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第21話 盗まれていない鍵

 その日、明智院金四郎の事務所に持ち込まれた相談は、ひどく古風で、そしてひどく小さかった。


「蔵の鍵が盗まれました」


 そう言ったのは、品の良い老婦人だった。

 灰色の着物をきちんと着こなし、背筋も声もしゃんとしている。年の頃は六十代半ば。古い家の空気を、そのまま人の形にしたような女だった。


 名を、桐生松江という。


「蔵の鍵」

 と田所刑事が繰り返した。

「はい」

 松江は答えた。

「敷地の奥にある小さな土蔵です。古い書付や帳簿、亡夫の遺品などを入れてあります。お金になるようなものはほとんどありませんが、勝手に開けられては困るものばかりで」


 明智院金四郎は、窓際の椅子に深く腰かけたまま、じっと老婦人の顔を見ていた。


 透子はすでに小机で筆記の準備を整えている。

 田所だけが、何となく嫌な予感を覚えていた。


「で、その鍵がないと」

「はい」

 松江は頷いた。

「昨日の夕方には確かにありました。今朝、蔵を開けようとしたら鍵束の中に見当たらず……しかも」


 そこで彼女は少し声を落とした。


「蔵の前に、昨夜それぞれ別の用事で近づいた者が何人かおりました」


 明智院の目が、すっと細くなった。


「来たか」

「まだ来てねえですよ」

 と田所が言った。


「犯人は、この中にいる!!」

 明智院が言った。


「早い早い」

「まだこの中に誰も集まってない」

「概念的にはもう集まっている」

「便利だな、その概念」


 だが透子は、はっとしたように顔を上げた。


「……さすが先生です」

「何がです」

 と田所。


「先生は最初から、“鍵の消失”を単なる物理的な紛失としてではなく、“誰が閉ざされた空間に接近しえたか”という閉鎖状況の問題として見ておられるのですね」

「いや、そこまでは」

 と田所が言いかける。


「つまり先生は、“鍵がない”という一点によって、蔵の周囲がすでに容疑者限定空間へ変質したと」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「もう本人が透子さん待ちになってるんだよなあ」

