表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/32

第24話 赤のコード、青のコード

 雨は、街を撃っていた。


 しとしと、ではない。

 ばちばち、と。

 まるで空のどこかで、誰かが古びたタイプライターを叩いているみたいに、細かく、絶え間なく、濡れた夜を刻んでいた。


 その夜の明智院金四郎は、珍しく黙っていた。


 事務所の照明は半分落ちている。

 古いソファ。

 冷めかけたコーヒー。

 窓ガラスににじむ街のネオン。

 いかにも、誰かが一人で煙草でもふかしながら、人生のどこで何を間違えたのか考えていそうな夜だった。


 もっとも、この事務所で煙草を吸う人間は誰もいない。

 雰囲気だけである。


「今日はずいぶん静かですね」

 田所刑事が言った。


「ハードボイルドだからね」

 明智院は低く答えた。


「意味がわからない」


「先生は本日、ご自身の中で“寡黙な私立探偵モード”に入っていらっしゃるのだと思います」

 と真柴透子が言った。


「さすが透子君だ」

「わかるのか」

 と田所。


「はい。

 先生は先ほどから三回、窓の外を見ながら何も考えていない顔を作っておられます」

「何も考えていない顔って何だ」

「様式です」

 透子はきっぱり言った。


 そのとき、扉が開いた。


 入ってきたのは、黒いレインコートを着た男だった。

 四十代半ば。頬がこけていて、目だけが妙に冴えている。右手の甲に薄い火傷の跡。濡れた髪を乱暴にかき上げながら、男は部屋に入るなり言った。


「先生。人が死ぬかもしれない」


 明智院が、ゆっくり顔を上げた。


「詳しく話してもらおうか」


「さっきまで何も考えてない顔してたのに、急に入るな」

 と田所。


 男は名を芦原と名乗った。

 かつて舞台装置の仕事をしていて、今は雑居ビルの管理会社に勤めているという。


「うちのビルの地下で、爆弾らしきものが見つかったんです」

「爆弾」

 田所が表情を変える。

「警察には?」

「通報はした。だが、その前に一つ妙なことが起きた」


 芦原は濡れた封筒を机の上に置いた。

 中から出てきたのは、一枚の紙だった。


 そこには、乱れのない、妙に几帳面な字でこう書かれていた。


赤のコードか、青のコードか。

間違えれば、十二時きっかりに吹き飛ぶ。

正しい色を選べ。

もっとも、選ぶ者にその資格があれば、だが。


 事務所に沈黙が落ちた。


 明智院は紙を見つめたまま、低く言った。


「良い」


「よくないだろ」

 と田所。


「赤と青。

 限定された二択。

 生と死。

 時計仕掛け。

 犯人は相当、趣味がいい」


「趣味がいい犯人を褒めるな」


 透子が紙を手に取る。


「……字はかなり整っています。

 脅しの文面にしては、感情の乱れが少ない」

「ほう」

 明智院が言う。

「さすが先生です」

 透子ははっと顔を上げた。

「最初から“犯人は激情型ではなく、演出型である”と見ておられたのですね」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。


