第24話 赤のコード、青のコード
雨は、街を撃っていた。
しとしと、ではない。
ばちばち、と。
まるで空のどこかで、誰かが古びたタイプライターを叩いているみたいに、細かく、絶え間なく、濡れた夜を刻んでいた。
その夜の明智院金四郎は、珍しく黙っていた。
事務所の照明は半分落ちている。
古いソファ。
冷めかけたコーヒー。
窓ガラスににじむ街のネオン。
いかにも、誰かが一人で煙草でもふかしながら、人生のどこで何を間違えたのか考えていそうな夜だった。
もっとも、この事務所で煙草を吸う人間は誰もいない。
雰囲気だけである。
「今日はずいぶん静かですね」
田所刑事が言った。
「ハードボイルドだからね」
明智院は低く答えた。
「意味がわからない」
「先生は本日、ご自身の中で“寡黙な私立探偵モード”に入っていらっしゃるのだと思います」
と真柴透子が言った。
「さすが透子君だ」
「わかるのか」
と田所。
「はい。
先生は先ほどから三回、窓の外を見ながら何も考えていない顔を作っておられます」
「何も考えていない顔って何だ」
「様式です」
透子はきっぱり言った。
そのとき、扉が開いた。
入ってきたのは、黒いレインコートを着た男だった。
四十代半ば。頬がこけていて、目だけが妙に冴えている。右手の甲に薄い火傷の跡。濡れた髪を乱暴にかき上げながら、男は部屋に入るなり言った。
「先生。人が死ぬかもしれない」
明智院が、ゆっくり顔を上げた。
「詳しく話してもらおうか」
「さっきまで何も考えてない顔してたのに、急に入るな」
と田所。
男は名を芦原と名乗った。
かつて舞台装置の仕事をしていて、今は雑居ビルの管理会社に勤めているという。
「うちのビルの地下で、爆弾らしきものが見つかったんです」
「爆弾」
田所が表情を変える。
「警察には?」
「通報はした。だが、その前に一つ妙なことが起きた」
芦原は濡れた封筒を机の上に置いた。
中から出てきたのは、一枚の紙だった。
そこには、乱れのない、妙に几帳面な字でこう書かれていた。
赤のコードか、青のコードか。
間違えれば、十二時きっかりに吹き飛ぶ。
正しい色を選べ。
もっとも、選ぶ者にその資格があれば、だが。
事務所に沈黙が落ちた。
明智院は紙を見つめたまま、低く言った。
「良い」
「よくないだろ」
と田所。
「赤と青。
限定された二択。
生と死。
時計仕掛け。
犯人は相当、趣味がいい」
「趣味がいい犯人を褒めるな」
透子が紙を手に取る。
「……字はかなり整っています。
脅しの文面にしては、感情の乱れが少ない」
「ほう」
明智院が言う。
「さすが先生です」
透子ははっと顔を上げた。
「最初から“犯人は激情型ではなく、演出型である”と見ておられたのですね」
「……ま、まあそういうことかな」
と明智院。
「今の、透子さんのほうが先に言ってたろ」
と田所。
*
話を聞くと、状況はこうだった。
爆弾らしきものが見つかったのは、古い映画配給会社が入っている雑居ビルの地下倉庫。
そこは現在ほとんど使われていないが、昔のフィルム缶や舞台小道具、壊れた照明機材なんかが置かれている。
倉庫の奥、金属棚の下に、黒いケースがあった。
開くと、中には簡易タイマーらしきデジタル表示、乾電池、導線、そして赤と青の二本のコード。
「ほんとに爆発物なんですか」
田所が聞く。
「見た目はそうだ」
芦原が答える。
「だが、俺は昔舞台装置を触ってた。だから逆にわかる。あれは“本物っぽく見せる”のが上手すぎる」
「舞台人間か」
と明智院。
「いい」
「今日は何でも“いい”な」
「つまり、実際に危険かどうかはまだわからない」
透子が整理する。
「はい」
芦原は頷く。
「だが、警察と爆発物処理班が来るまで時間がかかる。
しかも地下倉庫の上は、今も編集スタジオとして人が使ってる。
念のため避難は始めてるが、もし本物なら、間に合うかどうか……」
「なるほど」
田所は腕を組んだ。
「で、誰に恨まれてるんです?」
「ビル全体としてなら山ほどいる」
「正直だな」
「老朽化、立ち退き、賃料交渉、過去の未払い、いくらでもある」
透子はメモを走らせた。
「ですが、文面を見る限り“この状況を誰かに解かせたい”意図が強い」
「その通りだ」
明智院が言った。
「犯人は、この中にいる!!」
「いや、今ここにいないだろ」
と田所。
「概念的にはいる」
「また概念かよ」
「先生」
透子が目を輝かせる。
「わかります。
先生は“爆弾を作った者”ではなく、“この二択という舞台を設計した者”の存在を見ておられるのですね」
「そうだ」
明智院。
「つまりこれは物理的犯行ではなく、選択を強いる劇の構造」
「……ま、まあそういうことかな」
「乗るの早いなあ」
と田所。
*
関係者は三人に絞られた。
一人目。
映画配給会社の現責任者、瀬良。
