閑話休題 探偵はなぜ連続殺人を食い止められないのか
その日、明智院探偵事務所には事件がなかった。
事件がないということは、平和である。
平和であるということは、名探偵の出番がないということでもある。
そして、名探偵に出番がない時間ほど、周囲にとって面倒なものはない。
*
「先生」
真柴透子が、本を閉じて言った。
「ひとつ、疑問があります」
明智院金四郎は、窓辺の椅子に腰かけ、雨の降る街を見下ろしていた。
黒い外套は、室内なのに着たままである。
「言ってみたまえ」
「探偵は、なぜ連続殺人を食い止められないのでしょうか」
田所刑事は、事務所のソファで缶コーヒーを飲んでいた。
その手が止まった。
「急に嫌なテーマですね」
透子は真剣だった。
「一人目の殺人が起きた時点で、名探偵は現場にいるわけです。ならば、二人目、三人目は防げてもよいのではないでしょうか」
「それ、読者が昔から思ってるやつですね」
田所が言った。
「名探偵、犯人は当てるけど、だいたい間に合わない問題」
明智院は、ゆっくりと振り返った。
「田所刑事」
「はい」
「名探偵は、未来予知者ではない」
「それはそうですけど」
「我々は、起きた事件から真実を導く。まだ起きていない事件から真実を導くことはできない」
「まあ、理屈としてはわかります」
「つまり」
明智院は、少し間を置いた。
「探偵とは、常に少し遅れて到着する職業なのだ」
「格好よく言いましたけど、被害者からしたら最悪ですよ」
透子は、ノートを開いた。
「では、先生。探偵が連続殺人を防げない理由は、情報が不足しているから、ということでしょうか」
「それもある」
「それも?」
「連続殺人には、いくつかの型がある」
明智院は立ち上がり、事務所のホワイトボードの前に立った。
田所は嫌な顔をした。
「始まった」
明智院は、黒いペンで大きく書いた。
一、閉鎖空間型。
二、見立て型。
三、過去因縁型。
四、順番殺人型。
五、読者都合型。
「最後、書いちゃダメなやつでは?」
田所が言った。
「重要だ」
「重要ですけど、言っちゃダメなやつです」
明智院は構わず続けた。
「閉鎖空間型。孤島、山荘、吹雪のペンション、通信の途絶えた洋館」
「名探偵が好きそうな場所ばっかりですね」
「こうした場では、外部との連絡が取れず、警察も来られない。つまり防犯能力が著しく低下する」
「でも、そこで全員一部屋に集めて寝ずの番をすればいいのでは?」
透子が言った。
田所がうなずいた。
「そうそう。それが普通です」
明智院は首を振った。
「甘い」
「何がですか」
「全員を一部屋に集めると、その中で殺人が起きる」
「嫌な世界ですね」
「あるいは、見張り役が殺される」
「見張りの意味」
「あるいは、全員が寝る」
「寝るな」
「人間は眠る」
「急に生理現象で押すな」
透子は真剣にメモを取っている。
「つまり、閉鎖空間では、合理的な対策を取っても物語がそれを突破してくる」
「透子さん、いま“物語”って言いましたね」
田所が言った。
「はい」
「現実の事件では、物語が突破してきたら困ります」
「ですが田所さん。連続殺人の現場では、現実がすでに物語の顔をしていることがあります」
「先生側に行かないでください」
明智院は満足げにうなずいた。
「次に、見立て型」
ホワイトボードに、童謡、星座、タロット、干支、と書く。
「犯人は、何らかの順番や象徴に従って殺人を行う」
「だったら、次の被害者がわかるんじゃないですか?」
田所が言った。
「それがわからない」
「なぜです」
「見立てには解釈の幅がある」
「便利ですね」
「童謡の何番を採用するのか。星座をどう並べるのか。タロットの正位置か逆位置か。干支を年齢で見るのか、名前で見るのか」
「犯人、自由すぎません?」
「犯人とは、しばしば自由だ」
「自由業みたいに言わないでください」
透子が顔を上げた。
「でも先生、名探偵なら、その解釈の幅を絞れるのでは?」
「絞れる」
「では、なぜ防げないのでしょう」
明智院は静かに言った。
「絞れた時には、だいたい次の被害者が死んでいる」
「遅い」
田所が即座に言った。
「それを防げないって言うんですよ」
「田所刑事」
「はい」
「名探偵は、犯人の論理を理解するために、犯人の完成品を見る必要がある」
「完成品って言わないでください。被害者です」
透子が、少し考え込んだ。
「つまり、一件目だけでは、犯人の文法が見えない」
「そうだ」
「二件目で反復が生まれ、三件目で規則が見える」
「その通り」
「でも三件目までいくと、もうだいぶ遅いですね」
「そこが問題だ」
「先生が言うと他人事ですね」
田所が言った。
*
雨は強くなっていた。
事務所の窓に、水滴がいくつも流れている。
田所は缶コーヒーを置き、腕を組んだ。
「じゃあ、過去因縁型はどうですか」
「過去に何かがあった。復讐。隠された罪。関係者だけが次々と殺される」
「それ、一人目の時点で全員に過去を話してもらえばよくないですか」
「誰も話さない」
「話せ」
「人は、言いたくない過去ほど隠す」
「まあ、それはそうですけど」
「しかも、関係者全員が少しずつ嘘をつく」
「最悪ですね」
「名探偵は、その嘘を一枚ずつ剥がしていく」
「剥がしてる間に人が死ぬんですよ」