 と田所。


         *


 桐生家は、郊外に古くから残る屋敷だった。

 今は松江が一人で住んでいるが、敷地内には離れと土蔵があり、近しい親族や古くからの使用人が出入りしているらしい。


 透子が、静かに状況を整理する。


「蔵の鍵を最後に確認されたのは、いつですか」

「昨日の夕方です」

 松江が答えた。

「帳簿を一冊しまって、鍵を閉めました。そのあと、母屋に戻って鍵束を茶の間の引き出しへ」

「鍵束は何本くらい?」

「六本です。勝手口、裏門、納戸、蔵、離れ、それから古い物置」

「蔵の鍵だけがなくなっていた」

「はい」


「なるほど」

 透子はメモを取りながら言った。

「その後、引き出しに触れた可能性があるのは?」


 松江は指を折って数え始めた。


「まず、甥の篤志。家のことを少し手伝ってくれております。それから、住み込みの女中の千代。昨日は親戚の娘の美沙も来ておりました」

「三人ですか」

「ええ。ただ、全員が茶の間に入ったわけではありません」

「蔵の前に近づいたのは?」

「篤志と、美沙と、千代です」

「全員か」

 と田所。


 明智院は、満足そうに頷いた。


「完璧だ」


「何がです」

「容疑者が限定されている」

「別に嬉しがることじゃないだろ」


 透子が静かに言った。


「先生はおそらく、“誰でもない誰か”ではなく、“この中の誰か”として事件を扱えることに、本格的な充足を感じておられるのだと思います」

「ええ、感じております」

 と明智院。

「本人が素直だな」


         *


 話によると、篤志は三十五歳。松江の亡夫の兄の息子で、家の雑務や税のことを見ている。

 美沙は二十代後半、松江の姪。時折遊びに来ては、古い家の空気を嫌がりながらも長居していく。

 千代は五十代の女中で、若いころからこの家にいるという。


「まず篤志さんは」

 透子が言った。

「昨夜、蔵の前に何のために?」

「脚立を取りに行ったそうです」

 松江。

「庭木の手入れをするつもりで」

「で、蔵は開いたんですか?」

 田所が聞く。

「いいえ。“鍵がないのか、開かない”と言ってすぐ戻ってきました」

「ふむ」

 と透子。


「美沙さんは?」

「夜、帰る前に、蔵のそばの石灯籠の写真を撮っていたそうです」

「写真?」

「ええ。何でも、昔の家のものを集めたSNSをしているとかで」

「時代が混ざるな」

 と田所。

「その時、蔵の扉も少し触ったそうです。“重くて開かなかった”と」

「ふむ」


「千代さんは?」

「今朝、私に言われて、蔵の掃除道具を出そうとしたそうです」

「その時も?」

「“開きませんでした”と」


 田所が腕を組んだ。


「なるほど。つまり三人とも、“蔵の前にいた”“扉に触った”“開かなかった”と言ってるわけだ」

「はい」

 透子が頷く。

「そして松江さんは、蔵の鍵だけが見当たらないと判断している」

「まあ、普通は盗まれたと思うな」

「そうですね」

 透子。

「少なくとも第一印象としては」


 すると明智院が、ゆっくり言った。


「密室だ」


「どこが?」

 と田所。

「蔵の鍵が見当たらないだけだろ」

「しかも中に死体があるわけでもない」

「その通り」

 透子がうなずいた。

「物理的には、まったく密室ではありません」

「ほら」

 と田所。


 だが透子はそのまま、静かに続けた。


「ですが、さすが先生です」

「何?」

「先生はおそらく、“蔵が閉ざされていたかどうか”ではなく、“そこが閉ざされていると皆が思い込んだ状態”に着目しておられるのですね」

「……」

 明智院は少しだけ考えた。

「ま、まあそういうことかな」

「出たよ」

 と田所。


「実際」

 透子は言う。

「三人とも“開かなかった”と言っている。つまり、誰もきちんと“本当に施錠されているか”を検証していない可能性があります」

「どういうことです?」

