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第22話 互いに無関係な死者

 その日、明智院金四郎は、依頼人が「二人死にました」と言った瞬間に立ち上がった。


「交換殺人だ」


「早いな」

 と田所刑事が言った。


「まだ何も聞いてませんが」

 と真柴透子が言った。


「だが二人死んだのだろう?」

 明智院は低く言った。

「しかも、依頼人の顔に“話がややこしい”と書いてある」

「ややこしいのは、たぶん先生がこれからややこしくするからですよ」

 と田所。


 依頼人は四十代くらいの、疲れた顔の男だった。名を尾崎といい、町工場の経理をしているという。彼はどうにも落ち着かない様子で、事務所のソファに腰を下ろすなり言った。


「いや……交換殺人かどうかはわかりませんが」

「ほら見たまえ!」

 明智院が言った。

「その言い方!」

「いや今のは、“そんな大げさな話ではないと思うけど”の前置きでしょう」

 と田所。

「先生」

 透子が静かに言った。

「依頼人のためらいの中に、あえて“交換殺人”という大きな枠組みを先に置くことで、先生はかえって事実の輪郭を見ようとしておられるのですね」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「もう本人、透子さんの解釈待ちなんだよなあ」

 と田所。


 尾崎は少しだけ引いた顔をしていたが、それでも話を始めた。


「死んだのは、うちの工場の工員だった坂口と、近くの居酒屋の店主の畑山です」

「工員と居酒屋の店主」

 透子がメモを取りながら繰り返す。

「接点は?」

「それが、ほとんどないんです」

「来た」

 と明智院。

「来てねえよ」


「坂口は三日前、帰り道の川沿いで頭を打って死にました。酔って転んだ事故かとも思われましたが、警察は揉み合った痕があると言っていて」

「なるほど」

 と田所。

「畑山は?」

「昨夜、自宅の階段下で倒れているのが見つかりました。これも転落事故っぽいんですが、誰かに突き飛ばされた可能性があると」

「ふむ」


 透子はすばやく時系列を書き出した。


 三日前、坂口死亡。

 昨夜、畑山死亡。

 両方とも一見事故。

 しかし他害の可能性あり。


「で?」

 と田所。

「その二人に関係は?」


 尾崎は首を振った。


「ほとんどありません。坂口は工場と自宅を往復するだけの男で、酒もそんなに飲まない。畑山の店にもほぼ行かない。畑山も、工場関係とは特に縁がない。なのに」


「二人とも、死んだ」

 明智院が低く言った。

「しかも一見事故に見える形で」

「はい」

「そして互いに無関係」

「はい」

「完璧だ」

「何がだよ」

 と田所。


「交換殺人とは」

 明智院はゆっくり言った。

「自分には動機のない相手を殺すことで、動機の線を消す美しい仕組みだ」

「美しいって言うな」

「本格的には美しい」

「現実的には最悪です」


 透子が目を輝かせた。


「さすが先生です」

「何がです」

 と田所。


「二人の死者に接点がない、ということを“ただ関係がない”で済ませず、むしろ“関係がないことそれ自体が作為ではないか”と見ておられるのですね」

「その通りだ」

 明智院。

「つまり先生は、動機が見えないこと自体を、動機隠しの痕跡として読んでおられる」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「便利すぎるなその流れ」

