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第19話 犯人はもう名乗っている

 事件が起きたのは、午後七時二十八分。


 町内会館の二階、和室《松》で開かれていた「浜霧町防犯パトロール反省会」の最中である。


 もっとも、起きた事件そのものは、驚くほど単純だった。


 会長の浜野が、座卓の上に置かれていた急須の中身を頭からかぶり、飛び上がるように立ち上がったのである。幸い中身は熱い番茶ではなく、すっかりぬるくなった麦茶だった。だが浜野はたいへん怒っていた。


「誰だ! こんなことをしたのは!」


 その問いに、ほとんど間を置かず、一人の男が手を挙げた。


「僕です」

 と、会計係の古橋が言った。


 沈黙。


「……は?」

 と浜野。


「僕がやりました」

 と古橋は繰り返した。

「腹が立ったので」


 さらに深い沈黙。


 座卓を囲んでいた面々が、一斉に古橋を見る。


 防犯委員の三上。

 婦人部長の神谷。

 町内会の若手、佐伯。

 そして、なぜか反省会に顔を出していた名探偵・明智院金四郎。

 ついでに、別件の聞き込み帰りに顔を出していた田所刑事。


「……自白しましたね」

 と田所刑事が言った。


「しました」

 と佐伯が言った。


「しかも、だいぶ素直に」

 と神谷が言った。


 浜野は頭から麦茶を垂らしたまま、古橋を見ていた。


「腹が立ったからって、急須の中身をかけるか普通!」

「だって会長、さっきから同じ話を三回してるんですよ」

 と古橋は言った。

「しかも全部、人のせいにする話だし」


「それとこれとは別だろう!」

「いや、わりと直結してます」

 と古橋。


 そのときだった。


 部屋の隅、床の間の近くで、ゆっくりと一人の男が立ち上がった。


 明智院金四郎である。


 黒い外套。

 鋭い眼差し。

 重々しい沈黙。

 そして、誰がどう見ても犯人が古橋で確定した今、むしろここからが本番だと本気で思っている顔。


「……なるほど」


「来たぞ」

 と田所刑事が言った。


 明智院は、頭から麦茶をかぶった浜野と、素直に手を挙げている古橋と、その周囲の委員たちをゆっくり見渡した。


「諸君」

 彼は低く言った。

「安心したまえ」


「何を」

 と神谷が言った。


「最後のピースが見つかったね」


「いや、もう自分でやったって言ってるんですけど」

 と佐伯が言った。


 しかし明智院は止まらない。

 彼は座卓の前まで進み出ると、一同をびしりと指さした。


「犯人は、この中にいる!!」


 沈黙。


「知ってるよ」

 と浜野が言った。

「もう名乗ったじゃないか!」


「浅い」

 と明智院は言った。


「何が浅いんだ」

 と浜野。

「頭から麦茶かぶってる人間に対して“浅い”は失礼でしょう」

 と田所刑事が言った。


 だが明智院はまったくひるまない。


「たしかに古橋君は、自ら手を挙げた」

「はい」

 と古橋。

「やりました」

「だが、だからといって真に“犯人”であると断定してよいのか?」

「いいだろ」

 と全員が言った。


 明智院は静かに首を振る。


「それではあまりに短い。

 あまりに単純だ。

 あまりに、名探偵の登場にふさわしくない」


「最後の本音が出たな」

 と田所刑事。


 明智院は、座卓の上の急須と湯呑み、それから浜野の濡れた肩、古橋の座っていた位置を順番に見た。


「諸君。

 事件とは、行為だけでは成立しない。

 そこには動機、構造、因果、必然が必要だ」


「いや、腹が立ったからやったって」

 と古橋。

「動機あるじゃないですか」

 と佐伯。


「浅い」

 と明智院。


「今日ずっとそれ言ってるな」

 と神谷。


 明智院は重々しく続けた。


「君たちは今、“急須の中身をかけた者”と“犯人”を同一視している。

 だがそれは、あまりに素朴な理解だ。

 急須を傾けた手と、事件を起こした心は、必ずしも一致しない」


「え、なにそれ」

 と佐伯が言った。

「むずかしそうで、あんまり意味わかんない」

「そうだろう」

 と明智院は満足げにうなずいた。

「だが本質は単純だ。

 手を動かした者と、真に事件を要請した者は、別かもしれないということだ」


「いや、でも古橋さん、腹が立ったって言ってるし」

 と神谷。

「そうなんですよ」

 と古橋。

「かなり自発的でした」


 田所刑事が額を押さえた。


「本人がここまで自主性を認めてるのに、まだ行くのか」

「当然だ」

 と明智院。

「名探偵とは、犯人の自白にも甘えない」


「いや、ちょっとは甘えていいだろ」

 と浜野が言った。

「こっちはもうびしょ濡れなんだぞ!」


 明智院は急須を持ち上げ、その重さを確かめた。


「まず確認しよう。

 古橋君。君はどうやってこれを?」

「普通に持って、こう」

 古橋は実演しかけた。

「やめろ!」

 と浜野が飛び退く。


「つまり」

 と明智院。

「あなたは、自らの意思で急須を手に取り、会長の頭上で傾けた」

「はい」

「その際、ためらいは?」

「そんなになかったですね」

「ほら見ろ!」

 と浜野。


 しかし明智院はそこで、静かに目を細めた。


「だが、ためらいがなさすぎる」


 沈黙。


「え?」

 と古橋。


「人が会長の頭に急須を傾けるには、通常、もう少しだけためらいがあるはずだ」

「そんな一般論ある?」

 と佐伯。


「にもかかわらず君は即座に認めた。

 これは不自然だ」

「いや、やったんだから認めただけです」

 と古橋。

「そうですよ」

 と神谷。

「だいぶ健全だと思うけど」


