第28話 完全な一体はこの中にいる(後編)
翌朝になっても、明智院金四郎の中では、ポチ太はなお首を失ったままだった。
いや、実際に首は失っているのだが、そういう意味ではない。
田所刑事にとっては、首がないぬいぐるみは「首がないぬいぐるみ」でしかなかった。だが明智院にとっては、それはすでに
四体から組み上げられた偽の五体目であり、
完全体ポチ太の不在を示す偽装であり、
そしてどこかに潜む“本物”の存在を指し示す象徴
にまで育っていた。
正直、育ちすぎだった。
手芸室のテーブルには、昨日のまま五つ子わんこが並べられている。
ポチ太、モコ、チロ、ハナ、ペロ。
そして棚の赤いかごには、先生役の完全体コロがいる。
その光景を前にして、田所刑事はまず言った。
「確認します」
「何を」
と明智院。
「現実をです」
「浅い」
「まだ言うか」
館長の増山妙子、小山内真澄、星野里穂、村瀬香苗、結斗、それに明智院と田所。全員がまた手芸室に集められていた。
「まず昨日の時点で、五つ子わんことコロ、全部で六体いた」
と田所。
「はい」
と妙子。
「ずっとそうです」
「で、壊れていたのは?」
「ポチ太だけです」
と小山内が言った。
「最初から首のところが少しゆるんでいて、いずれ修理しなきゃって話してました」
「なるほど」
と田所。
「つまり、“最初に一体だけ壊れていた”」
「そうです」
明智院が、そこで静かに目を閉じた。
「やはりそうか」
「何がです」
と田所。
「犯人は、その“最初に壊れていた一体”を起点として計画を立てたのだ」
「いや、ただ壊れてたってだけでしょう」
と星野が言った。
「そこから“計画”に行くな」
だが明智院は止まらない。
「考えてみたまえ。
一体だけ首が取れている。
それは不均衡だ。
不完全さが、ひとつに集中している状態だ。
もし犯人がそこに目をつけたなら――」
「目をつけたなら?」
と結斗が聞く。
明智院は、ポチ太を持ち上げた。
「この子を“首を失ったままの個体”ではなく、“四体から再構成された偽の五体目”に変えることができる」
「まだ言ってる」
と田所。
「つまり、最初の首なしポチ太こそ、もっとも“化けやすい”のだ」
「首がないからですか」
と村瀬香苗。
「そう」
と明智院はうなずく。
「顔を失えば、個体識別は急激に曖昧になる。
ポチ太である保証は、首輪、胴体、手足、その程度しか残らない」
「そこだけ切り取ると、ちょっとそれっぽいんだよな」
と田所刑事は言った。
「でも、だからといって合成個体説には飛ばないでしょう、普通」
明智院は、聞いていないふりをした。
「問題は、犯人がその不自然な縫合をどう隠したかだ」
「まだ続くのか」
と田所。
「服か、修理途中という偽装か、あるいはアソート差か」
と明智院はぶつぶつ言う。
「同一に見えて完全な同一ではない量産ぬいぐるみの“ゆらぎ”を利用した可能性も――」
「言いたいだけだろ」
と田所。
「少しは」
「認めるんかい」
そこへ、ずっと黙っていた小山内真澄が、おずおずと手を挙げた。
「あの」
「何です?」
と田所。
「もし、仮にですよ」
「はい」
「四体から首なしの一体を作るなら、縫い合わせた跡がどこかに出ます」
「そうでしょうね」
「でもポチ太、そんなに雑な縫合してないです。
ちゃんと同じ工場縫製の線です」
「ほら」
と田所が言った。
「現場の手芸担当がそう言ってる」
明智院は、わずかに眉をひそめた。
「だが、もし犯人が極めて高度な裁縫技術を」
「児童館の事件で“極めて高度な裁縫技術を持つ犯人”とか言い出すな」
と田所が止めた。
「スケールだけは大きいんだよ、毎回」
妙子が、首のないポチ太を見つめながら言った。
「結局、何が知りたいんです?」
「完全体ポチ太の所在だ」
と明智院は言った。
「だから棚のコロが」
「違う」
と明智院はきっぱり言った。
