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第23話 血の気のない男

 その夜、明智院金四郎は、玄関に立った依頼人を見た瞬間に言った。


「吸血鬼だ」


「早いな」

 と田所刑事は言った。


「まだ何も聞いてませんが」

 と真柴透子が言った。


「だが見たまえ」

 明智院は、玄関先の男をじっと見つめた。

「青ざめた顔。おびえた目。夜半に訪れる足音。しかも首元を隠している」

「寒いからマフラーしてるだけでしょう」

 と田所。

「先生」

 透子が静かに口を挟む。

「現時点で吸血鬼と断定するのは、やや様式が先行しているかと」

「断定ではない」

 明智院は低く言った。

「期待だ」

「もっとだめだろ」

 と田所。


 依頼人は三十代半ばほどの男で、たしかに青い顔をしていた。

 黒いコートに、やや厚手のマフラー。目の下にうっすら隈があり、落ち着きなく周囲を見ている。


「す、すみません」

 男は言った。

「こちら、明智院先生の……」

「いかにも」

 と明智院。

「どうぞ、お入りください」

 と透子がやわらかく案内した。


 男は名を倉橋と名乗った。

 都心から少し外れた場所にある、古い洋館の管理を任されているという。


「洋館」

 明智院が言った。

「良い」

「まだ話始まってないんですよ」

 と田所。


 倉橋はソファに座るなり、声をひそめた。


「先生。人が死にました」

「ほら見たまえ」

 と明智院。

「見たまえ、じゃないです」

 と田所。


「三日前、館の持ち主の甥にあたる方が……地下のワイン庫の前で倒れていたんです。首に、二つの穴のような傷があり、顔は血の気がなく……」

 そこで倉橋は息を呑んだ。

「まるで、血を吸われたみたいに」


 事務所に、短い沈黙が落ちた。


 そして明智院金四郎が、ゆっくりと立ち上がった。


 黒い外套が揺れる。

 目が輝いている。


「来たか」

 と彼は言った。


「来てないです」

 と田所。

「先生」

 透子が言う。

「少なくとも、人為的な偽装の可能性を」

「透子君」

 明智院は低く言った。

「地下のワイン庫だぞ」

「はい」

「首筋に二つの傷だ」

「はい」

「顔面蒼白だ」

「はい」

「これで吸血鬼でなければ、何だというのか」

「たぶん人間です」

 と田所。


 透子は少し考え込んだあと、静かに頷いた。


「……なるほど」

「いや、なるほどじゃないだろ」

 と田所。


「先生は、単に吸血鬼という表象に飛びついておられるのではないのかもしれません」

「おっ」

 と明智院。

「先生はおそらく、“犯人がそう見えるように意図的に演出しているなら、その演出の過剰さ自体が手がかりになる”と」

「いや、そこまででは」

 と田所が言いかける。


「そして同時に」

 透子は少し興奮したように続けた。

「先生ご自身も半分くらい本気で吸血鬼を期待していらっしゃる」

「うむ」

 と明智院。

「認めるのか」

 と田所。


         *


 館の名は、月影館といった。


 名前からしてだいぶいやな感じだが、建物そのものも相当にいやだったらしい。明治期に建てられた洋館で、今は持ち主の老婦人・月影須磨子がひとりで住んでいる。もっとも、広い館なので、住み込みの倉橋のほか、家政婦の鶴見、甥の一人である被害者・高岡礼司、そして一時的に滞在していた親族がいた。