 と田所。


         *


 尾崎によれば、警察はまだ二つの死を結びつけていないらしかった。

 だが尾崎がこの事務所へ来たのは、妙な噂を耳にしたからだった。


「工場で、坂口が死ぬ前に、誰かと揉めてたって話がありまして」

「誰と?」

 透子。

「事務員の久保田です。坂口は久保田と折り合いが悪くて」

「久保田」

 透子が書き込む。

「男ですか」

「はい。三十代の」

「で、畑山のほうは?」

 と田所。


 尾崎は少し迷った。


「それが……畑山も、別のことで誰かと揉めてたらしいんです。常連の女の人と」

「女」

 透子。

「名前は?」

「三橋里美です」

「なるほど」

 透子は二つの名前を書いた。

 久保田。

 三橋里美。


「見たまえ」

 明智院が言った。

「来たぞ」

「何が」

 と田所。

「久保田は坂口と揉めていた。里美は畑山と揉めていた。にもかかわらず死んだのは、坂口と畑山だ」

「はい」

「つまり」

「言うんだろうなあ」

 と田所。


「犯人は、この中にいる!!」

 明智院が言った。


「この中って、まだ関係者ですら来てないでしょう」

「概念的にはいる」

「また概念か」


「先生」

 透子が、少し身を乗り出した。

「これはつまり、“動機がもっとも強そうな二人が、それぞれ自分ではないほうの相手に手を下した”という可能性ですね」

「そうだ」

 明智院。

「互いの敵を交換したのだ」

「いまのところ、ただ別々に揉めてたってだけですよ」

 と田所。

「しかも二件、死に方も微妙に違う」

「違うからこそ交換なのだ」

「どういう理屈だよ」


 尾崎が小さく言った。


「でも……久保田と里美に接点なんて、ないと思います」

「それだ」

 明智院は目を細めた。

「接点がない。だから美しい」

「接点がないと、交換の相談もできないでしょう」

 と田所。

「相談できない関係だからこそ、より高等なのだ」

「いや一周回って雑なんですよ」

「先生」

 透子が言う。

「もしかすると先生は、“接点がなさそうでいて、実はどこかで愚痴の回路がつながっていたのでは”と」

「おお」

 と明智院。

「そこだ」

「今の完全に透子さんが足しただろ」

 と田所。


         *


 ここで、尾崎がひとつ思い出したように言った。


「そういえば」

「はい」

 透子。

「久保田は、仕事帰りにたまにあの居酒屋へ行ってたらしいです」

「畑山の店?」

「ええ」

「里美さんは?」

「常連です」

「ほら」

 明智院が言った。

「交点があった」

「いや、居酒屋で常連とサラリーマンが一緒になるのは普通でしょう」

 と田所。


 透子はしかし、かなり真剣だった。


「先生……なるほど」

「何がなるほどなんです」

 と田所。


「先生は最初から、“関係がないように見える二件の死”を、動機のずれではなく、“動機の受け渡し”として見ておられた」

「そうだ」

 明智院。

「久保田は坂口を憎んでいた。里美は畑山を憎んでいた。二人は店で出会い、互いの不満を共有した」

「うちの上司ほんとムカつく」

 と田所が棒読みで言った。

「わかる、うちの店主も最悪」

「そうだ」

 明智院が真剣に頷いた。

「そこから始まるのだ」

「軽いなあ……」

「先生」

 透子が言った。

「つまり先生は、“人が互いの不幸を雑談として交換するうち、その交換がやがて現実の犯意へ変質する”構図を」

「その通りだ」

「わかります!!」

「いやわからなくていいよ」

 と田所。


 尾崎は少し顔を青くした。


「そんなこと、本当に……」

「ある」

 と明智院は言った。

「人は、愚痴を交わすだけなら無害だ。だがその愚痴が“おまえが代わりにやれ”“じゃあおまえも”という地点へ進んだ時、交換殺人は完成する」

「急にすごくそれっぽくなったな」

 と田所。

「でもまだ証拠ゼロですよ」

「美しい仮説に証拠はあとからついてくる」

「最悪の名言だな」


         *


 やがて、尾崎の頼みで、久保田と里美が事務所へ呼ばれた。


 久保田は痩せた神経質そうな男だった。

 里美は三十代後半、化粧の少し濃い、きっぱりした口調の女だった。

 顔を合わせた瞬間、二人は「あ」とだけ言った。


「知り合いか」

 田所がすぐ聞く。


「店で何度か」

 と久保田。

「常連どうしってだけ」

 と里美。

「ほら見たまえ」

 明智院が言った。

「もう盤面は揃った」

「チェスみたいに言うな」


 透子が静かに問う。


「お二人は、それぞれ被害者と揉めていた」

「揉めてたっていうか」

 久保田が言う。

「坂口が面倒だっただけです」

「畑山もそう。面倒だった」

 里美。

「そしてお二人は、店で互いにその愚痴を?」

「まあ少しは」

 里美が答える。


 明智院が、椅子からゆっくり立ち上がった。


「来たか」

「またか」

 と田所。


「交換殺人とは」

 明智院は低く語った。

「単に標的を交換することではない。互いの憎悪を、自分の手の外へ預けることだ」

「今日は言い方だけはうまいな」

「先生」

 透子がうっとりした顔で言った。

「つまり先生は、“自分で汚れずに、相手の憎しみを代行する構造”そのものを問題にしておられるのですね」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「もう完全に乗りこなされてる」

