第26話 苺はこの中にいる!
その日、明智院金四郎は、本気で怒っていた。
ただし殺人事件ではない。
盗難事件でも、たぶんない。
もっと深刻で、もっと個人的で、もっとどうでもよい出来事である。
「先生」
真柴透子が静かに言った。
「落ち着いてください」
「落ち着いていられるか」
明智院は低く言った。
「これは許しがたい」
「何がです」
田所刑事が、半ばうんざりした顔で聞いた。
明智院は机の上を、ゆっくりと指さした。
そこには、白い小皿があった。
銀紙の上に、食べかけのショートケーキがひとつ。
正確には、“いちごだけが失われたショートケーキ”がひとつ。
スポンジはある。
生クリームもある。
側面の削れた跡から見て、フォークを入れた形跡はない。
だが頂点に乗っていたはずの赤い苺だけが、きれいに消えていた。
沈黙。
「……」
「……」
「……」
田所が先に口を開いた。
「いや、しょうもな」
明智院は、ゆっくりと振り向いた。
「田所君」
「はい」
「君はいま、“しょうもない”と言ったか」
「言いました」
「これはケーキではない」
「いやケーキですよ」
「これは、秩序だ」
「急に重くするな」
透子は、失われた苺の痕跡を見つめながら、小さく息を呑んだ。
「……さすが先生です」
「何がです」
田所が言った。
「先生は、“苺だけが消えた”ことを単なる食い意地の問題ではなく、
ショートケーキという完成された形式に対する、きわめて象徴的な破壊行為として見ておられるのですね」
「その通りだ」
明智院が言った。
「ショートケーキから苺を奪うとは、王冠を剥ぐに等しい」
「だいぶ話が大きいな」
と田所。
「ですがわかります。すごくわかります」
透子は本気だった。
「いや、この人も今日はだいぶ危ないな」
*
事件の発端は、昼下がりだった。
明智院が珍しく自分で買ってきたケーキを、机の端に置いていたのである。
彼はそれを、紅茶のあとで静かに食べるつもりだったらしい。
「珍しいですね」
と透子が言った。
「先生がご自分で甘いものを選ばれるなんて」
「今日は少し、そういう気分だった」
「どういう気分だ」
と田所。
だが、その“そういう気分”は、一件の電話で中断された。
近所の時計店の主人が、なぜか「店の前に猫が二匹いて困る」と相談してきたのである。
もちろん事件ではない。
もちろん田所は「行く必要ないだろ」と言った。
だが明智院は、
「猫が二匹というのは意味深だ」
などと意味のないことを言って十五分ほど外へ出た。
そして戻ってきた時には、苺がなかった。
「つまり」
田所が言う。
「先生が席を外したのは十五分」
「うむ」
「その間、この事務所にいたのは」
「私と、田所さんと、ちょうど書類を届けに来た古書店の店主」
透子が答える。
「それから、隣の部屋の管理人さんが一度、湯沸かし器の確認で」
「ほう」
と明智院。
「容疑者は四名か」
「いや違うだろ」
と田所。
「ケーキの苺一個で容疑者って何だ」
「先生」
透子が言った。
「私は、本件を十分に事件として扱う価値があると思います」
「どこに!?」
と田所。
「ショートケーキの苺だけを奪う、という行為には、明確な意思があるからです」
透子は静かに言った。
「食べるだけならケーキごとでいい。
それでもなお苺だけを選んだ。
つまり犯人は、単なる空腹ではなく、“苺だけを取る”意味を知っていた」
「さすが透子君だ」
明智院が言った。
「そこだよ」
「いや、そこかなあ」
と田所。
*
明智院は、机の前に立った。
そこには、
苺なきショートケーキ。
銀紙。
フォーク。
紅茶のカップ。
そして、どこか侮辱されたような空気があった。
「見たまえ」
と明智院。
「スポンジには崩れがない」
「はい」
透子がうなずく。
「生クリームの表面も、苺があった頂点を除けば乱れていません」
「つまり」
明智院が低く言う。
「犯人は、ただ奪ったのではない。
慎重に、狙って、苺だけを摘出したのだ」
「摘出って」
と田所。
「手術じゃないんだから」
「先生」
透子が目を輝かせた。
「これは、犯人が“いちばん大事な部分だけを抜き取ること”に美学を感じるタイプである可能性が」
「その通りだ」
明智院が言った。
「犯人は、この中にいる!!」
