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第25話 夜行バスはこの中にいる!

 夜行バスという乗り物には、最初から少しだけ悪意がある。


 座席は狭い。

 空調は誰かにだけ寒い。

 眠ろうとすると、隣の人間が動く。

 やっと眠れそうになるとサービスエリアに着く。


 つまり、人間が人間を少しずつ嫌いになるよう設計されている。


 その夜の便もまた、例外ではなかった。


「惜しい」

 と、明智院金四郎は言った。


「何がです」

 と田所刑事。


「列車であればなおよかった」

「まだ言うか」

「夜を走る閉ざされた移動空間。限られた乗客。逃げ場のない運命共同体。ここまで揃っていて、レールがないのが惜しい」

「先生は今、“オリエント急行的気分”に入っておられるのだと思います」

 と真柴透子が静かに言った。

「わかります。すごくわかります」

「なんでそんなにわかるんだよ」

 と田所。


 バスは深夜の高速道路を走っていた。

 車内は消灯後で、青白い足元灯だけが通路をぼんやり浮かび上がらせている。乗客たちは毛布にくるまり、眠ったふりをしながら眠れない顔をしていた。


 その中に、ひとりだけ、堂々と全方位から嫌われている男がいた。


 五十代半ば。

 派手なシャツ。安っぽい革ジャン。酒の匂い。

 三列目右側の通路席で、脚をやや投げ出し、声だけは一人前に広い。


 乗車してから一時間ほどのあいだに、彼はすでに、


 隣席の若者と肘掛けをめぐって揉め、

 後方の女性客に座席の倒し方で絡み、

 乗務員に「毛布が薄い」「充電口がゆるい」「Wi-Fiが遅い」と文句を言い、

 サービスエリアでは売店の店員にまで威張っていた。


「どうしようもねえな」

 田所が小声で言った。


「見たまえ」

 明智院は目を細めた。

「全方位に敵を作る男だ」

「ええ」

 透子も小さく頷く。

「しかも、嫌われ方に無駄がありません」

「褒めてないだろ」

 と田所。


 明智院は窓の外の闇を見ながら、低く言った。


「来るかもしれぬ」


「何がです」


「事件だよ」


「来るな」

 と田所が言った。


         *


 最初の異変は、二度目のサービスエリア休憩で起きた。


 午前一時四十分。乗客たちは眠気と寒気を引きずりながら、売店とトイレと自販機のあいだをふらふら歩いていた。


 件の男――後で須賀原とわかるその男は、売店で缶ビールを買おうとして断られ、店員に食ってかかっていた。


「夜行バスなんだから一本くらいいいだろうが!」

「申し訳ありません、アルコール販売は終了しておりまして」

「融通の利かねえ店だな!」


 その直後だった。


 ぺちん。


 乾いた、しかしひどく気の抜けた音がした。


 須賀原が振り向く。


「……何だ?」


 だが、そこには誰もいない。

 いや、正確には全員いる。いるが、全員がそれぞれ別の方向を向いていた。


 足元には、片方だけの便所スリッパが落ちていた。


 沈黙。


「……」


「……」


「……」


 田所が目を閉じた。


「最悪だ」


「便所スリッパ……!」

 明智院が低く言った。


「そこに感心するな」


 須賀原は辺りを見回し、

「ふざけてんのか!?」

と怒鳴ったが、証拠は便所スリッパだけである。結局、乗務員に宥められ、ぶつぶつ言いながらバスへ戻った。


 透子が小さく息をつく。


「先生」

「何だね」

「今の一件、どうご覧になりますか」

「敵意の可視化だ」

 明智院は言った。

「車内に沈んでいたものが、一度だけ形を持った」

「さすが先生です」

 透子が言った。

「先生は最初から、“偶発的な悪ふざけ”ではなく、“車内全体に分散した敵意がついに物質化した瞬間”として」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「一発の便所スリッパでそこまで行くのか」