 と松江。


「たとえば」

 透子はメモ帳を閉じた。

「鍵がなくても、扉が重かっただけで開きにくいことはあります。建付けが悪いとか」

「そんなことが?」

「古い蔵ならありえます」

 田所も頷いた。

「鍵がなくても押せば開くのに、閉まってると思い込んで引いただけ、とかね」


 松江が少し目を見開いた。


「……たしかに、あの蔵は雨のあと開きにくくなります」


「先に言ってくださいよ」

 と田所。


 明智院は、得意げに肘掛けを叩いた。


「見たまえ。私は最初から“密室”の本質を見ていた」

「いや、透子さんが今それっぽく再解釈したんでしょう」

「先生の着眼がなければ、この整理には至りません」

 透子は本気で言った。

「すごくわかります」

「どうしてそんなにわかるんだよ」


         *


「ですが」

 透子が言った。

「まだ“盗まれていない”とは言えません。まずは三人の行動をもう少し正確に確認しましょう」


 松江はうなずいた。


 篤志は夕方、脚立を出しに蔵へ向かった。

 その時、美沙は庭にいた。

 千代は台所。

 篤志は“鍵が見当たらないのだろう、開かなかった”と言って戻った。


 美沙は夜、帰る前に写真を撮ったついでに蔵の取っ手を触った。

 その時にはもう暗く、“閉まっているようだったので、すぐやめた”という。


 千代は今朝、松江に言われて掃除道具を出しに行った。

 “確かに開かなかった”と言っている。


「三人とも、鍵を使っていない」

 透子が言った。

「はい」

「そして三人とも、“開かなかった”という認識だけを持ち帰っている」

「そうなりますね」

 と田所。


「つまり」

 明智院が言った。

「犯人は、鍵を盗んでいない」

「えっ」

 と松江。

「急に言い切ったな」

 と田所。


「では何を盗んだのか」

 明智院は、いかにも大仰に言った。

「彼らから“試す意思”を盗んだのだ」

「何言ってんだ」

「いや待て」

 田所が眉をひそめる。

「言い方は変だけど、やろうとしてることはわかるな」

「さすが田所さんです」

 透子が言った。

「先生のおっしゃりたいことを、非常に地上寄りの高度で受け止めてくださいました」

「褒められてるのかそれ」


 透子は続けた。


「つまり、最初に誰かが“開かない”と言ったことで、後の二人も“開かないもの”として扱った可能性があります」

「最初に?」

 と松江。


「篤志さんです」

 透子が言った。

「最初に蔵へ行ったのは篤志さん。そこで“開かなかった”という認識を持ち帰った。それがその後の前提になった」

「でも」

 田所が言う。

「それだけで犯人ってほどじゃないだろう」

「はい」

 透子はうなずいた。

「まだそこまでは」


 明智院が、ゆっくり言った。


「だが怪しい」


「まあ怪しいのは怪しいな」

 田所も認めた。


         *


 ここで松江が、ひとつ思い出したように言った。


「そういえば」

「はい?」

 透子。

「篤志は昨日、“蔵の中の古い書類を、一度整理したほうがいい”と言っておりました」

「書類?」

「ええ。相続には関係ないと思うのですが、古い地所の図面や、昔の借用書のようなものが入っているので」

「なるほど」

 田所。

「中身に触れたい理由はあったわけだ」


「ですが」

 透子は静かに言う。

「それでも、“鍵を盗んだ”とは限りません。鍵がなくても開く状態なら、盗む必要がないからです」

「そうか」

 松江が言った。

「鍵が本当に必要だったとは限らないのですね」

「はい」

「さすが先生です」

 と透子が言った。

「先生は最初から、“鍵の有無”ではなく“閉ざされたという認識”のほうを問題にしておられた」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「もう完全に透子さんの後追いなんだよなあ」