「親族は何人?」

 と透子。


「二人です。礼司さんの弟の真一さんと、須磨子様の姪の香織さん」

「なるほど」

 透子はさっと関係図を書く。


「で」

 と田所。

「死因は本当に失血なんですか?」


 倉橋は首を振った。


「いえ。医師によれば、直接の死因は転倒による後頭部の打撲です」

「ほら」

 と田所。

「吸血鬼じゃない」

「いや待て」

 明智院が言った。

「吸血鬼に驚いて転倒した可能性がある」

「可能性を広げるな」

「先生」

 透子が静かに口を挟む。

「その場合、吸血鬼が現実に存在する必要があります」

「存在してはいけない理由は?」

「そこから議論するのは少々長くなります」

「法学部らしい返しだな」

 と田所。


 倉橋は続けた。


「ただ、妙なことがいくつかあって……」

「来た」

 と明智院。

「来てねえよ」


「礼司さんは、死ぬ前から“館の中に夜ごと歩き回る者がいる”と言っていました。誰もいないはずの廊下に黒い影が見えるとか、窓の外に青白い顔が浮かぶとか」

「いい」

 と明智院が言った。

「とてもいい」

「嬉しそうだなあ」

 と田所。


「それから」

 倉橋は声を低くした。

「事件の夜、館の大時計が午前零時を打った直後、礼司さんの悲鳴が聞こえました。皆で駆けつけると、地下のワイン庫の前で倒れていて……そのすぐそばの壁に、血で描いたような染みがあったんです」

「何の形だ」

 と明智院。


 倉橋は少し迷ってから言った。


「……翼、のような」


 明智院が、ゆっくりと目を閉じた。


「もうだめだ」

 田所が言った。

「この人、今すごく喜んでる」


「犯人は、この中にいる!!」

 明智院は厳かに言った。


「まだ館にも行ってないだろ」

「だが、もしいるならこの中だ」

「“もし”付きで決め台詞を言うな」


 透子が小さく息をついた。


「先生、さすがです」

「何がさすがなんだ」

 と田所。

「吸血鬼という超自然的な仮説をあえて前面に置くことで、逆に“この中の誰かが、そう見えるようにしている”可能性を浮かび上がらせておられるのですね」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「また乗る」

 と田所。


「ただし」

 透子は続けた。

「私は三割ほど、本当に先生が吸血鬼の可能性を捨てていないとも考えています」

「三割ではない」

 と明智院。

「四割だ」

「上がったよ」

 と田所。


         *


 館の話を聞くうちに、人物像が少しずつ見えてきた。


 礼司は金遣いが荒く、須磨子に金の無心をしていたらしい。

 弟の真一はそのことで礼司と口論が絶えなかった。

 姪の香織は館に不気味な噂が立つのを嫌っていた。

 家政婦の鶴見は、礼司にしばしばからかわれていた。

 そして須磨子本人は、体調を崩して二階の寝室にこもっていることが多い。


「全員にそれなりの動機はあるな」

 と田所。

「うむ」

 明智院は言った。

「だが問題はそこではない」

「また別のところ行くのか」

「吸血鬼は、なぜ血を吸ったように見せる必要があったのか、だ」

「そもそも吸ってないでしょう」

 と田所。

「現時点では」

 と明智院。


 透子がメモを見ながら言った。


「“首筋の二つの傷”“血の気のない顔”“地下のワイン庫”“翼のような血痕”“夜の黒い影”……犯人が本気で吸血鬼に見せたいなら、だいぶやりすぎています」

「その通りだ」

 明智院が言った。

「妖怪に見せたい犯人は、たいてい盛りすぎる」

「たいてい、の母数どこだよ」

 と田所。


「先生」

 透子が目を輝かせた。

「いまのは重要です」

「何が?」

「“妖怪に見せたい犯人は盛りすぎる”――つまり先生は、怪異そのものより、“怪異を演出する人間の情熱”を見ておられる」

「いやたぶん、そこまで」

 と田所が言いかける。


「わかります!!」

 透子は本気で言った。

「本物の吸血鬼なら、そこまでベタなことはしない。むしろ人間のほうが、吸血鬼らしさを過剰に引用してしまうのですね!」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「本人、どんどん後づけで賢くなってないか」

