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閑話 我々はなぜ密室にこだわるか

 その日の午後、明智院金四郎の事務所には、事件がなかった。


 これは平和を意味しない。

 少なくとも、明智院金四郎にとってはそうだった。


 彼は窓際の椅子に深く腰を下ろし、両手の指先を静かに組んで、いかにも「まだ世に現れていない不可能犯罪の気配を感じている」ような顔をしていた。


 もっとも、田所刑事に言わせれば、ただ暇を持て余していただけである。


「平和ですねえ」

 田所が言った。


「平和ではない」

 明智院は低く答えた。

「密室が、まだ現れていないだけだ」


「何だその不穏な季語みたいなの」

 と田所。


 その横で、真柴透子が静かに記録棚の整理をしていた。

 彼女は顔を上げると、少しだけ考えるようにして言った。


「先生は、事件一般と密室事件を、ほぼ別ジャンルとして扱っていらっしゃいますから」


「だろう?」

 と明智院。


「いや、だろう?じゃないんですよ」

 と田所。

「何なんですか、まだ現れていないだけって。密室は渡り鳥か何かですか」


 明智院はしばらく沈黙し、それから重々しく言った。


「田所君。我々はなぜ密室にこだわるのだと思う?」


「知らないですよ。こだわってるの先生だけでしょう」


「いいえ」

 と透子が静かに言った。

「本格ミステリ全体の、かなり中核的な問いだと思います」


「ほら見たまえ」

 と明智院。

「理解者がいる」

「理解者っていうか、この人は先生を必要以上に理解しようとしすぎなんですよ」

 と田所。


         *


「まず」

 明智院はゆっくりと指を一本立てた。

「密室とは、美しい」


「そこから入るのか」

 と田所。

「しかも主観」


「出入口は閉ざされている。窓も閉じられている。部屋の中には死体。凶器は消え、犯人は見えない」

 明智院は低く言った。

「どうだ。美しいだろう」

「現実には最悪ですよ」

「現実の話はしていない」

「いや、してくれよ。今日はその話でしょうが」


 透子が、はっとしたように顔を上げた。


「……さすが先生です」

「何がです」

 と田所。


「先生は、“密室がなぜ魅力的か”を、トリックの技巧ではなく、“世界が一度きれいに閉じること”の美しさとして見ておられるのですね」

「おや」

 と明智院。

「閉じる?」

「はい」

 透子は少し熱を帯びていた。

「本来、事件の可能性は無数にある。偶然、外部犯、通りすがり、勘違い、衝動。しかし密室になると、世界がいったん有限へ押し込まれる」

「……」

「つまり先生は、密室を“可能性を限定し、意味の輪郭を確保するための装置”として捉えておられる」

「わかります。すごくわかります」


 田所は天井を見上げた。


「始まったな」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。


「また乗った」

 と田所。


         *


「ですが」

 田所は腕を組み直した。

「現実には、わざわざ密室にして人を殺すのって、だいぶ不自然でしょう」


「うむ」

 と明智院。


「うむ、じゃないですよ。そこが今日の本題でしょうが」


「先生」

 透子が言った。

「この点については、先ほどの議論ともつながるかと」

「ほう」

「つまり、密室は“美しい”が、“合理的”とは限らない」


「その通りだ」

 田所が即座に言った。

「むしろ現実では、密室工作なんて面倒なだけです。手間はかかるし、失敗の余地は増えるし、変な細工したら逆に怪しい」

「俗だ」

 と明智院。

「俗で結構です」


「つまり」

 透子が整理するように言った。

「現実の犯人にとって密室は、夢の舞台ではなく、かなりコストの高い工作ということですね」

「はい」

 田所は頷く。

「だから普通は、密室にする積極的な理由がそんなにない」

「自殺に見せかける以外には?」

 と明智院。


 田所は少しだけ眉を上げた。


「そう、それです。結局いちばん自然なのはそこですよ」


 透子がメモを取り始める。


「自殺偽装」

「あるいは事故偽装」

 と田所。

「部屋が内側から閉まってる。応答がない。なら本人が一人で死んだのでは、って流れに持ち込みやすい」

「なるほど」

 透子。

「つまり、現実の密室は“挑戦状”ではなく“言い訳”に近い」

「その通り」

「言い方はいいな」

 と田所。


 明智院は少し不満そうに唇を引いた。


「夢がない」


「殺人に夢を求めるな」

「密室本来の悲しみだ」

「何が本来だよ」

 田所が言った。

「現実の犯人は、“どうだ解いてみろ”じゃなくて、“いや私は関係ありませんよ”って顔をしたいだけなんです」


 透子が、はっと目を見開いた。


「……さすが先生です」

「何でそうなるんだよ」

 と田所。


「先生は今、“密室が本来持つ劇性が、現実ではしばしば単なる弁解へと堕してしまう”ことの悲しみを見ておられるのですね」

「いやそれ、完全に私が今言ったんですが」

 と田所。


「いえ」

 透子は本気で首を振った。

「田所さんは現実をおっしゃった。ですが先生は、その現実の“夢のなさ”に先に反応なさったのです」

「……」

「つまり先生は、密室を単なる工作ではなく、“本来もっと美しいはずの形式”として愛しておられる」

「すごくわかります」


 明智院は、やや気まずそうに咳払いした。


「……ま、まあそういうことかな」


「だいぶ透子さんに意味を足されてますよね」

 と田所。


         *


「では」

 明智院は少し姿勢を正した。

「我々はなぜ密室にこだわるのか」


「いや、こだわってるの先生が八割だと思いますけど」

 と田所。


「密室とは」

 明智院は言った。

