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第20話 探偵助手はこの中にいる!

 その日、明智院金四郎の事務所には、午前から妙な緊張感が漂っていた。


 理由は簡単である。


 机の上が片づいていた。


 いつもなら、読みかけの新聞、古い事件資料、よくわからないメモ、飲みかけの紅茶、そして本人にしか秩序が見えていない雑多な紙束が、いかにも“名探偵が何かに耽っている”ふうを装って積み重なっているはずだった。


 しかし今日は違った。

 机の端は揃えられ、ペンはペン立てに収まり、書類は整然と棚へ差し込まれている。


 田所刑事は、事務所へ足を踏み入れた瞬間に言った。


「何だこれ」


「秩序だよ」

 と明智院金四郎は、いつもより少しだけ居心地悪そうに答えた。


「いや、先生」

 と、部屋の奥から若い女の声がした。

「秩序は本来、もう少し早く導入されていてよい概念だと思います」


 田所がそちらを向く。


 見慣れない女がいた。


 二十代後半ほど。

 紺のジャケットに白いブラウス。長い髪は後ろでまとめられている。机の脇に立つ姿は静かで、派手さはないが、不思議と視線を集める落ち着きがあった。


 彼女は田所に向かって、きれいに一礼した。


「はじめまして。真柴透子と申します。本日より先生のお手伝いをさせていただいております」


 田所は少しだけ黙った。


「……誰?」


「助手だ」

 と明智院が言った。


「助手?」


「そうだ」


「あなたに?」


「その言い方は、いささか失礼ではないかね」


「いや、だって今まで助手なんていなかったでしょう」

「今日からいる」

「雑な導入だな」


 透子は穏やかに補足した。


「正式に雇用契約を結んでいるわけではありませんが、当面、依頼記録の整理、事実関係の確認、資料管理、来客応対等を担当させていただきます」

「まともだ」

 と田所が言った。

「めちゃくちゃまともな人が来たぞ」


「それに加えて」

 透子は続けた。

「先生のおっしゃることを、必要に応じて翻訳いたします」

「翻訳」

 田所は繰り返した。

「どこの外国語だよ」

「主に明智院語です」

「言い切ったな」


 明智院は少し満足そうに頷いた。


「彼女は優秀だよ」


「でしょうね」

 と田所。

「で、何でこんな有能そうな人がここに?」


 透子は、少しも迷わず答えた。


「先生を心より敬愛しておりますので」


 田所はまた黙った。

 その答えがいちばん理解できなかったからである。


         *


 真柴透子は、京都大学法学部の出身だという。


 その時点で田所は、やや頭が痛くなった。

 明智院ひとりでも話が大きくなりがちなのに、そこへ法学部卒の有能な助手まで加わったら、現場がどうなるか想像したくなかった。


「それで、先生とは以前からお知り合いで?」

 と田所。


「はい」

 透子は答えた。

「昔、一度だけ、先生と同じ出来事に立ち会う機会がありまして」

「へえ」

「その時、私は事実関係の整理にはある程度成功しました」

「ある程度」

「実質的にはほぼ解決しました」

「言い切るなあ」

「ですが」

 透子は静かに言った。

「先生だけは、私に見えていなかったものを見ていらっしゃいました」


 田所はいやな予感がした。


「何をです?」


「事件が、単なる事件ではなくなる瞬間をです」


「……」