ビルの改装派で、地下の古い資料を処分したがっている。
二人目。
編集スタジオの責任者、榊。
ビルを出たくない側で、瀬良と激しく対立している。
三人目。
元映写技師の須藤。
古いフィルムや機材に異様な執着があり、地下倉庫の整理に反対していた。
「全員、動機はあるな」
と田所。
「うむ」
明智院が言った。
「しかも、全員、演出に酔いそうな顔をしている」
「顔で判断するな」
「赤と青のコード」
透子が静かに繰り返した。
「どうしてこの二色なのでしょう」
「定番だからだ」
と田所。
「爆弾といえば赤青」
「それだ」
と明智院が言った。
「何がです」
「定番だからこそ怪しい。
真に洗練された犯人なら、黄色と緑を選ぶ」
「何の話だよ」
「先生」
透子がうっとりしたように言った。
「さすがです」
「どこが?」
と田所。
「先生は、“いかにも爆弾らしい赤と青を選ぶこと自体が、犯人の演出性の露呈だ”とおっしゃっているのですね」
「その通りだ」
明智院。
「つまり犯人は、本物の爆弾魔ではなく、“爆弾魔に見せたい人物”」
「……ま、まあそういうことかな」
「もう毎回その合いの手必要なのか」
と田所。
芦原が少しだけ前のめりになる。
「じゃあ、やっぱり本物じゃない?」
「まだそこまでは」
透子は言った。
「ですが、“見せ方”に意識が寄りすぎているなら、実害よりも象徴性を優先した装置である可能性は高い」
「象徴性」
田所が言う。
「最近の透子さん、難しい日本語で先生を助けすぎでは?」
「先生の核は、しばしば高度に圧縮されておりますので」
「便利な言葉だなあ」
*
ここで明智院は、紙片をもう一度手に取った。
間違えれば、十二時きっかりに吹き飛ぶ。
正しい色を選べ。
もっとも、選ぶ者にその資格があれば、だが。
「資格」
明智院は低く言った。
「この一語が気になる」
「お」
と田所。
「珍しくまともだな」
「犯人はただ壊したいのではない」
明智院。
「誰かを試している」
「誰か」
「そう。
このビルに残る資格。
あるいは、過去を保存する資格。
はたまた、壊す資格」
透子がゆっくり頷いた。
「先生は、“赤青の二択”そのものより、“誰に選ばせたいのか”を見ておられるのですね」
「その通りだ」
「いや今のは珍しくほんとにそう言ってたな」
と田所。
「なら」
透子が言う。
「問題はコードの色そのものではなく、この二択が誰に向けられたものかです」
「そうだ」
明智院は立ち上がった。
「赤か青か。
だが本当に問われているのは色ではない。
このビルの過去を切るか、現在を切るかだ」
「また始まったな」
田所が言った。
「でも雰囲気はいい」
芦原が小さく言う。
「過去と現在……」
「瀬良は過去を捨てたい。
榊は現在の仕事場を守りたい。
須藤は過去に執着している」
透子が整理する。
「たしかに、誰が“どちらを切るべきか”を語っても不自然ではありません」
「犯人は須藤だ」
明智院が言った。
「急だな」
と田所。
「なぜです」
「過去への執着が強すぎる。
そして元映写技師。
フィルムと色にこだわる人間だ。
赤と青という記号の俗っぽさも、古い映画的感覚の産物として説明がつく」
「説明、つくかなあ」
と田所。
「先生」
透子が少し考え込んだ。
「方向は美しいのですが、決め手としては弱いかと」
「美しいならよいではないか」
「立証としては別です」
「そこを毎回切るな」
そして、透子はもう一度紙片を見た。
「……待ってください」
「何です」
田所。
「“正しい色を選べ”ではなく、“選ぶ者にその資格があれば”」
「はい」
「この言い方、少し妙です」
「妙?」
「はい。
色が問題なら、“正しい色を知っていれば”でいい。
でも犯人は“資格”と言っている」
「つまり?」
明智院が聞く。
「犯人は、本当にコードを切らせたいわけではないのかもしれません」
事務所に沈黙。
「……ほう」
と田所。
「それはどういう」
「これは“赤か青か”を選ばせるゲームに見えます。
けれど、文面の重心は色より“資格”にある。
つまり犯人は、“どちらを切るか”より、“誰がそこで切ろうとするか”を見たいのでは」
「おお」
と明智院が言った。
「いや、今のは透子さんだろ」
「さすが先生です」
透子が言った。
「どこが!?」
「先生は最初から“選択の舞台を設計した者”を見ておられた。
つまりこれは爆弾処理ではなく、選択の劇」
「……ま、まあそういうことかな」
と明智院。
「まただよ」
*
「つまり犯人は」
田所が整理し直す。
「赤青どっちかを切らせて爆発させたいんじゃなくて、そこで誰かが“自分が決めなきゃ”って動くのを見たい?」
「その可能性が高いです」
透子。
「しかも“資格”という言い方からすると、その誰かはある程度絞られている」
「ビルの責任者クラスか」
「おそらく」
芦原が、はっとしたように顔を上げた。