 と田所。


         *


 だがその夜、便所スリッパは一度では終わらなかった。


 それは後になってわかることである。


 事件が起きたのは、午前四時少し前だった。


 後方から小さな悲鳴が上がり、車内灯が点く。

 乗務員が三列目へ駆け寄る。


「お客様!」


 須賀原が、ぐったりしていた。


 座席に深く沈み込み、口は半開き、顔色は悪い。呼びかけても返事がない。毛布は半分床に落ち、シャツの襟元は乱れ、右頬に細い赤い筋、左頬にはやや浅い赤み、額には丸っこい打痕が残っていた。


「死んだ?」

 と、誰かが呟いた。


「待て」

 田所が立ち上がる。

「まだわからん」


 その瞬間、明智院金四郎もまた、ゆっくりと立ち上がった。


 青白い灯りの中、黒いコートの影が通路に落ちる。


「来たか」


「だから来るな」

 と田所。


 明智院は、車内をゆっくり見回した。


 若者。

 後ろの女性。

 眠そうな中年男。

 少し怯えた乗務員。

 何でもない顔をして目を逸らす乗客たち。


「見たまえ」

 明智院は低く言った。

「閉ざされた夜の車内。

 全員に小さな動機。

 被害者は意識を失い、顔には複数の痕。

 だが決定的な犯行機会は誰にも見えない」


 そこで彼は、息を吸った。


「犯人は、この中にいる!!」


 車内がざわついた。


「そりゃ、まあ……」

「ここにいるだろうけど」

「え、誰なの」


 だが明智院はもう、たった一人の見えない犯人を見ている目になっていた。


「犯人は、諸君全員の敵意を煙幕にしたのだ」

 彼は言った。

「この車内では誰もが須賀原氏を嫌っていた。だから少々の悪意は目立たない。

 その中に、たった一つの静かな本当の加害が紛れ込んだ。

 犯人は、全員に嫌われる男を利用したのだよ」


「お」

 と田所が言った。

「今日はだいぶ、それっぽいな」


 透子は目を見開き、息を呑んだ。


「……さすが先生です」

「何がです」

 と田所。


「先生は最初から、“全員に動機がある”という状況そのものが、たった一人の犯人にとって最高の擬装になると見ておられたのですね」

「その通りだ」

 明智院は言った。

「つまりこれは、集団的敵意に見せかけた、きわめて孤独な犯行」

「……ま、まあそういうことかな」

「そこ、もうちょっと迷えよ」

 と田所。


         *


 須賀原は死んではいなかった。


 救急車を待つあいだに、乗務員が脈を確認し、「呼吸あります!」と叫んだことで、車内の空気はいったん戻った。


 しかし、そこで生まれたのは安堵だけではなかった。


 妙な沈黙である。


 誰も大きく喋らない。

 しかも全員、どこか、自分は関係ないと強調したがっている顔をしていた。


「話を聞きます」

 透子が静かに言った。


 まず、隣席の若者。


「いや、俺、何もしてません。

 休憩のあと席戻って、すぐ寝てたし」


 後ろの女性。


「私は一度注意しただけです。

 消灯後は前の席になんて近づいてません」


 前方席の中年男。


「通路には一回も出てないよ。

 ずっと目を閉じてた」


 別の若い女。


「トイレにも行ってません。

 あの人の近くにも行ってないです」


 乗務員。


「私は必要な注意をしただけです。

 個人的接触はありません」


 田所は腕を組んだ。


「なるほどな」


「何がです」

 と透子。


「全員、微妙に守りに入ってる」


 透子も頷いた。


「はい。しかも、守っている地点が違います」


「地点?」

 と明智院。


 透子はすでにメモを取り始めていた。


「若者は“休憩後すぐ寝た”を強調している。

 後方の女性は“前方には行っていない”。

 中年男性は“通路に出ていない”。

 若い女は“トイレに行っていない”。

 乗務員は“個人的接触はない”。」


「だから?」

 と田所。


「もし一人の犯人をかばっているなら」