「今の、透子さんのほうが先に言ってたろ」

 と田所。


         *


 話を聞くと、状況はこうだった。


 爆弾らしきものが見つかったのは、古い映画配給会社が入っている雑居ビルの地下倉庫。

 そこは現在ほとんど使われていないが、昔のフィルム缶や舞台小道具、壊れた照明機材なんかが置かれている。


 倉庫の奥、金属棚の下に、黒いケースがあった。

 開くと、中には簡易タイマーらしきデジタル表示、乾電池、導線、そして赤と青の二本のコード。


「ほんとに爆発物なんですか」

 田所が聞く。

「見た目はそうだ」

 芦原が答える。

「だが、俺は昔舞台装置を触ってた。だから逆にわかる。あれは“本物っぽく見せる”のが上手すぎる」

「舞台人間か」

 と明智院。

「いい」

「今日は何でも“いい”な」


「つまり、実際に危険かどうかはまだわからない」

 透子が整理する。

「はい」

 芦原は頷く。

「だが、警察と爆発物処理班が来るまで時間がかかる。

 しかも地下倉庫の上は、今も編集スタジオとして人が使ってる。

 念のため避難は始めてるが、もし本物なら、間に合うかどうか……」


「なるほど」

 田所は腕を組んだ。

「で、誰に恨まれてるんです?」

「ビル全体としてなら山ほどいる」

「正直だな」

「老朽化、立ち退き、賃料交渉、過去の未払い、いくらでもある」


 透子はメモを走らせた。


「ですが、文面を見る限り“この状況を誰かに解かせたい”意図が強い」

「その通りだ」

 明智院が言った。

「犯人は、この中にいる!!」


「いや、今ここにいないだろ」

 と田所。

「概念的にはいる」

「また概念かよ」


「先生」

 透子が目を輝かせる。

「わかります。

 先生は“爆弾を作った者”ではなく、“この二択という舞台を設計した者”の存在を見ておられるのですね」

「そうだ」

 明智院。

「つまりこれは物理的犯行ではなく、選択を強いる劇の構造」

「……ま、まあそういうことかな」

「乗るの早いなあ」

 と田所。


         *


 関係者は三人に絞られた。


 一人目。

 映画配給会社の現責任者、瀬良。

 ビルの改装派で、地下の古い資料を処分したがっている。


 二人目。

 編集スタジオの責任者、榊。

 ビルを出たくない側で、瀬良と激しく対立している。


 三人目。

 元映写技師の須藤。

 古いフィルムや機材に異様な執着があり、地下倉庫の整理に反対していた。


「全員、動機はあるな」

 と田所。

「うむ」

 明智院が言った。

「しかも、全員、演出に酔いそうな顔をしている」

「顔で判断するな」


「赤と青のコード」

 透子が静かに繰り返した。

「どうしてこの二色なのでしょう」

「定番だからだ」

 と田所。

「爆弾といえば赤青」

「それだ」

 と明智院が言った。


「何がです」


「定番だからこそ怪しい。

 真に洗練された犯人なら、黄色と緑を選ぶ」

「何の話だよ」

「先生」

 透子がうっとりしたように言った。

「さすがです」

「どこが?」

 と田所。


「先生は、“いかにも爆弾らしい赤と青を選ぶこと自体が、犯人の演出性の露呈だ”とおっしゃっているのですね」

「その通りだ」

 明智院。

「つまり犯人は、本物の爆弾魔ではなく、“爆弾魔に見せたい人物”」

「……ま、まあそういうことかな」

「もう毎回その合いの手必要なのか」

 と田所。


 芦原が少しだけ前のめりになる。


「じゃあ、やっぱり本物じゃない?」

「まだそこまでは」

 透子は言った。

「ですが、“見せ方”に意識が寄りすぎているなら、実害よりも象徴性を優先した装置である可能性は高い」

「象徴性」

 田所が言う。

「最近の透子さん、難しい日本語で先生を助けすぎでは?」

「先生の核は、しばしば高度に圧縮されておりますので」

「便利な言葉だなあ」


         *


 ここで明智院は、紙片をもう一度手に取った。


間違えれば、十二時きっかりに吹き飛ぶ。

正しい色を選べ。

もっとも、選ぶ者にその資格があれば、だが。


「資格」

 明智院は低く言った。

「この一語が気になる」

「お」

 と田所。

「珍しくまともだな」


「犯人はただ壊したいのではない」

 明智院。

「誰かを試している」

「誰か」

「そう。

 このビルに残る資格。

 あるいは、過去を保存する資格。

 はたまた、壊す資格」


 透子がゆっくり頷いた。


「先生は、“赤青の二択”そのものより、“誰に選ばせたいのか”を見ておられるのですね」

「その通りだ」

「いや今のは珍しくほんとにそう言ってたな」

 と田所。


「なら」

 透子が言う。

「問題はコードの色そのものではなく、この二択が誰に向けられたものかです」

「そうだ」

 明智院は立ち上がった。

「赤か青か。

 だが本当に問われているのは色ではない。

 このビルの過去を切るか、現在を切るかだ」

「また始まったな」

 田所が言った。

「でも雰囲気はいい」


 芦原が小さく言う。


「過去と現在……」

「瀬良は過去を捨てたい。

 榊は現在の仕事場を守りたい。

 須藤は過去に執着している」

 透子が整理する。

「たしかに、誰が“どちらを切るべきか”を語っても不自然ではありません」


「犯人は須藤だ」

 明智院が言った。


「急だな」

 と田所。

「なぜです」


「過去への執着が強すぎる。

 そして元映写技師。

 フィルムと色にこだわる人間だ。

 赤と青という記号の俗っぽさも、古い映画的感覚の産物として説明がつく」

「説明、つくかなあ」

 と田所。


「先生」

 透子が少し考え込んだ。

「方向は美しいのですが、決め手としては弱いかと」

「美しいならよいではないか」

「立証としては別です」

「そこを毎回切るな」


 そして、透子はもう一度紙片を見た。


「……待ってください」

「何です」

 田所。


「“正しい色を選べ”ではなく、“選ぶ者にその資格があれば”」

「はい」

「この言い方、少し妙です」

「妙?」

「はい。

 色が問題なら、“正しい色を知っていれば”でいい。

 でも犯人は“資格”と言っている」

「つまり?」

 明智院が聞く。


「犯人は、本当にコードを切らせたいわけではないのかもしれません」