「そこが盲点だ」

 と明智院は言った。

「健全な自白ほど、危ういものはない」


「言いたいだけだろ、その響き」

 と田所刑事。


 ここで、ずっと黙っていた婦人部長の神谷が、ふと口を開いた。


「でもまあ、古橋さんがキレたの、半分は会長のせいよね」

「半分?」

 と浜野。


「だってさっきから、人の話を遮るし、去年の見回り当番表をなくしたのも若い人のせいだとか言うし」

「実際なくしただろ」

「会長が持って帰ったんでしょう」

「……」

「ほら」

 と神谷。


 明智院の目が光った。


「なるほど」


「今度は何です」

 と田所刑事。


「責任の分配だよ」

「いや、普通の会議の話になってきたな」

 と佐伯。


 明智院は人差し指を立てた。


「古橋君は、たしかに急須を傾けた。

 だが、その行為へ彼を駆り立てたのは誰か。

 ここに、真の犯人がいる」


「いや、腹が立ったのは自分です」

 と古橋。

「そこまで深く他責にしたくないです」

「珍しく立派だな」

 と田所。


「そこが危ない」

 と明智院。

「自己責任の美徳は、ときに真相を曇らせる」


「この人、普通の反省まで嫌うのか」

 と神谷。


 明智院は、ゆっくりと会長・浜野を指さした。


「あなたですね」


 浜野が固まる。


「……は?」

「真の犯人は、あなたです」

「なんで俺が犯人なんだ! 被害者だぞ!」

「たしかに、急須の中身を浴びたのはあなた。

 だが、古橋君の怒りを煽り、委員たちの不満を蓄積させ、ついに事件を成立させた“原因”そのものは、あなたにある」

「原因と犯人は違うだろ!」

「浅い」

「今日はそればっかりだな!」


 神谷が、妙に納得した顔でうなずく。


「でも言いたいことはわかる」

「わかるのかよ」

 と浜野。

「要するに“真にこの事件を起こしたのは誰か”って話でしょ」

「そうだ」

 と明智院は重々しく言った。

「犯人とは、手を動かした者のことではない。

 事件に最もふさわしい責任を持つ者のことだ」


「なんかそれっぽいけど」

 と佐伯。

「法的にはだいぶダメですね」

 と田所刑事。


 古橋が少し困った顔で言った。


「いやでも、会長に腹が立ったのは本当です。

 ただ、だからって“犯人は会長”になると、こっちの加害行為が軽くなる感じでちょっと嫌です」


 明智院は、そこで少しだけ黙った。


「……なるほど」

「また何か見つけた顔してるな」

 と田所。


「最後のピースが見つかったね」


「今回は何です?」

 と神谷。


「共犯だ」


 沈黙。


「共犯?」

 と浜野。

「そうだ」

 と明智院。

「この事件は、単独犯ではない。

 古橋君の手。

 浜野会長の慢心。

 そして、それを止めなかった委員たちの沈黙。

 すべてが揃って初めて、急須は傾いた」


「だいぶ広げたなあ」

 と田所刑事。

「町内会全体が犯人みたいになってる」

「そうとも言える」

 と明智院。


「言えません」

 と田所。


 だが神谷が、また妙に納得した顔で言った。


「でもたしかに、誰かが先に“会長もうそのへんにしなよ”って言ってたら、ここまで行かなかったかもね」

「言ってくれよ!」

 と浜野。

「何で誰も言わないんだ!」

「面倒だったからです」

 と佐伯が言った。


 浜野は言葉を失った。


 古橋はしばらく考えてから、やがて小さく言った。


「……でも、やっぱり急須をかけたのは僕です」

「そこはそうだ」

 と田所。

「会長が面倒でも、町内会が空気悪くても、実行したのはあなたです」


「うむ」

 と明智院はうなずいた。

「物理的犯人は君だ」

「物理的犯人」

 と古橋。

「なんか嫌だな、それ」

「だが、物語的犯人は別にいる」

「物語的犯人って何だ」

 と浜野。


「あなたです」

 と明智院はきっぱり言った。


 浜野は麦茶で濡れたまま、しばらく黙っていた。

 やがて、小さく言った。


「……俺、そんなに感じ悪かったか?」

「かなり」

 と全員が言った。


 その一言が、この夜いちばん揃っていた。


 浜野は、ぬれた肩を見下ろした。


「そうか……」

「そこはちゃんと効くんだな」

 と田所刑事。


 明智院は外套の襟を直し、静かに言った。


「犯人は、この中にいた。

 しかも最初から、自白もしていた。

 だがそれでもなお、事件を名探偵の前に差し出すには、もう一段深い形式が必要だった」


「結局、やりたかっただけじゃないですか」

 と田所。

「違う」

 と明智院は言った。

「私はいつだって、本格にふさわしい真実の形を探している」


「いや、今日は本格っていうか、ただの町内会の揉め事だったけど」

 と佐伯。


「そこが難しい」

 と明智院は真顔で言った。

「現実は、しばしば本格に対して不誠実だからね」


「その言い方はちょっと好き」

 と神谷が言った。


 その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記された。


『犯人はもう名乗っている』

犯人はこの中にいた。

しかも彼は、最初から自ら手を挙げていた。

だが事件とは、手を動かした者だけで閉じるものではない。

そこに至る空気、沈黙、慢心、苛立ち――

そうしたものまで含めて初めて、急須は傾く。

もっとも、それで推理が必要だったかは、また別の話だが。


 それを横から読んだ田所刑事は、静かに言った。


「今回はほんとに、“もう答え出てるのに無理やり名探偵ものにした”だけだったな……」

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