 と田所。


 明智院は、久保田を指した。


「あなたは坂口を憎んでいた」

 次に里美を指す。

「あなたは畑山を憎んでいた」

 そして大きく手を広げる。

「そして互いに、自分の標的ではない相手を始末した! 犯人は、この中にいる!!」


 事務所に沈黙。


 久保田と里美は顔を見合わせた。

 そして、ほとんど同時に言った。


「いやいやいや」


「違いますよ!」

 と久保田。

「そんな怖い話じゃない」

「怖い話なのはおまえらのほうだ」

 と田所。


 里美が呆れたように言った。


「たしかに愚痴は言ったわよ。でもそんな、交換で人を殺すなんて」

「では畑山氏はなぜ死んだ?」

 明智院。

「知らないわよ。私はあの夜、家でドラマ見てたの」

「坂口氏は?」

「俺は工場にいませんでした」

 久保田。

「残業記録もあります」


「先生」

 透子が静かに言った。

「現時点で、本格的交換殺人としては、ややロマンが先行しているかと」

「ロマンは大事だ」

「大事ですが、立証とは別です」

「そこを毎回言うな」


         *


 ここで田所が、何気なく尾崎に聞いた。


「坂口と畑山って、本当に無関係なんですか」

「ほぼ」

「ほぼ?」

「いや……そういえば」

 尾崎が首をかしげる。

「坂口、たまに居酒屋で畑山と口論してたって聞いたことがあります」

「先に言え」

 田所。

「酔うとすぐ絡むんで」

「つまり」

 透子が言った。

「坂口と畑山は、実はそれなりに関係があった」

「はい」

「しかも両方とも、酔うと揉める」

「はい」


 里美が顔をしかめた。


「じゃあ、あの二人が勝手にトラブル起こしてただけじゃない」

「その可能性が高いですね」

 と透子。


 さらに久保田が、ぽつりと言った。


「畑山、坂口のこと嫌ってましたよ。こないだも“あの工場の酔っぱらい、もう出禁にしたい”って」

「それだ」

 と田所。

「普通の線が見えてきたな」

「普通だと?」

 明智院が不満そうに言う。


「つまり」

 透子が整理する。

「交換殺人ではなく、坂口と畑山はそれぞれ別件で、自分のトラブルの延長線上に死んだ可能性がある」

「うむ……」

 と明智院。

「しかも久保田さんと里美さんは、ただの愚痴仲間」

「はい」

「愚痴の交換はあったが、標的の交換はなかった」

「そのようです」

「……」


 明智院はしばらく黙った。

 その沈黙には、ほのかな残念さがにじんでいた。


「先生」

 透子がやわらかく言った。

「ですが、先生の着眼は無駄ではありません」

「ほう」

 明智院は少し元気を取り戻した。

「お二人の“愚痴の交換”に注目したことで、逆に“本当に交換されていたのは殺意ではなく不満だけだった”ことが明確になりました」

「すごいな」

 と田所。

「負け試合を綺麗に言い換える技術がある」

「負けではありません」

 透子は本気で言った。

「先生は、可能性の最大形を先に置くことで、現実の輪郭を浮かび上がらせたのです」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「またそれか」


 里美が呆れたように言う。


「じゃあ結局、交換殺人じゃなかったのね」

「現時点では」

 透子。

「でも」

 と明智院が言った。

「交換殺人という考え方自体は、美しい」

「まだ言う」

 と田所。


「動機による絞り込みを無効化する。犯人のはずなのに犯人らしく見えない。これほど本格的な仕掛けがあるかね」

「現実でやるなって話なんですよ」

「先生」

 透子が言った。

「その“犯人らしく見えないことを人工的に作る”という視点は、たいへん重要だと思います」

「だろう?」

「はい。今回は交換殺人ではありませんでしたが、“動機が見えないこと自体が、どう作られるか”という問いは残りました」

「なるほどな」

 田所は頷いた。

「そこは確かに、今後の事件でも使える見方か」


         *


 依頼人たちが帰ったあと、事務所には少し気の抜けた静けさが残った。


 明智院は窓の外を見ながら、低く言った。


「惜しかった」


「何がです」

 と田所。

「交換殺人であれば、きわめて美しかった」

「美しさで事件を選ぶな」

「だが、愚痴の交換まではあったのだ」

「そこは認めますよ」

 田所。

「でも先生、今回は“うちの上司ほんとムカつく”“わかる、うちの常連も最悪”を、ちょっと育てすぎたんですよ」

「人は時に、そこから踏み越える」

「踏み越えなかった。それだけです」


 透子が、少しだけ微笑んだ。


「ですが先生」

「何だね」

「私は今回の先生、かなり本格的だったと思います」

「おや」

「“動機の不在そのものが、作為の痕跡になりうる”という着眼は、とても美しかったです」

「さすが透子君だ」

「いや、透子さんは毎回そこ拾うなあ」

 と田所。

「本当に信じてるんだよなあ」


 透子はきょとんとした顔で言った。


「もちろんです」

「どのへんを?」

「先生は、ただ交換殺人という言葉の響きに酔っていらしたわけではありません」

「いや、だいぶ酔ってたと思うぞ」

「その酔いの中に、ちゃんと構造を見ておられたのです」

「すごいな」

 田所は言った。

「先生本人より先生を信じてる」


 明智院は少し咳払いをして、椅子へ深く座り直した。


「最後のピースが見つかったね」

「今回は何です」

 と田所。

「愚痴だよ」

「ピースにするには軽いな」

「いえ」

 透子が言った。

「互いの憎悪が交換されなかったからこそ、むしろ“交換殺人の不成立”が明確になったのです」

「すごい。ないものまで話の芯にする」

 田所は額を押さえた。


 その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記されていた。


『互いに無関係な死者』

交換殺人とは、動機を隠すために動機を交換する、きわめて本格的な装置である。

犯人のはずなのに、犯人らしく見えない。

その人工性、その冷たさ、その美しさ。

今回はついにそこへ届くかと思われたが、実際に交換されていたのは、

せいぜいただの愚痴であった。

残念ではある。

だが、愚痴と殺意のあいだにある段差を見誤らぬこともまた、探偵の務めである。


 それを横から読んだ田所刑事は、しばらく考えてから言った。


「“残念ではある”が本音すぎるんだよなあ。

 たぶん先生、交換殺人だったらちょっと嬉しかったんだろうなあ……」

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