「“この中に答えがある”と信じさせてくれるからだ」

「お」

 と田所。

「それはちょっとわかるな」


「普通の事件は広すぎる」

 明智院は続けた。

「外部犯かもしれない。偶然かもしれない。見落としかもしれない。世界が散らかっている。だが密室になると違う」

「はい」

 透子が小さく頷く。

「扉は閉ざされる。窓も閉ざされる。すると人は思う。“答えはこの中だ”と」

「うむ」

「つまり先生は、密室を“世界の無限を、いったん有限へ押し込める人間の祈り”として見ておられるのですね」

「盛るなあ」

 と田所。

「いやでも、きれいだな」


「祈り」

 と明智院が繰り返した。

「悪くない」

「本人が採用した」

 と田所。


「たとえば」

 透子は少し身を乗り出して言った。

「人は、事件に限らず、答えがどこかにあると信じたいのだと思います。世界は広すぎる。可能性は散らばりすぎる。だからせめて一度、扉を閉めて、“さあ、この中で考えよう”とやりたくなる」

「おお」

 明智院が言った。

「おお、じゃないんですよ」

 と田所。

「完全に透子さんの文章じゃないですか」


「ですが先生」

 透子は本気だった。

「先生の“密室とは美しい”という一言がなければ、ここまでは来られませんでした」

「便利だな、その言い方」

「先生の言葉は、しばしば圧縮率が高いので」

「またデータファイル扱いか」

「適切な展開です」

「その展開で毎回だいぶ増えてるんだよなあ」


         *


「でも」

 田所が言った。

「現実で密室を作る理由って、やっぱり自殺偽装とか事故偽装くらいじゃないですか」

「そうだろうな」

 明智院もそこは認めた。

「それ以外はだいぶ演出過多だ」

「演出過多って、先生に言われる筋合いないと思うな」

「しかし」

 明智院は指を立てた。

「そこに犯人の悲哀もある」

「また始まった」

「本当は“どうだ解いてみろ”と言いたいほどの名犯人でありたかった。だが現実には“いや私は関係ありませんよ”としか言えない。その落差だ」

「犯人の側にロマンを見出すな」

 と田所。

「危ないぞ」

「先生」

 透子がうっとりしたように言った。

「つまり先生は、現実の密室に“本格への未練”を見ておられるのですね」

「そうだ」

 と明智院。

「いや今のもかなり後乗りだろ」

 と田所。


「本来なら挑戦状であるはずの密室が、現実では弁解になってしまう」

 透子は続けた。

「その悲しみ。その夢のなさ。その損なわれた劇性――」

「盛るなあ」

 と田所。

「でもまあ、きれいはきれいだな」


 明智院は満足げに頷いた。


「密室とは、壁ではない」

「出た」

 と田所。

「言いそうだと思った」

「密室とは、“ここに答えがあってほしい”という人間の願望が作る、目に見えない閉鎖だ」

「おお」

 と透子。

「これはすばらしいです」

「今日はちょっとまともにうまいこと言ってるな」

 と田所。

「でもたぶん、三割くらい透子さんの影響受けてますよね」

「探偵は環境で育つ」

「助手に育てられてるんだよなあ」


         *


 少しの沈黙のあと、田所がぽつりと言った。


「じゃあ先生にとって密室って、結局何なんです?」


 明智院は、窓の外を見た。

 夕方の光が、電線を細く光らせている。


「花道だ」

 彼は静かに言った。

「花道?」

「そう。

 密室があると、“犯人はこの中にいる”が最も美しく響く」

「そこかよ!」

 田所が言った。

「結局そこなんだよこの人は!」


 だが透子は、息を呑んだように目を見開いた。


「……さすが先生です」

「まだ盛るのか」

「先生は今、密室を単なる不可能犯罪ではなく、“名探偵が名探偵たりうるために世界の側が用意した舞台”として」

「それは盛りすぎだ」

 と田所が遮る。

「いやでも、先生なら半分くらい本気でそう思ってそうだな」

「半分ではない」

 明智院が言った。

「八割だ」

「高いな」


 透子は静かに微笑んだ。


「やはり、先生はそういう方です」

「いや、そういう方だけどさ」

 田所はため息をついた。

「今日の談義の結論が、“密室は先生の花道”って、だいぶどうかしてるんですよ」


 明智院は椅子に深く腰を下ろし、紅茶をひとくち飲んだ。


「最後のピースが見つかったね」

「今日は何です」

 と田所。

「我々だ」

「我々?」

「そう。密室にこだわっているのは、犯人だけでも被害者だけでもない。解く側もまた、密室を欲している」

「それはまあ」

 田所は少しだけ頷いた。

「そうかもしれませんね」

「さすが先生です」

 透子が言った。

「密室を“犯人の工作”ではなく、“解く者の欲望が見出した形式”としても捉えておられるのですね」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「もう完全に定型句になってるな」

 と田所。


 その夜、明智院金四郎の事件ノートには、こう記されていた。


>『我々はなぜ密室にこだわるか』

>密室は合理的ではない。

>現実においては、多くの場合、自殺や事故の偽装にすぎぬ。

>だがそれでも我々が密室に魅せられるのは、

>そこに“答えはこの中にある”という有限の約束があるからだ。

>世界は広く、偶然は汚く、可能性は散らばる。

>密室は、それらを一度だけ閉じる。

>そして名探偵に、花道を与える。

>ゆえに我々は密室にこだわる。

>犯人のためではない。

>おそらく、我々自身のために。


 それを横から読んだ田所刑事は、しばらく黙ってから言った。


「最後の二行はだいぶ本音だし、

 “名探偵に花道を与える”のところは、たぶん先生が一番言いたかったことなんだよなあ……」

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