「人は事実だけで動くわけではない。人がなぜそんな不自然な行動をとったのか。なぜそんな形で語ろうとしたのか。先生はそこに触れていらっしゃったのだと思います」


 田所は、ゆっくりと明智院を見た。


 当の本人は、窓際の椅子で足を組み、紅茶を飲みながら、なんとなく深い人っぽい顔をしていた。


「いや」

 田所は言った。

「たぶんこの人、そこまで考えてないですよ」


「田所さん」

 透子は少しだけ驚いたように言った。

「考えていないのに、ああした発言はできません」

「いや、できますよ。この人なら」

「できるかな」

 と明智院が言った。

「ま、まあ、できなくはないかもしれない」

「本人も揺れてるじゃないか」


 だが透子は真顔だった。


「先生は、真実を凡庸なまま終わらせない方です」

「単に“凡庸なまま終わらせたくない”だけなんですよ、たぶん」

「そこに決定的な意志があるのです」

「すごいな。全部盛るじゃん」

 と田所。


         *


 その日の依頼人は、午後二時を少し過ぎたころにやってきた。


 痩せた中年の男で、ひどく落ち着かない様子だった。

 名を荒木といい、近所の小さな出版社で働いているという。


「実は……盗まれたんです」

 椅子に座るなり、荒木はそう言った。


「何が」

 と田所。


「原稿です。うちで預かっていた連載小説の最終話が」

「最終話」

 と明智院が低く言った。

「よい」

「何がだ」

「終わりはいつだって良い」

「雑な名言みたいに言うな」


 荒木によれば、なくなったのは作家から受け取った紙の原稿だった。

 社内ではデータ化前で、複製も取っていない。

 昨日の夕方までは編集部の机にあった。

 しかし今朝出社すると、それだけが消えていたのだという。


「社内には何人?」

 と透子が尋ねる。


「編集が四人、営業が三人、事務が二人です」

「外部からの侵入は?」

「ビル自体は夜間施錠されます」

「なるほど」


 透子は手早くメモを取る。


 一方、明智院はすでに別の角度へ飛んでいた。


「最終話だけが消えた」

「はい」

「つまり犯人は、結末を奪ったのだ」

「まあそうですね」

 と田所。

「作品から、最後の一枚だけを引き抜く。これは単なる盗難ではない。物語そのものへの介入だ」

「好きだねえ、そういうの」

「好きでなければ探偵は務まらない」

「いや務まってるかどうかは別として」


 荒木は少し不安そうに言った。


「先生、やはり社内の人間でしょうか」

「犯人は、この中にいる!!」

 と明智院が言った。


「いないだろ」

 と田所が即座に返した。

「ここ、事務所です」

「概念的にだ」

「概念で犯人の所在地を広げるな」


 透子が、ふっと目を見開いた。


「……さすが先生です」

「何?」

 と田所。

「今のは、単に社内犯の可能性が高いってだけでは」

「いいえ」

 透子は静かに言った。

「先生は、物理的な場所ではなく、“物語に関わる者の閉じた円環”を指しておられるのだと思います」

「思います?」

「つまり編集部という空間は、たとえ壁が薄く、ドアが開いていようとも、哲学的にはすでに閉じている」

「哲学的には閉じてる」

 と田所が繰り返す。

「何だそれ」

「閉じた物語系、ということですね」

「いやわからないです」

「結末を奪えるのは、結末の価値を知る者だけ。先生はそうおっしゃっているのだと」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院が言った。


