戻ってなくて。

 でも、喧嘩したとか、そういうんじゃなくて」


 彼女は篠崎梨沙。

 透子の大学時代からの友人である。

 きれいな顔立ちだが、今は完全に不安にやられていて、カップを持つ指先がわずかに震えていた。


「消える前に、変なことを言ったんです」

 梨沙は言った。


 明智院が、ゆっくり顔を上げた。


「変なこと」


「はい。

 “たぶん僕は、3人目だから……”って」


 沈黙。


 田所が先に口を開いた。


「何の?」


「そこがわからないんです」

 梨沙は言った。

「3人目って何?って聞いても、それ以上は言わなくて。

 そのあと、“もし僕がいなくなったら、赤いものを見ればわかる”って」


 明智院が、ゆっくりと目を閉じた。


「来たか」


「来てねえよ」

 と田所。


「失踪。

 意味深な言葉。

 数字。

 色。

 そして恋人」

 明智院は低く言った。

「実に良い」

「何がです」

 と田所。

「失踪相談が“良い”ってどういう神経してるんですか」


 だが透子は、友人の前だからか、すぐには先生に乗らなかった。

 まず梨沙のほうを見て、静かに言う。


「最後に会ったのは?」

「昨日の夕方。駅前のカフェ」

「その時の様子は?」

「ちょっと疲れてた。

 でも、別れ話とか、そういう感じじゃなかった。むしろ私が“大丈夫?”って聞いたら笑ってごまかして……」

「仕事の問題?」

「最近ちょっと揉めてたみたい。

 でも、詳しくは言わなくて」


 透子は小さく頷いた。


「残した言葉は、その二つだけ?」

「……あと一つ」


 梨沙は少し迷ってから言った。


「私が黙ってたら、彼、“笑えば良いと思うよ”って」


 田所が目を上げた。


「妙なタイミングで妙な正解出すな」


「そうなんです」

 梨沙は言った。

「なんか、変だったんです。軽いような、覚悟決めてるような」


 透子は少しだけ黙った。

 それから、友人をまっすぐ見て言った。


「あなたは死なないわ、私が守るもの。」


 沈黙。


「いや」

 と田所が言った。

「死んでないし、今のはだいぶスケールが大きいな」


 透子は少しだけ目を伏せた。


「……ええ。わかっています。

 でも、こういう時、強い言葉で支えたくなることがあります」


 梨沙は、困ったように、それでも少しだけ笑った。


「ありがと。

 でもたしかに、いきなり私は死なないって言われると、少し重い」


 その様子を見ていた明智院が、低く言った。


「良い友人だ」


「先生がいまそこを普通に言うの、逆にちょっと変ですね」

 と田所。


 明智院は咳払いをした。


「先生」

 透子が言った。

「現時点でのご見解を」


「うむ」

 明智院は言った。

「彼氏は、この中にいる!!」


 沈黙。


「いねえだろ」

 と田所。

「事務所に」

「概念的にはいる」

「出たよ概念」


「さすが先生です」

 と透子が言った。

「どこが」

 と田所。

「先生は、彼の身体的所在ではなく、“彼の失踪を成立させている人間関係の閉鎖空間”を指しておられるのですね」

「その通りだ」

 明智院。

「……ま、まあそういうことかな」

「完全に後から意味を足したな」

 と田所。


         *


 話を整理すると、こうだった。


 彼氏の名は神崎悠人。

 二十七歳。広告関係の会社勤め。

 最近、職場での立場が少し悪くなっていたらしい。

 上司とも衝突していたし、同期の中でもやや浮いていたという。


「家族は?」

 透子が聞いた。

「実家は隣県。

 でも、帰るって話はしてなかった」

「友人関係は?」

「少ないです。

 私以外には、学生時代の友達が二人くらい」

「なるほど」


 透子は淡々と整理する。

 だがその声の底には、普段よりわずかに硬さがあった。


「“3人目”に心当たりは?」

「ないです。

 浮気とかもたぶんない。……たぶん」

「たぶん?」

 と田所。

「いや、でも本当にそういう感じじゃなかったんです」

 梨沙は言った。

「むしろ、自分が巻き込まれないようにしてるみたいだった」


 沈黙。


 明智院が、静かに言った。


「ほう」


「何か見えたんですか」

 と田所。


「“たぶん僕は、3人目だから……”」

 明智院は低く繰り返した。

「この言葉は重要だ」

「それはまあ重要でしょうね」

「問題は、何の三人目か、だ」


 明智院は指を一本立てた。


「第一に、恋人」

「いや浮気はたぶん――」

 と梨沙が言いかける。


「第二に、被害者」

「被害者?」

 と田所。


「第三に、身代わり」

「急に物騒になったな」


 透子が、はっと息を呑んだ。


「……さすが先生です」

「何がです」

「先生は、“3人目”を単なる人数の話ではなく、

 ある種の順番、あるいは先行する二者の存在を前提とした危険な位置づけとして見ておられるのですね」

「その通りだ」

 明智院。

「……ま、まあそういうことかな」

「今日は乗るのが早いな」

 と田所。