 と田所。


         *


「でも」

 田所は腕を組んだ。

「実際どうなんです。二つの傷っていうのは」

「医師は?」

 と透子。


「小さな刺し傷のようだと」

 倉橋が答える。

「ただ、致命傷ではないそうです」

「なるほど」

 透子。

「じゃあ本当に“吸血された”わけではなく、“吸血されたように見せる印”にすぎない」

「印」

 と明智院が繰り返す。

「よい」

「また何か始まりそうだな」

 と田所。


「礼司氏は」

 明智院が言った。

「死ぬ直前まで、館にいる何者かを恐れていたのだね?」

「はい」

「では犯人は、その恐怖を利用した」

「それはそうでしょうね」

 と田所。

「驚かせて転倒させたか、少なくとも混乱はさせた」

「違う」

 明智院は低く言った。

「もっと根深い」

「何が」

「犯人は、礼司氏に“吸血鬼は本当にいる”と思わせたかったのだ」

「……」

「まあ、思わせたかったんでしょうね」

 と田所。

「でもそれって結局、脅してたってだけでは」


 そこで透子が、はっとしたように顔を上げた。


「先生」

「何だね」

「もしかすると、犯人は礼司さんだけに見せていたのではないかもしれません」

「ほう」

「館全体に、“吸血鬼がいる”という空気を作りたかった」

「館全体に?」

 田所。


「はい。黒い影、窓の外の顔、翼のような血痕。どれも“礼司さん個人を狙う”には少し演出過多です」

「たしかに」

 田所は頷いた。

「むしろ同居人みんなに“何かいる”と思わせる方向か」

「さすが先生です」

 透子が言った。

「最初から、個別犯行ではなく、館そのものを怪異化する意図を見ておられたのですね!」

「……ま、まあ、そういうことかな」

 と明智院。

「そこ、もう自動で言うようになってきたな」

 と田所。


 明智院は少し咳払いをした。


「うむ。つまり犯人は、礼司氏を殺しただけではない。館を吸血鬼の館にしたかったのだ」

「吸血鬼の館にしたかった犯人って何だよ」

 と田所。

「動機が文学すぎる」

「ですが」

 透子は静かに言う。

「実際、“怪異の噂が立つと困る人”と、“怪異の噂が立つと得する人”を分けて考える必要はあります」

「お」

 田所が言った。

「それは現実的だな」


「香織さんは噂を嫌っていた。須磨子様も同じでしょう」

 透子は関係図を見ながら続ける。

「一方で、礼司さんは金に困っていた。弟の真一さんは礼司さんと対立していた。倉橋さんは館の管理人として、事件後も館に残る立場……」

「ちょっと待って」

 倉橋が慌てて言った。

「私ですか」

「現時点では全員が候補です」

 透子はきっぱり言った。

「ええと、はい……」

「言い方が容赦ないな」

 と田所。


「先生」

 透子が明智院を見る。

「ここで問題になりますのは、“誰がもっとも吸血鬼に詳しそうか”ではなく、“誰がもっとも吸血鬼の安っぽい演出をしそうか”です」

「すばらしい」

 明智院が言った。

「何がです」

「その俗っぽさの指摘。実に人間的だ」

「先生のおっしゃりたいことを現実へ引き下ろしてみました」

「たまに本当に助かるんだよなあ」

 と田所。


         *


 話を聞くうちに、決定的な一言が出たのは、意外にも倉橋の口からだった。


「そういえば……」

「何です」

 と透子。

「礼司さん、事件の前の日に、真一さんと大喧嘩してたんです」

「金のことか」

 田所。

「それもありますが……真一さん、館の地下のワイン庫に、古いドイツ映画のポスターを飾ってたんですよ。吸血鬼映画の」

「吸血鬼映画」

 と明智院が低く繰り返した。

「それを礼司さんが見て、“趣味が悪い”って破いたんです」

「うわ」

 と田所。

「わかりやすい」

「待ちたまえ」

 明智院が手を上げた。

「わかりやすすぎる」

「珍しく慎重だな」