 田所はゆっくり振り向いた。


「乗るのかよ」


「先生のお考えは、しばしば圧縮されすぎているので」

 透子は穏やかに言った。

「少し展開すると、意味が見えやすくなります」

「展開しすぎて、元の二・五倍くらいになってますけど」

「先生の核は、伸縮性が高いのです」

「核に伸縮性はないだろ」


         *


 荒木の話を聞くかぎり、容疑者は三人に絞られた。


 担当編集の南。

 同じく編集の沢村。

 それから営業部から編集に口を出していた北原。


 南は、作家ともっとも近い立場にいる。

 沢村は、その作家の連載枠を自分の担当作家へ回したがっていた。

 北原は、最終回が地味すぎると以前から不満を言っていたという。


「地味な最終回」

 明智院が言った。

「許しがたい」

「読む前から肩入れするな」

 と田所。


 透子が紙の上に三人の名を書き、事実関係を整理していく。


「昨夜、最後に編集部を出たのは?」

「南です」

 荒木が答えた。

「戸締まりも南が」

「じゃあ南が怪しいじゃないですか」

 と田所。


 だが明智院は、すっと指を上げた。


「単純すぎる」

「珍しくまともだな」

「最後に出た者が犯人など、あまりにありふれている。そんな凡庸な結末を、この事件が許すはずがない」

「事件側に意志を持たせるな」


 透子が、はっと息を呑んだ。


「……なるほど」

「何がなるほどなんです?」

 と田所。


「先生は、“最後に出た者が怪しい”という常識そのものが、犯人に利用されうると見ておられるのですね」

「いや、そこまで言ってない」

 と田所。


「最も目立つ容疑者を先に置くことで、真犯人はその背後へ身を隠す」

 透子は続ける。

「つまりこれは、犯人が自分の姿を原稿の“最後”にではなく、“途中の改行”に紛れ込ませたようなもの」

「たとえが文学寄りすぎるな」

「見たまえ」

 と明智院。

「透子君はわかっている」

「本人も嬉しそうだし」

「ええ、先生のおっしゃりたいことが、すごくわかります」

 透子は本気で言った。


 田所は天井を見上げた。


「だめだ。この人、先生を止めない。悪化させるタイプだ」


         *


 議論はその後も続いた。


 南は最後に編集部を出たが、原稿の扱いには慎重な人物。

 沢村は作家の入れ替えを望んでいたが、昨夜は会食があった。

 北原は最終回に文句を言っていたが、編集部の机に直接触れる立場ではない。


「密室だ」

 明智院が突然言った。


「どこが?」

 と田所。

「編集部のドア、普通に開くでしょう」

「窓もあるし」

 と荒木。


 だが透子はそこでぱっと顔を上げた。


「さすが先生です!!」

「出た」

 と田所。

「すごくわかります!!」

「何がです」

「編集部という空間の問題ではないのですね」

 透子は興奮を抑えきれない声で言った。

「原稿を預かった時点で、その物語はすでに作者の手を離れ、編集部内部の論理に閉じ込められている。たとえ窓が開いていようと、作者にとってはそこは“閉ざされた部屋”と同じ――先生はそういう意味で“密室”とおっしゃったのですね!」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「絶対ちがうだろ」

 と田所。


「単なる物理的な密室ではない。創作物の運命が閉じ込められる場所としての密室」

 透子は完全に乗っていた。

「原稿は外に出られない。だから先生は、まず“原稿が置かれていた意味の閉鎖性”を見て――」

「先生」

 と田所が遮った。

「今、自分でも何言ってるかわかってないですよね」

「わかっています」

 と透子。

「すごくわかります」

「わかっちゃってるんだよなあ、困ったことに」


 荒木が、おずおずと口を挟んだ。


「あの……先生はつまり、編集部の誰かだと?」

「そうだ」

 明智院が言った。

「犯人は、この中にいる!!」

「だから“どの中”なんだよ」


 すると透子がすっとメモを見直した。


「先生」

「何だね」

「いまの“密室”の話で、ひとつ気づきました」

「おや」

「原稿そのものは“編集部から外へ出ていない”可能性があります」

「……ほう」

「原稿を盗んだのではなく、“見えなくした”だけかもしれません」

「それはどういう」

 と田所。


 透子は荒木に向き直る。


「編集部の机は、引き出しがありますか」

「あります」

「最終話は封筒に入っていた?」

「はい」

「その封筒、どんな色です?」

「茶封筒ですが」

「社内の他の書類の封筒と似ていますか」

「似ています」

「なるほど」


 透子は静かに言った。


「北原さんは“最終回が地味だ”と不満を言っていた。沢村さんは連載枠を空けたかった。南さんは最後に施錠した。ですが、この三人のうち、本当に“原稿を消したい”ほどの情熱を持つ人がいたかは微妙です」