明智院は、目を閉じた。
「田所刑事」
「はい」
「秘密は、人を殺す前に、会話を殺す」
「ちょっといいこと言うのやめてください」
透子が小さく息を呑んだ。
「秘密は、人を殺す前に、会話を殺す……」
「書かなくていいです」
「書きました」
「早い」
明智院は続けた。
「順番殺人型も厄介だ」
「名前の順とか、席順とかですか」
「そうだ。五十音順、誕生日順、昔の集合写真の並び順」
「それこそわかりやすそうですけど」
「ところが犯人は、途中で順番を飛ばす」
「ずるい」
「あるいは、順番そのものがミスリード」
「ずるい」
「あるいは、最初から順番などない」
「じゃあ型に入れないでください」
透子が言った。
「先生、では結局、連続殺人を防ぐにはどうすればいいのでしょう」
明智院は沈黙した。
田所は少しだけ期待した。
たぶん、ろくでもない答えが来る。
明智院は、重々しく言った。
「全員を帰らせる」
「身もふたもない」
「あるいは全員を保護する」
「それは正しいです」
「全員の刃物を没収する」
「それも正しい」
「全員を別々の部屋に入れ、警官を一人ずつ配置する」
「それも正しい」
「そして事件は起きない」
「すばらしいじゃないですか」
「だが、それはもうミステリではない」
「それでいいんですよ!」
田所は思わず声を上げた。
「事件が起きないのが一番いいんです!」
明智院は、悲しげに首を振った。
「田所刑事。君は正しい」
「珍しく認めましたね」
「だが、正しさだけでは本棚は埋まらない」
「埋まらなくていいです」
「一人目の殺人のあと、全員を保護し、犯人も捕まり、以後何も起きませんでした。めでたしめでたし」
「最高じゃないですか」
「題名はどうなる」
「題名?」
「『最初の一件と長い事情聴取』」
「売れなさそうですね」
「『孤島に警察がすぐ来た』」
「それはそれで読みたいです」
「『そして誰も死ななかった』」
「名作っぽい」
透子が口元に手を当てた。
「でも先生。読者は、事件を望んでいるのでしょうか」
部屋が少し静かになった。
田所も、すぐには茶化さなかった。
明智院は、窓の外を見たまま答えた。
「読者は、死を望んでいるわけではない」
「では、何を望んでいるのでしょう」
「秩序の回復だ」
明智院の声は、いつもより少し低かった。
「事件によって壊れた世界が、最後にもう一度、意味を持つこと。なぜ起きたのか。誰がやったのか。どうして止められなかったのか。その答えが与えられること」
「……」
「連続殺人とは、秩序が壊れ続ける物語だ。だから名探偵は、壊れる前に止めるのではなく、壊れたあとに意味を取り戻す役割を与えられている」
透子は、静かにうなずいた。
「つまり探偵は、防波堤ではなく、修復者なのですね」
「その通りだ」
「いや、でも」
田所が言った。
「現実では防波堤であってほしいです」
「当然だ」
「当然なんだ」
「現実の警察は、防ぐためにいる。現実の探偵も、本来はそうであるべきだ」
「じゃあ今日の話、全部何だったんですか」
「ミステリの話だ」
「便利な逃げ道ですね」
*
しばらく、三人は黙って雨を見ていた。
事件のない午後。
誰も殺されず、誰も封筒を盗まず、誰も妙な手記を残さない。
平和な時間だった。
もっとも、明智院金四郎にとっては、それだけで少し退屈な時間でもあった。
透子が、ふと顔を上げた。
「先生」
「何かね」
「先生なら、連続殺人を食い止められますか」
田所が思わず明智院を見た。
明智院は、ゆっくりとコートの襟を正した。
「もちろんだ」
「おお」
田所が少しだけ感心しかけた。
「一人目が起きる前に、犯人を見抜く」
「本当ですか」
「なぜなら」
明智院は静かに言った。
「犯人はこの中にいるからだ」
「まだ何も起きてません」
「だが、いる」
「事務所に犯人を発生させないでください」
透子は目を輝かせた。
「先生は、事件が起きる前から、人間の中に潜む犯意を見ておられるのですね」
「そうだ」
「違います」
田所が即座に言った。
「今のはただ、いつもの決め台詞を言いたかっただけです」
明智院は、わずかに目をそらした。
「……少しだけだ」
「少しはあるんですね」
*
その日の明智院金四郎の事件ノートには、事件ではなく、こう記された。
> 『探偵はなぜ連続殺人を食い止められないのか』
>
> 探偵は、未来予知者ではない。
>
> 探偵は、起きた事件から真実を導く。
> まだ起きていない事件から、真実を導くことは難しい。
>
> 一件目は異常である。
> 二件目で反復が生まれる。
> 三件目で規則が見える。
>
> だが、その時にはすでに、
> 事件は連続殺人になっている。
>
> ここに、名探偵の悲劇がある。
>
> 探偵は、防げなかった事件のあとに現れ、
> その意味を回復する。
>
> 現実においては、
> 事件は防がれるべきである。
>
> だが物語においては、
> 事件が起きなければ、探偵は探偵になれない。
>
> 名探偵とは、
> 常に少し遅れて到着する者である。
>
> 注意したい。
それを横から読んだ田所刑事は、しばらく黙ってから言った。
「いや、注意したいのは、
連続殺人が起きる前から決め台詞だけ準備してる名探偵なんだよなあ……」