 透子は静かに言った。

「証言はもっと一つの穴を塞ぐ方向へ揃います」


 車内がしんとする。


「たとえば、“あの時間、彼は席にいた”とか、“ずっと一緒にいた”とか」

 田所が言う。

「そうです」

 透子は頷く。

「でも今回は違う。皆が、それぞれ違う“小さな動き”だけを隠している」


 明智院が、ゆっくり透子を見る。


「……待てよ」


「はい」

 透子の目が輝く。

「先生もそうお考えでしたか」


「いや今、だいぶ君が開いた」


「素直だな」

 と田所。


 だが透子は本気だった。


「さすが先生です」

「えっ」

「先生は最初に“たった一人の見えない犯人”を立てることで、逆に証言のズレ方そのものを浮かび上がらせたのですね」

「……ま、まあそういうことかな」

「乗るのかよ」

 と田所。


         *


「つまり」

 透子は言った。

「皆さんは、誰か一人をかばっているのではありません」


 誰も動かなかった。


「自分の分だけを隠しているんです」


 その瞬間だった。


 後方の女性が、顔を伏せたまま言った。


「……私は、一回だけ叩きました」


 沈黙。


「何で」

 と田所。


「うるさくて」

 女は言った。

「休憩の時、トイレの前で……便所スリッパで、後頭部をぺちんって」


 若者が目を逸らした。


「俺も」

「おまえもか」

 と田所。


「売店のあと、戻る時に通路で一発だけ」

「便所スリッパ?」

「はい」


「私もです」

 と中年男が続いた。

「休憩所の自販機の横で、頬を」

「何でみんなそんな自然に便所スリッパを武器化するんだ」

 と田所。


 さらに、別の乗客が言う。


「毛布をわざと落としたのは私です」

「ペットボトルを手の届きにくいほうへずらしたのは私」

「薬っぽいのを落としたの見たけど、教えなかった」

「座席を戻された時に、かなり強く押し返しました」


 ぽつ、ぽつと、小さな白状が落ちていく。


 明智院は、その中央でしばらく黙っていた。


 やがて、静かに目を閉じる。


「そうか」


 誰も喋らない。


 そして彼は、ゆっくりと顔を上げた。


「犯人は、この中にいる!!」


 誰も否定しなかった。


「いや――」

 明智院は通路の中央で、青白い灯りの下、ゆっくりと全員を見回した。

「この中の全員だ」


 車内に、長い息が流れた。


         *


 だが、まだそれで終わりではなかった。


「待ってください」

 田所が言った。

「全員が一発ずつしばいたとか、毛布を落としたとか、それはわかった。

 でも、それで人が気絶するか?」


 透子は、救急隊から伝えられた情報を見直した。


「アルコールの匂い。

 常備薬の服用跡。

 脱水。

 それから額の打痕……」


「打痕?」

 と若者が言った。


「休憩所で転んでたんだよ、あの人」

 と別の乗客が小さく言った。

「売店の横で、足もつれて」

「先に言えよ」

 と田所。


「いや、でも、すぐ立ったし」

「それに、自分もスリッパのこと隠してたから……」

「私も……」

「私もです」


 透子が、ゆっくり息を吐く。


「なるほど。

 直接の原因は、本人の体調管理の悪さと転倒ですね。

 その上に、皆さんの小さな加害が重なった」


「つまり」

 田所が言う。

「誰も一人では倒してない。

 でも誰も助ける側にも回ってない」

「はい」

 透子が頷いた。


 明智院が低く言った。


「オリエント急行だ」


「便所スリッパが飛び交うオリエント急行はだいぶ嫌ですよ」

 と田所。


「だが本質は近い」

 明智院。

「全員が、それぞれわずかに罪を持つ。

 しかもその罪を互いに隠すことで、たった一人の名人芸のような犯行像が立ち上がる」

「そこなんですよね」

 透子が静かに言った。

「全員がちょっとずつ嘘をついた結果、“誰にも犯行できない”という、単独犯の完全犯罪みたいな輪郭が出来上がった」