「でも先生」

 透子は続けた。

「もしそうなら、“赤いものを見ればわかる”という言葉との接続が必要です」

「うむ」

「血。

 信号。

 看板。

 ポスト。

 伝票の赤字。

 あるいは、もっと俗な何か」


「競馬新聞かもしれん」

 と田所。


「それはありますね」

 と透子が真顔で頷いた。


「あるんだ」

 と田所。


「赤いもの、ねえ」

 田所は腕を組んだ。

「赤い看板、赤いのれん、赤いポスト……」


 明智院が低く言った。


「赤い彗星かもしれぬ」


「やめろ」

 と田所。


「先生、それはだいぶシャア専用です」

 と透子が静かに言った。


「赤いものを見ればわかる、だぞ」

 明智院は真剣だった。

「この暗号性、この象徴性――」


「いや、失踪した彼氏が急にモビルスーツ方面へ行くな」

 と田所。

「話が一気に一年戦争になる」


「でも先生」

 透子は少しだけ考えるように言った。

「“赤”を、あまりに象徴として読みすぎるのも危険です。

 もっと俗な、看板や店名の可能性から当たるべきかと」

「むう」

 と明智院が言った。

「その地上的態度、嫌いではない」


         *


 その日のうちに、四人は神崎悠人の部屋へ向かった。


 一人暮らし用のごく普通のアパート。

 鍵はかかっていなかった。

 中はやや散らかっていたが、荒らされた形跡はない。


「警察案件では?」

 と田所。

「現時点では成人男性の所在不明です」

 透子が言った。

「事件性の裏付けが弱い」

「でも先生がいると、裏付けがなくても事件になるんだよなあ」

 と田所。


 部屋の中には、財布がなかった。

 ノートPCもない。

 だが、スマホの充電器と、赤いマジックで印をつけられたカレンダーが残っていた。


「日曜に丸」

 と透子。

「赤だ」

 と明智院。

「見たまえ」

「見てます」

 と田所。


 カレンダーの今週日曜には、大きな赤丸。

 その横に、“13:00”とだけ書かれている。


「何か約束か」

 と田所。

「場所がない」

「はい」

 透子は頷く。

「日付と時間だけです」


 梨沙が小さく言った。


「……もしかして、それかな。赤いものって」

「カレンダーの赤丸?」

 田所。

「それを見ればわかる?」

「いや、わからんだろ」

「でも彼、これ見ながら言ったのかもしれない」

 梨沙は言った。

「だったら」

 透子が静かに言う。

「日曜の一点に何かある」


 明智院が目を細めた。


「来たか」


「来るな」

 と田所。


「先生」

 透子が言った。

「これ、いかがでしょう。

 “3人目”とは、日曜のその場に現れる三人目、という意味では」

「ほう」

「先に二人いる。

 そこへ彼が三人目として行く」

「ありえる」

 と田所。

「たとえば、話し合いの人数とか」


 明智院は低く頷いた。


「つまり彼は、日曜の午後一時に、赤い何かのある場所へ向かう予定だった」

「赤い場所?」

 梨沙。

「赤い看板、赤い屋根、赤いポスト……」

「赤い店名」

 透子。

「赤字の伝票」

「赤いのれん」

 と田所。


「赤い観覧車」

 と明智院。


 全員が見た。


「いや、それは急に広いな」

 と田所。


「可能性はすべて検討されねばならない」

 明智院。

「先生」

 透子が静かに言った。

「その言葉、今日はだいぶ逃避にも使えます」

「そうかね」

「はい」


         *


 結局、赤いものの候補をいくつか回ることになった。


 駅前の赤い看板のラーメン屋。

 商店街の赤いのれんの居酒屋。

 大通りの赤いポストのある交差点。

 そして、少し離れた古本屋の赤いテント。


「失踪事件というより、色探しだな」

 と田所。

「先生が喜びそうな、見立ての旅ですね」

 と透子。

「うむ」

 と明智院。


 だがどこへ行っても、神崎悠人はいない。


 梨沙の顔が、少しずつ曇っていく。


「……やっぱり、何かあったのかな」


 透子は、その横顔を静かに見た。

 友人として励ましたい。

 だが、安易な慰めで済ませたくもない。

 少しだけ迷って、それでも口を開く。


「あなたは死なないわ、私が守るもの。」


 沈黙。


「だから、死んでないって」

 と田所が言った。

「今日二回目だぞ、それ」


 梨沙は困ったように笑った。


「透子、優しいんだけど、なんかちょっとだけズレてるよね」

「先生の影響かもしれません」

 と透子は真顔で言った。

「最悪だな」

 と田所。


         *


 日曜の午後一時が近づいたころ、四人は最後に、駅裏の小さな喫茶店へ入った。


 理由は単純で、その店の名前が《赤い鳥》だったからである。


「だいぶ苦しいな」

 と田所。

「赤がついてるなら一応」

 と透子。

「いやでも、ここまで来るともう半分やけですね」

「失踪事件とは、つねにやけを伴う」

 と明智院。

「今のはちょっとだけそれっぽい」

 と田所。


 店内は静かだった。