「まあ、そこまでは」

 荒木も頷く。

「だとすると、もっと小さい理由の可能性があります」

「小さい理由?」

 田所。

「ええ。つまり、“邪魔だったからどけた”」

「小さいなあ」

「ですが、編集部で起こる紛失としては自然です」


 明智院が深々と頷いた。


「見たまえ、田所君。私は最初から、原稿の“閉じ込められた運命”を見ていた」

「いや透子さんが今、実務的な話に落としたんでしょうが」


 そこへ荒木が、急に「あ」と声を上げた。


「待ってください」

「はい?」

「昨日、北原が机の上を片づけろって騒いでた」

「ほう」

「で、南が“あとでやる”って言ったら、北原が“この茶封筒も邪魔だな”って」

「それだ」

 と田所。

「先に言えよ!」


 荒木は額を押さえた。


「そのあと、北原が棚の資料箱にまとめて放り込んだかもしれません」

「資料箱?」

 透子。

「過去のゲラとか没企画とかを入れてある段ボールです」

「そこ、もう確認したんですか?」

「いえ……」

「確認しましょう」

 と田所。


「待ちたまえ」

 明智院が言った。

「私はまだ、結論を述べていない」

「いや述べなくていいですよもう」

「犯人は、この中にいる!!」

「だから編集部の中だろ」

「そして犯人の動機は、芸術への介入などではない」

「はい」

「机の上が雑だったからだ」

「急にしょぼくなったな」

「しょぼくなったのではない」

 明智院は厳かに言った。

「大事件とは、しばしば小人物によって凡庸に引き起こされる」

「うまいこと言ってまとめるな」


 透子が、少し目を輝かせた。


「……さすが先生です」

「何がさすがなんだ」

 と田所。


「先生は最初から、“これは創作への悪意に見えて、もっと日常的な秩序感覚の衝突かもしれない”と」

「いや、たぶんそこまでは」

 と田所が言いかける。


「つまり先生は、“事件を過剰に見立てることで、逆にその凡庸さを炙り出した”のですね!」

 透子は完全に感動していた。

「大きく語ることでしか、小さな真実に届かないことがある。先生はそこまで――」

「……ま、まあそういうことかな」

 と明智院。

「また乗る!」

 田所が叫ぶ。


         *


 依頼人が帰ったあと、事務所にはしばらく沈黙が落ちた。


 やがて田所が口を開く。


「……よくわかりました」

「何がだね」

 と明智院。

「この人、先生の助手としては完璧です」

「だろう?」

「でも、事件解決の現場にはたぶん危険です」

「なぜ」

「先生の妄言を、先生以上に立派なものへ育てちゃうからですよ」

「育てるという言い方は少々」

 と透子。

「私はただ、先生のお考えを適切に展開しているだけです」

「適切かなあ!?」

「先生の思考は圧縮率が高いので」

「データファイルみたいに言うな」


 透子は少しだけ考えてから、真顔で続けた。


「田所さんは、先生の発言をすぐ額面通りに受け取ってしまう傾向がおありです」

「いや普通そうだろ」

「ですが先生は、より大きな枠組みから物事をご覧になっているので」

「いや、だいたい“犯人はこの中にいる!”が言いたいだけですよ、この人」

「それが重要なのです」

「えっ」

 と田所。


 透子は本気で言った。


「先生は常に、“出来事はもっと事件であるべきだ”という信念を持っていらっしゃる。それは、世界を凡庸なまま受け取らない意思です」

「いやちがうな」

 と田所。

「単に事件を大きくしたいだけなんですよ」

「それを、先生はご自身の美学として引き受けていらっしゃるのです」

「いや引き受けてるっていうか、そうしたいだけで」

「それほど純粋なことが、どれほど稀か」

「おお……」

 と明智院が言った。

「おお、じゃないんだよ。あんた自分で感動するなよ」


 透子は少しも迷わず言った。


「先生は、名探偵であろうとしているのです」

「うむ」

「目の前の出来事が、凡庸なはずがないと信じていらっしゃる」

「うむ」

「そして、その信念の過剰さが、ときに人の見落とす層を照らす」

「うむ」

「やめろ。全部受け入れるな」

 と田所。


「……なるほど」

 田所は額を押さえた。

「やっとわかった」

「何がです?」

 と透子。


「あなた、まともな人じゃない」

「心外です」

「いや、頭はまともなんですよ。むしろよすぎるんですよ。その頭の良さで先生を全部“意味のある存在”にしちゃうから危ないんだ」

「私は事実を見ているだけです」

「違うな。見たいものを、めちゃくちゃ高度に見てるんですよ」

「それは、敬愛の本質ではないでしょうか」

「そういうとこだよ!」


 明智院は満足そうに椅子へ深く座り直した。


「田所君」

「何です」

「良い助手だろう?」

「ええ」

 田所は言った。

「最悪の意味で、ぴったりです」


 透子は少しだけ首をかしげた。


「それは褒めていただいているのでしょうか」

「半分は」

「残り半分は?」

「先生をさらに厄介にする才能があるってことです」

「なるほど」

 透子は静かに頷いた。

「でしたら、やはり適任かと」

「適任って言い切るんだよなあ……」


 窓の外では、午後の光がゆっくり傾き始めていた。

 明智院は紅茶を手に、いつになく満ち足りた顔で外を見ている。

 透子はその横で、きれいな字で依頼記録をまとめていた。

 田所刑事だけが、これから先の厄介さを本能的に察して、ひとり深くため息をついていた。


 その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記されていた。


『真柴透子の初登場』

名探偵には、助手が必要である。

助手とは、単に事実を記録する者ではない。

名探偵の言葉のうち、本人すら気づかぬ核を拾い上げ、

それを世に通じる形へと展開する者である。

本日、私はそのような助手を得た。

心強い。

やや話が大きくなる気もするが、誤差の範囲だろう。


 それを横から読んだ田所刑事は、静かに言った。


「なお、“誤差”どころか先生の話を毎回三倍くらいに盛るので、

 たぶん今後は事件より先に解釈が巨大化するんだよなあ……」

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