 事務所に沈黙。


「……ほう」

 と田所。

「それはどういう」


「これは“赤か青か”を選ばせるゲームに見えます。

 けれど、文面の重心は色より“資格”にある。

 つまり犯人は、“どちらを切るか”より、“誰がそこで切ろうとするか”を見たいのでは」

「おお」

 と明智院が言った。

「いや、今のは透子さんだろ」

「さすが先生です」

 透子が言った。

「どこが!?」


「先生は最初から“選択の舞台を設計した者”を見ておられた。

 つまりこれは爆弾処理ではなく、選択の劇」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「まただよ」


         *


「つまり犯人は」

 田所が整理し直す。

「赤青どっちかを切らせて爆発させたいんじゃなくて、そこで誰かが“自分が決めなきゃ”って動くのを見たい?」

「その可能性が高いです」

 透子。

「しかも“資格”という言い方からすると、その誰かはある程度絞られている」

「ビルの責任者クラスか」

「おそらく」


 芦原が、はっとしたように顔を上げた。


「瀬良だ」

「瀬良?」

「今朝、瀬良が言ってた。

 “誰かが腹を括って決めなきゃ、ここは何も変わらない”って」

「それっぽいな」

 田所。


「さらに」

 芦原は続ける。

「瀬良、元々イベント会社にいて、舞台演出もやってたはずです」

「来た」

 明智院。

「来てないってば」


「過去を捨てる決断を、誰かに強要したかったのかもしれません」

 透子。

「つまり“おまえが赤か青か切れ”。

 もっと言えば、“おまえがこの場所の未来に責任を持て”と」

「うむ」

 明智院が厳かに頷く。

「犯人は、この中にいる!!」

「今度はまあ、ちゃんと効いてるな」

 と田所。


「ですが先生」

 透子が続けた。

「ここでさらに重要なのは、二択の形式そのものです」

「ほう」

「赤と青、どちらかを切れ。

 これはいかにも決断の形に見えますが、実際には“切るな”という第三の答えがある」

「……」

「つまり犯人は最初から、問いを偽っている」

「おお」

 と田所。

「それだな」


 明智院が低く言った。


「赤でも青でもない」

「はい」

 透子は頷いた。

「先生は最初から、“本当に問われているのは色ではない”と」

「……ま、まあそういうことかな」

「いや今回はだいぶ近いぞ」

 田所が言った。

「本人の手柄にしていいラインまで来てる」


 明智院は満足そうにコートの襟を整えた。


「つまり、真のハードボイルドとは」

「そこへ戻るな」

「二択を信じないことだ」

「ちょっとだけうまいこと言ったな」


         *


 その夜遅く、警察から連絡が入った。


 装置はやはり本物の爆弾ではなかった。

 中の火薬はごく少量で、脅しには十分でも、ビル全体を吹き飛ばすようなものではない。

 しかも、赤と青のコードはどちらもタイマーと無関係。

 切っても切らなくても、表示は十二時にゼロになるだけだった。


 要するに最初から、

「赤か青かどっちを切るか」

は、偽の問いだったのである。


 そして瀬良は、あっさり認めた。


 ビルを残すか壊すか、誰も決めきれない。

 昔のフィルムや資料に sentimental な顔をしながら、結局誰も責任を取らない。

 だから“選ぶ場”を作りたかったのだと。


「最悪だな」

 と田所は電話を切ったあとで言った。

「だいぶ迷惑な演出家だ」


「だが、安っぽい」

 明智院が言った。

「そこなんです」

 透子が静かに頷く。

「本物の爆弾でもなく、本物の二択でもない。

 彼は決断を迫ったようでいて、実は最初から誰にも本当の決断は委ねていなかった」

「そうだ」

 明智院。

「赤も青も偽物だ。

 犯人が欲しかったのは、正しい選択ではない。

 “自分は問う側だ”という優越感だけだった」

「お」

 田所が言った。

「今日はだいぶ締まってるな」


 透子は、少しだけうっとりしたように言った。


「さすが先生です。

 つまり先生は最初から、“赤青のコード”を爆弾処理の問題ではなく、“責任の所在を偽装するための演出”として見ておられたのですね」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「最後までそれで行くのかよ」

 田所は笑った。


 窓の外では、まだ雨が降っていた。

 ネオンはにじみ、街は濡れていた。

 事件は終わった。けれど何かひとつ、まだ煙のように部屋に残っている。


 たぶんそれは、選ばされるふりをした夜の匂いだった。


 明智院は椅子に深く座り直して言った。


「最後のピースが見つかったね」

「今回は何です」

 と田所。

「切らない、という第三の選択だ」

「うん。それはちゃんとピースだな」

「先生」

 透子が静かに言った。

「今日は、かなりハードボイルドでした」

「だろう?」

「ええ。

 二択そのものが偽りであると見抜き、

 なおかつその偽二択に酔う犯人の安さを見切る。

 これは非常に乾いていて、そして少しだけ悲しいです」

「……」

 明智院は少しだけ黙り、それから言った。

「ま、まあ、そういうことかな」

「今日はそれ、照れ隠しにも使ってるな」

 と田所。


 その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記されていた。


>『赤のコード、青のコード』

>赤か青か。

>多くの者は、そこに究極の二択を見る。

>だが真に危険なのは、二択そのものではない。

>二択しかないと思い込まされることだ。

>犯人は爆弾を作ったのではない。

>選択の劇を作った。

>そして劇を作る者はしばしば、答えよりも、自分が問いを与える側に立つことへ酔う。

>本日、私はそれを見た。

>ハードボイルドとは、派手な爆発ではない。

>偽の二択に騙されぬ乾いた目だ。


 それを横から読んだ田所刑事は、しばらくしてから言った。


「途中までは先生もだいぶ“赤か青か”に酔っていたので、

 乾いた目というより、半分くらいは透子さんが水気を飛ばした感じなんだよなあ……」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