 と田所。


「では」

 透子は、ほんの少しだけ身を乗り出した。

「確認したいのですが、松江さん。今、その蔵の扉は試しましたか?」

「いえ……」

「ここへ来る前に?」

「いえ。鍵がないと思い込んでおりましたので」

「なるほど」


 透子は小さく頷いた。


「先生」

「何だね」

「もしよろしければ」

「うむ」

「現時点での結論を、先生から」

「おや」


 明智院は、満足げに咳払いをした。


「犯人は、この中にいる!!」


「そこから先を言えって毎回言ってるんですよ」

 と田所。


「そして犯人が盗んだのは鍵ではない」

 明智院は言った。

「人々の判断だ。最初に“開かない”と告げることで、後の者たちの手を止めた」

「先生のおっしゃりたいことを、事実関係として整理しますと」

 透子がすかさず受ける。

「蔵は最初から施錠されておらず、ある人物が意図的に“開かない”と思わせた可能性が高い、ということですね」

「その通りだ」

 明智院。

「つまり、篤志さんが最初に蔵を開けて中を確認し、そのうえで“開かない”と偽った?」

 と田所。

「そう考えるのが自然でしょう」

 透子。


「では、鍵は?」

 松江が聞いた。

「鍵そのものは、たぶん盗まれていません」

 透子が言った。

「おそらく別の鍵束に紛れたか、引き出しの中で見落とされているだけです」

「そんな……」

「鍵がない、蔵は開かない、誰かが前にいた。

 この三つが重なると、人はすぐ“盗まれた”と認識します」

「なるほどな」

 田所。

「事件っぽく見えるわけだ」


 そこで明智院が、低く言った。


「だから言っただろう。密室だと」

「言ってましたねえ」

 と田所。

「でもそれ、ほぼ後から透子さんが意味を足してくれた結果なんですよ」

「名探偵の言葉とは、解釈されて完成するものだ」

「それっぽいこと言うなあ」


         *


 翌日、松江から連絡があった。


 蔵は、やはり施錠されていなかった。

 ただ、雨の影響で扉の下が少し膨らみ、押し込むように力をかけないと開かない状態だったという。

 そして蔵の中には、書類の束が一部だけ乱れていた。

 さらに篤志は、問い詰められてすぐに認めた。


 中の古い図面を確認したかった。

 だが、堂々と開けると角が立つので、先に自分だけ見て、その後は「開かない」と言って済ませたのだと。


 なお、蔵の鍵は、松江が普段使わない物置の鍵束に一本だけ差し替えてしまっていた。

 つまり、本当に“盗まれていなかった”のである。


 電話を切ったあと、田所は事務所の椅子に深く座りなおして言った。


「いやあ」

「何だね」

 と明智院。

「今日は透子さんがちゃんとしてましたね」

「ほう」

「いや、いつもちゃんとしてるんですけど、今日は特に」

「ありがとうございます」

 透子は静かに会釈した。


「最初から“盗まれた事実そのものが立ってない”って見てたもんな」

 と田所。

「はい。鍵の盗難を示す直接事実が一つもありませんでしたので」

「法学部だなあ」

「一応」


 明智院は、少しだけ面白くなさそうに言った。


「だが最初に“密室だ”と言ったのは私だ」

「はい」

 透子がすぐ答える。

「さすが先生です」

「えっ」

 と田所。

「まだそこ盛る?」

「もちろんです」

 透子は本気だった。

「先生は最初から、“扉が閉ざされていたかどうか”ではなく、“そこが閉ざされていると皆が思い込んだ構造”を見ておられたのです」

「いや、本人たぶんそこまで」

 と田所が言いかける。


「ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「そこは乗るんだよなあ」

「先生の着眼がなければ、あそこまできれいに整理できませんでした」

「はいはい」

「実際」

 透子は少し目を輝かせて続けた。

「“盗まれていない鍵”という発想は、とても美しいです。

 物が消えたのではなく、人々の認識だけが事件へ変質していく。

 先生は最初からそこを――」

「透子君」

 田所が遮った。

「そこまで行くと、もう先生より話がうまいんですよ」


 透子はきょとんとした。


「そうでしょうか」

「そうです」

「ですが、先生のおっしゃりたいことは本当にすごくわかるので」

「そこなんだよなあ」


 明智院は、満足げに椅子へ深く腰かけた。


「良い助手だろう?」

「ええ」

 と田所。

「ほんとに。今日は特に、“この人ほんとにできるんだな”ってちゃんとわかりました」

「ありがとうございます」

「でも」

 田所は続けた。

「そのうえで、先生の妄言を毎回立派な学説みたいに育てるのは、やっぱりやばいです」

「心外です」

 と透子。

「私はただ、先生の言葉を適切な大きさへ展開しているだけです」

「適切かなあ!?」


 明智院は、窓の外を見ながら低く言った。


「田所君」

「何です」

「事件とは、起きたことだけでできているのではない」

「はい」

「人が“起きたと思い込んだこと”もまた、事件なのだよ」

「うわ、今日はちょっとだけうまいこと言ったな」

「さすが先生です」

 透子が即座に言った。

「事件の本質を、認識論の位相にまで引き上げて――」

「やめろやめろ、また始まる」

 と田所。


 その夜、明智院金四郎の事件ノートには、こう記されていた。


>『盗まれていない鍵』

>鍵は盗まれていなかった。

>だが人は、“鍵がない”と思った瞬間に、

>扉の向こう側を閉ざされたものとして扱い始める。

>事件とは、物の移動ではなく、認識の固定によって生まれることがある。

>密室とは壁ではない。

>疑いと先入観のつくる、目に見えない閉鎖である。

>本日、私はそれを見た。


 それを横から読んだ田所刑事は、しばらく黙ってから言った。


「“密室とは壁ではない”のあたりから先は、

 たぶんだいぶ透子さんが足してるんだよなあ……」

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