 田所が頷いた。


「なるほど。

 誰か一人を守ってるわけじゃない。

 みんな、自分の一撃だけを隠したかった。

 でも全員がそうしたせいで、逆に“見えない一人の犯人”ができてしまった」


「さすが先生です」

 透子が言った。


「いや今のは俺だろ」

 と田所。


「ですが先生は最初から、そうした“見えない一人”の輪郭を本能的に組み立てておられた」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「今日はそれで押し切る気だな」

 と田所。


         *


 やがてバスは、朝のターミナルに着いた。


 乗客たちは誰も大きく騒がなかった。

 ただ、少しずつ気まずい顔で荷物を持ち、少しずつ目を合わせずに降りていく。


 自分のやったことは一発だけ。

 毛布をずらしただけ。

 水を遠ざけただけ。

 薬を拾わなかっただけ。


 けれど、それが“だけ”で済まなかったかもしれない夜だった。


 明智院は最後に通路の中央で立ち止まり、振り返った。


「最後のピースが見つかったね」

「今回は何です」

 と田所。


「アリバイだ」


「アリバイ?」

 透子が聞き返す。


「そう」

 明智院は言った。

「彼ら全員に、アリバイがあった。

 だがそれは“犯人ではない証明”ではなかった。

 “自分の一撃だけは見られていない”という、小さな自己弁護の集積だったのだ」


 透子が、はっと息を呑む。


「……さすが先生です」

「またか」

 と田所。


「つまり先生は、“アリバイとは不在の証明ではなく、しばしば良心の言い訳である”と」

「その通りだ」

 明智院は頷く。

「そしてその言い訳が集まると、時に一人の幻の犯人が生まれる」

「今回はちゃんといいな」

 田所が言った。

「珍しく」


「惜しい」

 明智院は言った。

「何がです」

「列車であれば、もう少し格調があった」

「まだ言うのか」


 透子は、小さく微笑んだ。


「ですが先生」

「何だね」

「私は今回、とても先生らしいと思いました」

「おや」

「先生は最初から、一人の犯人を見ようとなさった。

 ですがその一人は、結局、皆の小さな嘘が作った影でした」

「うむ」

「つまり先生は、“犯人像それ自体が、証言の偏りによって人工的に立ち上がることがある”と」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「だいぶきれいにしてもらったな」

 と田所。


 朝の光はまだ白く、ターミナルのコンクリートを平たく照らしていた。


 夜のあいだ車内に沈殿していた敵意は、朝になると急にみっともない。

 だがみっともないからこそ、人間らしかった。


 その夜――いや、もう朝だったが――明智院金四郎の事件ノートには、こう記されていた。


>『夜行バスはこの中にいる!』

>閉ざされた夜の車内において、

>一人の不愉快な男が全方位に小さな敵意を生んだ。

>その結果、便所スリッパ、毛布、ペットボトル、座席、沈黙が、

>それぞれ独立した一撃として男へ加えられた。

>誰も決定打を持たず、

>しかし誰も無罪ではない。

>しかも全員が、自らの“一回だけ”を隠すために嘘をついた。

>その嘘の集積が、

>あたかも一人の犯人による完全犯罪のような美しい輪郭を生んだのである。

>アリバイとは、ときに不在の証明ではない。

>良心の自己弁護である。

>なお、列車であれば、もう少し格調があったと思う。


 それを横から読んだ田所刑事は、少し笑ってから言った。


「“格調”の前にまず便所スリッパを複数人が自然に使ったことを全員反省すべきだし、

 今回は“全員が犯人”というより、“全員が自分の一発だけ隠した結果、一人の幻の犯人が生まれた”ってのが正確なんだよなあ……」

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