「また始まった」
と田所。
「いや、普通に考えれば」
田所は腕を組んだ。
「一番怪しいのは透子さんでしょう」
「はい?」
と透子。
「甘いもの好きそうだし」
「そんな雑な決め方あります?」
「あと先生の話を一番真面目に聞いてるから、苺の重要性も理解してそうだ」
「なるほど」
と明智院。
「たしかに」
「先生まで乗るんですか」
透子はわずかに息をつき、しかしすぐに立て直した。
「田所さん」
「何です」
「私は苺を愛しています」
「はい」
「だからこそ、他人のショートケーキの頂点だけを奪うような下品な真似はいたしません」
「言い方が強いな」
「では管理人さんか、古書店の店主か、田所さんです」
「おい」
と田所。
「急に容疑者の輪を狭めるな」
明智院は満足げに頷いた。
「よい」
「何がです」
「疑いが巡っている」
「しょぼい巡りだなあ」
*
そこへ、ちょうど古書店の店主・村越が戻ってきた。
忘れ物の伝票を取りに来たのである。
「すみません、さっきは急いでて」
「ああ、ちょうどいい」
と明智院が言った。
「犯人は、この中にいる!!」
「えっ」
と村越。
「何の話です?」
「苺だ」
「えっ」
「先生」
透子が言った。
「いきなり核心から入ると、かえって相手が混乱します」
「だが犯人に混乱はつきものだ」
「今混乱してるの、犯人かどうかもわからない古書店主ですよ」
村越は事情を聞くなり、心底どうでもよさそうな顔をした。
「いや、私は食べてませんよ」
「食べてない証拠は?」
と明智院。
「ないですけど、普通そこまで求めます?」
「本件は苺だぞ」
「重さがわからない」
「先生」
透子が静かに口を挟む。
「村越さんは先ほど、両手に本の束を抱えていらっしゃいました」
「うむ」
「つまり、ケーキの頂点だけを崩さず摘出するには不向きです」
「なるほど」
明智院は頷く。
「では村越氏は消える」
「消えるって言うな」
次に管理人の木島が呼ばれた。
彼もまた、どうでもよさそうな顔をしていた。
「いや、私は湯沸かし器見ただけで」
「机の上は?」
透子が聞く。
「見ました。ケーキがあるなとは思いました」
「苺も?」
「たぶん乗ってたと思います」
「たぶん?」
「そんな細かくは見てないですよ」
「先生」
透子が小さく呟いた。
「ここ、少し引っかかります」
「おや」
「管理人さんがケーキを見た時点で、苺の有無まで意識していない。
つまり“あとで苺がなくなった”という記憶の基準にはなりえない」
「なるほど」
明智院が言う。
「つまり木島氏は、事件の輪郭を補強しない」
「いや、苺一個の有無で“事件の輪郭”って」
と田所。
木島は結局、何も知らないまま帰された。
*
残ったのは三人。
明智院。
透子。
田所。
「見たまえ」
明智院が言った。
「いよいよ濃くなってきた」
「何がです」
「苺の霧がだ」
「霧で済む問題かなあ」
透子は、ケーキの皿をじっと見ていた。
「先生」
「何だね」
「一点、確認してよろしいでしょうか」
「うむ」
「先生は、このショートケーキを“苺が乗った状態”で確かに認識しておられましたか」
沈黙。
田所が顔を上げる。
「……お」
「もちろんだ」
と明智院。
「ショートケーキとは苺が乗っているものだ」
「それは概念です」
と透子。
「概念?」
「はい。
実際に“見た”のか、
それとも“ショートケーキだから苺があるはずだ”と思ったのか」
「……」
明智院は少し黙った。
田所が、ゆっくりと嫌な笑いを浮かべる。
「先生」
「何だ」
「見てないんじゃないですか」
「そんなことはない」
「いや、今ちょっと怪しかったぞ」
「先生」
透子は静かに続けた。
「先生が外出されたのは、買ってきてすぐ、電話で呼ばれた直後です。
その時、箱から出して皿に移されたのは私です」
「うむ」
「先生は、その時ちょうど時計店へ出る支度をしておられました」
「……うむ」
「つまり先生は、“ショートケーキが机にある”ことは見ていた。
でも“苺があった”こと自体は、確認していない可能性があります」
「おいおい」
田所が言った。
「まさか最初から乗ってなかったのか?」
透子は小さく首を振った。
「いいえ。そこまではまだ言いません」
「じゃあ何だ」
「箱です」