「ここで真一氏が犯人なら、あまりに吸血鬼の記号が直線的すぎる」

「でも、ありえるでしょう」

 田所。

「吸血鬼映画好きが、吸血鬼っぽく見せた」

「いや」

 透子が言った。

「先生はおそらく、“それでは犯人の教養が露骨すぎる”と」

「そこまで言ってないです」

 と田所。


「いえ、すごくわかります」

 透子は本気で頷いた。

「先生は、“本当に吸血鬼を演出したい人間なら、むしろ吸血鬼映画そのままの安さを避けるはずだ”とおっしゃっているのですね」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「便利だなそれ」

 と田所。


「ただし」

 透子は続けた。

「真一さんが“自分の吸血鬼趣味を逆手に取られている”可能性はあります」

「つまり」

 田所が言う。

「誰かが真一さんを吸血鬼犯人っぽく見せた」

「そうです」

「なるほど」

 田所は頷いた。

「それなら急に現実的になるな」


 明智院は、満足げに腕を組んだ。


「見たまえ。私は最初から、人間が怪異をまとう構図を見抜いていた」

「いや、最初は四割くらい本気で吸血鬼疑ってたでしょう」

「いまは三割だ」

「まだ残ってるのかよ」


         *


 最後に、透子が静かに結論をまとめた。


「現段階で言えるのはこうです。

 犯人は、礼司さんを殺しただけでなく、館に“吸血鬼がいる”という空気を作ろうとした。

 そのために、誰か一人を怖がらせるだけでは足りず、同居人全員に共有される記号をばらまいた。

 ですが、その演出はやや古典的で、むしろ“人が考える吸血鬼らしさ”に寄りすぎている。

 したがって犯人は、本物の怪異ではなく、怪異を安く引用した人間である可能性が高い」


「本物の怪異ではなく」

 と明智院が繰り返す。

「怪異を安く引用した人間」

「はい」

「それだ」

 明智院は立ち上がった。

「犯人は、この中にいる!!」

「ようやくちゃんとした決め台詞になったな」

 と田所。


「でも先生」

 透子が少しだけ首をかしげる。

「先生は、まだ少し“本当に吸血鬼だったら素敵だ”と思っていらっしゃいますよね」

「素敵とは言っていない」

「では」

「……魅力的ではある」

「認めた」

 と田所。


 明智院は窓の外を見ながら、静かに言った。


「田所君。人は時に、吸血鬼のようなものを必要とする」

「何の話です」

「凡庸な殺人では、心が満たされない夜があるのだよ」

「先生だけだと思うなあ、それは」

「ですが」

 透子は小さく微笑んだ。

「その“吸血鬼であってほしい”という先生の欲望が、逆に人間の演出の安さを見抜く視点になることもあるのかもしれません」

「すごいなあ」

 と田所。

「そんなふうにまで先生を意味のある存在にできるんだ」

「先生は意味のある方です」

 透子は本気で言った。

「たぶん半分は、透子さんが意味を足してるんですよ」

「敬愛とは、そういうものではないでしょうか」

「深いこと言ってるっぽいけど、だいぶ危ないな」


 その夜、明智院金四郎の事件ノートには、こう記されていた。


『血の気のない男』

>吸血鬼は存在しない。

>だが、人はときに吸血鬼を必要とする。

>凡庸な悪意を、怪異の形に塗り替えることでしか、

>自らの犯行に耐えられない者がいる。

>首の傷、蒼白の顔、地下室、翼のような血痕。

>それらは怪異の証ではない。

>人間が怪異を引用した痕跡である。

>そして引用は、たいてい少し安い。


 それを横から読んだ田所刑事は、しばらく黙ってから言った。


「冒頭で“吸血鬼だ”と言い切っていたので、

 先生がどこまで本気で、どこから後づけだったのかは、やっぱり少し怪しいんだよなあ……」

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