「コロはコロだ。
先生役であり、完全体ではあっても、ポチ太ではない」
「そのこだわり何なんですか」
と星野。
「物語だよ」
と明智院は言った。
「完全体のポチ太がどこかに隠されている。
それを犯人が持ち去った理由が、まだ残っている」
「その“理由”を考えるのが好きなだけでしょう」
と田所。
「かなり」
と明智院は認めた。
そこで結斗が、ぽつりと言った。
「ぼく、理由ならあるよ」
全員が結斗を見る。
「何?」
と田所。
「ポチ太だけかわいそうだったから」
「……」
「……」
「……」
長い沈黙。
明智院だけが、まだ踏みとどまっていた。
「それは、昨日も聞いた」
「うん」
と結斗。
「でも、もっとちゃんと言うとね、ポチ太だけ首がないと、ずっとポチ太だけ病人みたいでしょ」
「病人」
と妙子が小さく言った。
「だから、モコも、チロも、ハナも、ペロも、ちょっとずつ病人にした」
「病人にした、って言い方はどうなんだ」
と田所。
「そうしたら、みんなで病院いけるじゃん」
と結斗。
「ポチ太だけひとりだと、かわいそうだから」
小山内真澄が、目を閉じた。
「公平にしたのか」
「うん」
と結斗。
「いっこだけかわいそうは、やだから」
明智院が、そこで低く言った。
「……だが」
「まだ何かあるんですか」
と田所。
「結斗君。
君は最初から、ポチ太だけが壊れていたことを知っていた」
「うん」
「そのうえで、他の四体にも欠損を与えた」
「うん」
「そして完全体コロは、先生役として棚に残した」
「うん」
明智院は一拍置いた。
「では、なぜコロだけ完全体のままだった?」
田所刑事が天を仰いだ。
「そこ行くんだ」
「当然だ」
と明智院。
「犯人は、なぜ五つ子全体を不完全にせず、一体だけ完全体を残したのか。
そこにこそ、心理の深層が」
「先生役だからだろ」
と田所。
「昨日からそう言ってますよ」
「それでは浅い」
「もういいって、その“浅い”」
結斗は少し考えてから、真面目な顔で言った。
「先生がいないと、病院ごっこにならないから」
沈黙。
「……はい」
と田所。
「理由、出ましたね」
「でも」
と明智院。
「それでは、ポチ太を偽の五体目にする必要が」
「最初からそんな必要はないんです」
と田所は言った。
「必要なのは、あなたが話を大きくしないことです」
村瀬香苗が、小さく笑った。
「でも、ちょっとだけわかるかも」
「何がです?」
と妙子が聞く。
「金四郎さんが言う“完全な一体”の話」
と香苗は言った。
「ポチ太だけ壊れてると、たしかにそこだけ話が終わっちゃうものね。
でもみんなちょっとずつ壊れてると、“五人で病院”になる」
明智院が、ぴくりと反応した。
「ほう」
「いや、変なところで元気になるな」
と田所。
「つまり」
と明智院は静かに言った。
「結斗君は、首を失った一体を“孤立した被害者”のままにしなかった。
不幸を分配することで、物語を“単独の悲劇”から“集団の出来事”へ変えたのだ」
「言い方」
と星野が言った。
「でもちょっといいこと言ってる感じになるのやめてほしい」
結斗は首を傾げる。
「それって、いいこと?」
「いや」
と田所が言った。
「ぬいぐるみとしては普通によくないです」
「かなりよくない」
と妙子。
「でも、気持ちはわかるのが困る」
と小山内。
田所は五つ子わんことコロを見回した。
「つまり真相はこうですね。
最初から首が取れかけていたポチ太がいた。
結斗君はそれを“ひとりだけかわいそう”だと思った。
だからモコ、チロ、ハナ、ペロにも、それぞれ少しずつ欠損を与えた。
コロは先生役としてそのまま残した。
以上」
「以上です」
と結斗は素直にうなずいた。
長い沈黙。
明智院だけが、まだ何か言いたそうだった。
やがて、彼は静かにポチ太をテーブルへ戻した。
「……なるほど」
「今度のはまあ、いい“なるほど”かな」
