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第18話 未来はすでに散らかっている

 事件が起きたのは、午後八時二分。


 市内の老舗ジャズバー《ブルー・モーメント》の奥席で、常連客の一人である古書店主・三田村が、頭から水をかぶった状態で床に座り込んでいるのが見つかったのである。


 もっとも、死んではいなかった。

 三田村は頭から水をかぶり、椅子からずり落ち、額に小さなたんこぶを作っていたが、意識ははっきりしていた。


「誰だ……! 誰がやった……!」


 そう叫びながら、ややみじめに濡れていた。


 バーの床には割れたグラス。

 倒れた椅子。

 ずれたコースター。

 転がったオリーブ。

 濡れた文庫本。

 そして、なぜかジャズの流れる店内にだけ似つかわしくない、赤いプラスチックの洗面器がひとつ。


「なんで洗面器があるんですか」

 と田所刑事が言った。


「店長が、雨漏り対策で」

 とバーテンダーの久世が言った。

「二階の配管が古くて、ときどき」


「すごく現実的だな」

 と田所は言った。


 《ブルー・モーメント》は、薄暗くて静かな、いかにも“何か意味ありげなこと”が起こりそうな店だった。壁には古いレコードジャケット、カウンターの奥には洋酒の瓶、スピーカーからはピアノの低い音。