「瀬良だ」
「瀬良?」
「今朝、瀬良が言ってた。
“誰かが腹を括って決めなきゃ、ここは何も変わらない”って」
「それっぽいな」
田所。
「さらに」
芦原は続ける。
「瀬良、元々イベント会社にいて、舞台演出もやってたはずです」
「来た」
明智院。
「来てないってば」
「過去を捨てる決断を、誰かに強要したかったのかもしれません」
透子。
「つまり“おまえが赤か青か切れ”。
もっと言えば、“おまえがこの場所の未来に責任を持て”と」
「うむ」
明智院が厳かに頷く。
「犯人は、この中にいる!!」
「今度はまあ、ちゃんと効いてるな」
と田所。
「ですが先生」
透子が続けた。
「ここでさらに重要なのは、二択の形式そのものです」
「ほう」
「赤と青、どちらかを切れ。
これはいかにも決断の形に見えますが、実際には“切るな”という第三の答えがある」
「……」
「つまり犯人は最初から、問いを偽っている」
「おお」
と田所。
「それだな」
明智院が低く言った。
「赤でも青でもない」
「はい」
透子は頷いた。
「先生は最初から、“本当に問われているのは色ではない”と」
「……ま、まあそういうことかな」
「いや今回はだいぶ近いぞ」
田所が言った。
「本人の手柄にしていいラインまで来てる」
明智院は満足そうにコートの襟を整えた。
「つまり、真のハードボイルドとは」
「そこへ戻るな」
「二択を信じないことだ」
「ちょっとだけうまいこと言ったな」
*
その夜遅く、警察から連絡が入った。
装置はやはり本物の爆弾ではなかった。
中の火薬はごく少量で、脅しには十分でも、ビル全体を吹き飛ばすようなものではない。
しかも、赤と青のコードはどちらもタイマーと無関係。
切っても切らなくても、表示は十二時にゼロになるだけだった。
要するに最初から、
「赤か青かどっちを切るか」
は、偽の問いだったのである。
そして瀬良は、あっさり認めた。
ビルを残すか壊すか、誰も決めきれない。
昔のフィルムや資料に sentimental な顔をしながら、結局誰も責任を取らない。
だから“選ぶ場”を作りたかったのだと。
「最悪だな」
と田所は電話を切ったあとで言った。
「だいぶ迷惑な演出家だ」
「だが、安っぽい」
明智院が言った。
「そこなんです」
透子が静かに頷く。
「本物の爆弾でもなく、本物の二択でもない。
彼は決断を迫ったようでいて、実は最初から誰にも本当の決断は委ねていなかった」
「そうだ」
明智院。
「赤も青も偽物だ。
犯人が欲しかったのは、正しい選択ではない。
“自分は問う側だ”という優越感だけだった」
「お」
田所が言った。
「今日はだいぶ締まってるな」
透子は、少しだけうっとりしたように言った。
「さすが先生です。
つまり先生は最初から、“赤青のコード”を爆弾処理の問題ではなく、“責任の所在を偽装するための演出”として見ておられたのですね」
「……ま、まあそういうことかな」
と明智院。
「最後までそれで行くのかよ」
田所は笑った。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
ネオンはにじみ、街は濡れていた。
事件は終わった。けれど何かひとつ、まだ煙のように部屋に残っている。
たぶんそれは、選ばされるふりをした夜の匂いだった。
明智院は椅子に深く座り直して言った。
「最後のピースが見つかったね」
「今回は何です」
と田所。
「切らない、という第三の選択だ」
「うん。それはちゃんとピースだな」
「先生」
透子が静かに言った。
「今日は、かなりハードボイルドでした」
「だろう?」
「ええ。
二択そのものが偽りであると見抜き、
なおかつその偽二択に酔う犯人の安さを見切る。
これは非常に乾いていて、そして少しだけ悲しいです」
「……」
明智院は少しだけ黙り、それから言った。
「ま、まあ、そういうことかな」
「今日はそれ、照れ隠しにも使ってるな」
と田所。
その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記されていた。
>『赤のコード、青のコード』
>赤か青か。
>多くの者は、そこに究極の二択を見る。
>だが真に危険なのは、二択そのものではない。
>二択しかないと思い込まされることだ。
>犯人は爆弾を作ったのではない。
>選択の劇を作った。
>そして劇を作る者はしばしば、答えよりも、自分が問いを与える側に立つことへ酔う。
>本日、私はそれを見た。
>ハードボイルドとは、派手な爆発ではない。
>偽の二択に騙されぬ乾いた目だ。
それを横から読んだ田所刑事は、しばらくしてから言った。
「途中までは先生もだいぶ“赤か青か”に酔っていたので、
乾いた目というより、半分くらいは透子さんが水気を飛ばした感じなんだよなあ……」