と田所刑事が言った。
「私が見ていた“完全体の潜伏”は、文字通りには誤りだった」
と明智院は言った。
「ほら」
「だが」
と明智院は続ける。
「結斗君は、別の意味で“完全な一体”を隠そうとしたのかもしれない」
「何?」
と星野。
「ポチ太だけが特別に壊れている、という事実だ」
と明智院。
「一体だけが首を失っている。
その不均衡に、彼は耐えられなかった。
だから他の子たちにも少しずつ欠損を与え、“一体だけが特別に不幸”である状態を消した」
小山内が、静かにうなずいた。
「……それは、そうかも」
「首のないポチ太は最初からいた」
と明智院は言った。
「だが結斗君は、その“ただ一体だけが壊れている”という完全な事実を、受け入れられなかった。
だから、世界のほうを均したのだ」
結斗は、ぽつりと言った。
「だって、ひとりだけかわいそうは、やだもん」
妙子が、小さく息を吐いた。
「そうね」
「でも壊しちゃだめです」
と田所。
「それはそう」
と妙子。
明智院は外套の襟を直した。
「犯人は、この中にいた」
「今回はほんとにそうでしたね」
と田所。
「しかも本人が最初からかなり素直だった」
「だが私は」
と明智院は言った。
「四体を五体に見せる古風な分解偽装を疑い、首なしのポチ太を合成された第五体と考えた。
つまり、現実より先に“美しい構図”を見てしまったわけだ」
「珍しく反省してますね」
と星野。
「少しは」
と明智院は認めた。
「だが、無意味ではなかった」
「何がです?」
と田所。
明智院は、五つ子わんことコロを見渡した。
「人はときに、一体だけが壊れている現実に耐えられず、
それを全体の問題へ作り替える。
事件とは呼べないような小さな出来事にも、そういう心理はある」
「今日はだいぶちゃんとしてるな」
と田所刑事が言った。
「ただし」
と明智院は続ける。
「だからといって、完全体ポチ太がどこかに潜伏している可能性を、私はまだ完全には捨てていない」
「捨てろよ」
と田所。
「棚のコロでいいだろ」
「コロはコロだ」
「そこだけ妙に筋を通すな」
結斗が、小さく手を挙げた。
「ポチ太の首、見つかったよ」
また、沈黙。
「……どこに」
と田所。
結斗は、裁縫箱の横の小さなかごを指さした。
その中に、犬のぬいぐるみの首がひとつ、ちょこんと入っていた。黒いボタンの鼻と、つぶらな目が、妙にのんきな顔でこちらを向いている。
「最初からそこにあったのか」
と妙子。
「うん」
と結斗。
「なくしたらかわいそうだから、しまっといた」
長い沈黙。
明智院だけが、目を閉じていた。
やがて静かに言う。
「……そうか」
「何が“そうか”なんです?」
と田所刑事が聞いた。
「完全体ポチ太は、潜伏していなかった。
首だけが分離され、しかし大切に保管されていたのだ」
「まあ、そうですね」
「つまり私は、“隠された完全体”を追うあまり、“保存された欠損”を見落としていた」
「ちょっとだけうまいこと言うな」
と田所。
その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記された。
>『完全な一体はこの中にいる』
>犯人はこの中にいた。
>私は、欠損の分配にあまりに整いすぎた美を見て、
>四体を五体に見せる偽装を疑った。
>だが真相はもっと小さく、もっと素朴だった。
>一体だけがかわいそうであることに耐えられず、
>すべてに少しずつ不幸を分け与えたのである。
>そして首は、失われていたのではなく、
>ただ別のかごにしまわれていただけだった。
>完全な一体を探していたのは、結局、私だけだったのかもしれない。
それを横から読んだ田所刑事は、静かに言った。
「今回はほんとに、“古典的な分解偽装をやりたかった探偵が、首の入ったかごを見落としてただけ”だったな……」