 その雰囲気の中で、床に転がる洗面器だけが、妙に生活臭くて浮いていた。


 その場にいたのは四人。


 店主兼バーテンダーの久世。

 常連の翻訳家・真鍋。

 若い会社員の常連・河瀬。

 そして、なぜかその店の隅で一人ウイスキーを飲んでいた名探偵・明智院金四郎。


 さらに、休みのつもりでたまたまその場に居合わせた田所刑事。


「なんでいるんですか」

 と久世に聞かれ、田所は静かに答えた。


「こっちが聞きたいです」


 三田村は、奥の丸テーブルに座っていた。

 グラスは頭上から落ちてきたらしい。

 水は洗面器からぶちまけられたようにも見える。

 そして本人は、「誰かがわざとやった」と主張している。


「喧嘩でもしたんですか?」

 と田所が聞いた。


 三田村は濡れた前髪をかき上げ、不機嫌そうに答えた。


「した」

「誰と」

「店主と」

「店主なんだ」

 と田所は言った。


 久世が苦い顔をする。


「ちょっと本のことで」

「本?」

「三田村さん、古書店やってるんですけど、うちの棚に飾ってた初版本の値段が安すぎるって言いだして」

「安すぎたんですよ」

 と三田村が言った。

「あんな値段で置くくらいなら、俺が買ってやると言ったんだ」

「その言い方がだいぶ嫌味だったんです」

 と久世。


「なるほど」

 と田所刑事。


 そのとき、店の隅でグラスを置く音がした。


 名探偵・明智院金四郎である。


 黒い外套。

 鋭い眼差し。

 重々しい沈黙。

 そして、“床に散らばった物の位置関係”を見た瞬間に、頭の中で急に宇宙の話がしたくなった顔。


「……なるほど」


「始まったな」

 と田所刑事が言った。


 明智院は立ち上がり、割れたグラス、濡れた床、倒れた椅子、オリーブ、洗面器、文庫本を順に見た。

 その目は、実に楽しそうだった。

 人が濡れて座り込んでいる現場で楽しそうなのはどうかと思うが、本人にそういう自覚はたぶんない。


「諸君」

 と明智院は低く言った。

「安心したまえ」


「何を」

 と河瀬が聞いた。


「最後のピースが見つかったね」


「まだ何も始まってないですよ」

 と田所刑事。


 しかし明智院はもう止まらない。

 彼は現場の中央へ進み出て、一同をびしりと指さした。


「犯人は、この中にいる!!」


 沈黙。


「まあ、そうでしょうね」

 と翻訳家の真鍋が言った。

「店の外からグラスが飛んでくるとは思えないし」


「違う」

 と明智院は言った。

「今回は“そうでしょうね”で済ませてよい事件ではない」


「いや、今のところ“濡れて転んだ人がいる”だけなんですけど」

 と田所刑事。


「浅い」

 と明智院。


「今回はそんなに浅くないだろ」

 と田所。


 明智院は静かに人差し指を立てた。


「ラプラスの悪魔という考え方がある」


「何ですそれ」

 と田所刑事。


「もし、この宇宙のすべての粒子の位置と運動が、ある瞬間に完璧にわかる知性がいたなら、

 その知性は未来を完全に予測し、同時に過去も完全に知りうる――という考え方だよ」


 少しの沈黙。


「……え、なにそれ、むずかしそう」

 と河瀬が言った。


「そうだろう」

 と明智院は満足げにうなずいた。

「だが本質は単純だ。

 すべての条件がわかれば、起きたことは必然として再現できる、ということだ」


「今ちょっとだけ賢そうに見えましたよ」

 と田所刑事が言った。

「ちょっとだけな」


「この部屋も同じだ」

 と明智院は続ける。

「椅子の角度、グラスの位置、床の水、落ちた本、洗面器の向き。

 すべてがわかれば、何が起きたかは必然として立ち上がる。

 つまり私は今、この店内におけるラプラスの悪魔になろうとしている」


「スケールが急にでかいな」

 と久世が言った。


「すごい」

 と河瀬が小さく言った。


 明智院は静かに一歩前へ出る。


「犯人は、この中にいる!」


「で、何かわかったんですか?」

 と田所刑事が聞いた。


 明智院は一拍置いた。


「それはまだわからない」


「なんだよ」

 と田所刑事が言った。


「だが、行くべき場所は見えた」

「どこです?」

「宇宙だ」

「現場にいてください」

 と田所刑事が言った。


 久世が額を押さえた。


「毎回こうなんですか?」

「毎回こうです」

 と田所。


 三田村は、濡れた上着の裾を絞りながら不機嫌そうに言った。


「どうでもいいから、誰がやったか早くしろ」

「誰かが洗面器の水をひっくり返して、そのはずみでグラスも落ちたんでしょうね」

 と河瀬が言った。

「普通に考えれば」

「普通に考えれば、ね」

 と明智院が低く言った。

「普通とは、最大の盲点だ」


「今日ほんとに言いたいだけだな」

 と真鍋。


 田所は、ひとつずつ確認し始めた。


「三田村さんは、いつからあの席に?」

「七時半すぎだ」

「久世さんと口論したのは?」

「七時五十分ごろです」

 と久世。

「本の値段の話で」

「そのあと?」

「俺はカウンターに戻りました」

「真鍋さんは?」

「私はずっとこっちの席で飲んでました」