「箱?」
「はい。
ケーキの箱の中に、もう一つ小さな紙片が残っていました。私は先ほどから少し気になっていたんです」
透子はごみ箱の横から、小さな値札のような紙を拾った。
そこには、こう印字されていた。
ショートケーキ(いちご別添)
沈黙。
「……別添?」
田所が言った。
「つまり」
透子は言った。
「このケーキは元々、苺が上に固定されていなかった」
「えっ」
と明智院。
「おそらく、先生が買われた店では、持ち運びで崩れないよう、苺を別の小さなカップか袋に分けて入れていた」
「そんな……」
「その別添の苺を」
透子は静かに言った。
「先生が、箱の中から出し忘れたのではないでしょうか」
長い沈黙が落ちた。
田所が、ゆっくり聞いた。
「じゃあ……盗まれてない?」
「現時点ではその可能性が高いです」
透子が答える。
明智院は、しばらく机の上のケーキを見つめていた。
そして、絞り出すように言った。
「……だが」
「はい」
「だが、苺がないことに変わりはない」
「そうですね」
「つまり、苺はどこかにいる」
「その言い方はやめろ」
と田所。
その時だった。
透子が、はっと目を見開いた。
「先生」
「何だね」
「先生のコートのポケット、少し赤くないですか」
明智院がゆっくり自分のコートを見下ろす。
左のポケット口に、うっすら赤いしみがついていた。
「……」
田所が口元を押さえる。
「うわあ」
「先生」
透子が静かに言った。
「もしかすると、別添の苺をポケットに入れたまま、忘れておられたのでは」
「そんなことは」
と明智院が言いかけたが、手はすでにポケットへ入っていた。
次の瞬間、彼は、ぐしゃっと潰れた小さな苺の残骸を取り出した。
沈黙。
「……」
「……」
「……」
田所が、顔を伏せた。
「最悪だ」
透子は、少しだけ目を伏せた。
「先生」
「何だ」
「本件、犯人は先生です」
「待ちたまえ」
明智院が言った。
「それは違う」
「何が違うんです」
と田所。
「先生が別添苺をポケットに入れたまま忘れて、戻ってきたらケーキに苺がないから激怒してただけでしょう」
「そうではない」
明智院は低く言った。
「私は……」
「はい」
「私は、ショートケーキとは苺が乗っているものだと信じていた」
「はい」
「だから、その信念が私に“盗まれた”と思わせた」
「お」
と透子が言った。
「そこ、ちょっと先生らしいな」
と田所。
透子は、しみじみと頷いた。
「さすが先生です」
「何がです」
田所が言う。
「先生は最後まで、苺の不在を単なる紛失で終わらせず、
“形式に対する信頼が崩れた時、人はいかに容易く事件を捏造してしまうか”という地点まで」
「いや、そこまでは」
と田所が言いかける。
「……ま、まあそういうことかな」
と明智院。
「結局乗るんだよなあ」
透子は本気で目を輝かせていた。
「ショートケーキは苺が乗っていて当然。
その当然が裏切られた瞬間、先生はそこに犯意を見た。
つまり本件の本質は、窃盗ではなく、期待の崩壊だったのですね」
「すごいな」
田所が言った。
「先生のうっかりを、ここまで立派な思想にできるんだ」
「先生の核は、いつも強いので」
「いや、今回の核ただのポケットの苺だよ」
明智院は、潰れた苺を見つめながら静かに言った。
「最後のピースが見つかったね」
「今回は何です」
と田所。
「私だ」
「やかましいわ」
その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記されていた。
>『苺はこの中にいる!』
>ショートケーキから苺が消えた時、
>私はそこに犯意を見た。
>だが実際には、犯人は私であり、
>苺は私のコートの中にいた。
>事件とは、ときに他者の悪意ではなく、
>形式への信頼と、自身のうっかりが結託して生まれる。
>ショートケーキとは、苺が乗っていてこそショートケーキである。
>だがその信念の強さが、
>時に人を名探偵ではなく、ただの勘違いした男へと変える。
>注意したい。
それを横から読んだ田所刑事は、しばらくしてから言った。
「“注意したい”じゃないんだよな。
たぶん今回いちばん注意すべきなのは、苺をポケットに入れたことを忘れる先生自身なんだよなあ……」