 赤いビニール張りの椅子。

 壁には少し色褪せたポスター。

 そして――窓際の席に、神崎悠人がいた。


「いた」

 と田所。


「いたわね」

 と透子。


「いた!」

 と梨沙。


 神崎はコーヒーを前に、ひどく気まずそうな顔でこちらを見た。


「……なんで」

「こっちの台詞だよ!」

 梨沙が叫んだ。

「何やってんの!?」


 神崎はしばらく黙っていたが、やがて言った。


「ごめん」


「ごめんじゃない」

 と田所。

「一番だめなやつだ」


「いや、でも」

 神崎は言った。

「ちょっと整理したくて」

「何を」

「人生を」


 沈黙。


 明智院が、ゆっくりと椅子を引いた。


「なるほど」


「今日はそればっかだな」

 と田所。


「話したまえ」

 明智院。

「君はなぜ消えた。

 そして“3人目”とは何だ」


 神崎は観念したように言った。


「会社、辞めたんです」

「えっ」

 梨沙。


「上司と、あと同期の二人がいて。

 ずっとプロジェクトの責任を押しつけ合ってて、最後に全部、俺のせいにされそうになった」

「それで3人目?」

 透子。


「はい。

 たぶん僕は、3人目だから。

 最初の二人はもう、自分の立場を固めてる。

 そこへ後から入った三人目の俺だけ、切りやすい」


 沈黙。


「……なるほどな」

 と田所。

「やっと普通にわかった」


「で、赤いものは?」

 と明智院。


 神崎は店の窓を指した。


 外には、赤い看板の職業紹介所があった。


《あかつき人材サポート》


「転職相談に来てたんです」

 神崎は言った。

「日曜の一時に予約してて」


「しょうもな!」

 と田所が叫んだ。


 梨沙が椅子に崩れ落ちた。


「じゃあ、失踪じゃなくて、転職相談?」

「はい」

「何でそんな言い方するのよ!」

「ごめん……」

「“赤いものを見ればわかる”で、職業紹介所!?」


 神崎は小さく言った。


「その時は、ちょっと詩的に言ったほうがいいかなって……」


「良くない!」

 梨沙。


「それに」

 神崎はさらに小さくなった。

「普通に“明日、転職相談行く”って言うと、なんか負けた感じがして」


「負けた感じで失踪事件にするな」

 と田所。


 透子は友人を見た。

 怒っている。

 呆れてもいる。

 でも、少しだけ泣きそうでもある。


 梨沙は肩を落として言った。


「……ごめんなさい、こういうときどんな顔をしたらいいかわからないの」


 田所は一拍おいてから言った。


「笑えば良いと思うよ。」


 沈黙。


 神崎が、ものすごく気まずそうに笑った。


 梨沙はその顔を見て、怒りながら、それでも少しだけ笑った。


「全然よくないけど、ちょっとだけ今ので腹立つの下がった」

「それはよかった」

 と田所。


 明智院が低く言った。


「最後のピースが見つかったね」


「今回は何です」

 と田所。


「就職だ」

「転職だよ」

 と透子が訂正した。


「だが、人生の局面という意味では」

「そこ広げなくていいです」

 と透子。


         *


 帰り道、梨沙は透子に言った。


「なんかさ」

「何」

「不安で死にそうだったのに、会ってみたら、思ったよりしょうもなかった」

「そういうことはあります」

「でも、しょうもないほうがいいね」

「ええ」

 透子は頷いた。

「人はだいたい、深刻に見える時ほど、少ししょうもないくらいがちょうどいい」


「それ、先生の受け売り?」

 と梨沙。


 透子は少し考えてから言った。


「いいえ。

 それは、たぶん田所さんの領分です」


 田所は少し先を歩きながら、振り返りもせずに言った。


「聞こえてますよ」


 明智院だけが、駅前の赤い看板を見上げていた。


「しかし」

 彼は低く言った。

「赤いものを見ればわかる、はやはり少し言いすぎだ」

「先生がそこをまともに評価するの、珍しいですね」

 と透子。

「うむ。

 赤い彗星の可能性まで検討した私への礼を欠く」

「いや、それは検討しなくてよかったです」

 と透子。


         *


 その夜、明智院金四郎の事件ノートには、こう記されていた。


『消えた恋人の残した言葉』

本件は一見、恋人の失踪と暗号めいた遺言の事件に見える。

しかし実際には、説明不足の退職・転職相談であった。

“たぶん僕は、3人目だから”という言葉は、

恋愛関係の序列ではなく、職場における切られやすい位置を指していた。

また“赤いものを見ればわかる”とは、

赤い看板の職業紹介所を意味していた。

人は切実なことほど、時に無駄に詩的に言う。

その結果、意味が深まるどころか、

だいたいわかりにくくなる。

注意したい。


 それを横から読んだ田所刑事は、しばらく考えてから言った。


「なお、今回いちばん悪いのは、

 転職相談を失踪事件みたいに言った彼氏だと思うんだよなあ……」

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