「河瀬さんは?」

「トイレに行って戻ったところです」

「三田村さんの頭上にグラスがある棚とか、吊り下げラックとかは?」

「ありません」

 と久世。

「グラスは普通にテーブルの上です」


「じゃあ、頭上から落ちたわけじゃなくて」

 と田所。

「近くで誰かがぶつけたか、投げたか、転んだか」


 明智院がぴくりと反応する。


「転んだ、か」

「何です」

 と田所。


「最後のピースが見つかったね」

「今回は何です?」

「運動量だ」

「また嫌な方向へ行くな」


 明智院は床に落ちた文庫本を拾い上げた。

 表紙は濡れており、古びた海外ミステリだった。


「この本は誰のものだ」

「俺です」

 と三田村が言った。

「読んでた」

「濡れている」

「見ればわかる」


「だが重要なのはそこではない」

 と明智院。

「本は床に落ち、グラスは割れ、椅子は倒れ、水は散った。

 つまり、この事件は一つの動きではなく、複数の小さな動きが連鎖した結果だ」


「まあ、それはそうでしょうね」

 と真鍋。


「そしてその連鎖を起こした最初の一撃こそ、犯意だ」

 と明智院。


「それっぽいことを言うけど、たぶんただの事故なんだよなあ」

 と田所。


 ここで、河瀬がぽつりと言った。


「あのさ」

「何です」

 と田所。


「そもそも洗面器、なんであんな場所にあるの」

「雨漏り対策で」

 と久世。

「天井からぽたぽた落ちるんです」

「でも、三田村さんの席のすぐ後ろに置いてあるの、だいぶ邪魔では?」

「いや、そこはいつも空席だから」

「今日は?」

「今日は、なぜか三田村さんが“ここが落ち着く”って」

「……あ」

 と全員が少し黙った。


 三田村が顔をしかめる。


「なんだ」

「いや」

 と久世。

「いつもはその席、座らないから」


 田所刑事は現場を見直した。

 三田村の座っていた椅子。

 その後ろ、少し斜めに置かれた洗面器。

 さらにその先、壁際のコート掛け。

 そして濡れた床。


「なるほど」

 と田所。


 明智院がすかさず反応する。


「見えたかね」

「ええ。今回は普通に」

 と田所は言った。


「なんだと」

「河瀬さん、トイレから戻るとき、暗くて洗面器に足を引っかけましたね?」

「……」

「その勢いで水がぶちまけられた。

 三田村さんは背中に水を浴びて驚いて立ち上がろうとした。

 そこで自分の文庫本を落とし、椅子をひっくり返し、テーブルのグラスも落ちた。

 で、額をぶつけた」

「……はい」

 と河瀬が言った。

「だって照明暗いし……」


 沈黙。


「じゃあ、誰も“やって”ないのか」

 と三田村が言った。


「少なくとも、殺意も犯意もないですね」

 と田所。

「ただの転倒事故です」


「なんだよそれ」

「なんだよそれですね」

 と真鍋。


 三田村は濡れたまま、しばらく呆然としていた。

 それから不機嫌そうに言った。


「じゃあ俺は、自分で勝手にびっくりして転んだのか」

「そうなります」

 と田所。

「そしてラプラスの悪魔は?」

 と久世が聞いた。


 全員の視線が、明智院へ向いた。


 明智院は、文庫本を静かに置いた。


「……いや」

 彼は低く言った。

「無関係ではない」


「まだ言うのか」

 と田所。


「この部屋のすべての条件が、最終的にこの事故を生んだのだ。

 洗面器の位置、照明の暗さ、河瀬君の帰路、三田村氏の座った席、本の位置、椅子の脚の角度。

 そのすべてが連鎖し、この結果に至った」


「まあ、たしかにそうですけど」

 と田所。

「それをラプラスの悪魔でやる必要ありました?」

「少しは」

 と明智院は言った。

「言ってみたかったのだろう」

「少しは」

「認めるんかい」

 と久世が言った。


 真鍋が、小さく笑った。


「でも、ちょっとだけ面白かったですよ」

「何がです?」

 と田所。

「バーで急にラプラスの悪魔が出てくるところが」

「それはまあ、わかる」

 と田所は言った。


 明智院は満足げに外套の襟を直した。


「この事件で奪われたものがある」

「なんですか?」

 と河瀬が聞く。


 明智院は、重々しく宣言した。


「三田村氏の尊厳です!!」


 沈黙。


「それはたしかに、だいぶ失われてるな」

 と真鍋が言った。


「濡れて座り込んでましたしね」

 と久世。

「やめろ」

 と三田村が言った。


 その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記された。


『未来はすでに散らかっている』

犯人はこの中にいる、と私は確信した。

だが真実は、犯意でも陰謀でもなく、

洗面器と暗がりと不注意が手を取り合った、きわめて地味な必然だった。

世界のすべてがわかれば未来も過去も見通せるという。

もっとも、だからといって私の推理が当たるわけではないのだが。


 それを横から読んだ田所刑事は、静かに言った。


「最後に自分で言うの、ちょっとずるいな……」

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