第17話 境界のこちら側
事件が起きたのは、午後六時四十分。
市立浜霧美術館の新館二階、《境界展》の内覧会の最中だった。
もっとも、最初に問題になったのは殺人ではない。
展示作品のひとつ、《こちら側とあちら側》が、いつの間にか入れ替わっていたのである。
作品は二枚一組の抽象画だった。
見た目はよく似ている。白い地に黒い直線が一本ずつ引かれていて、片方はわずかに線が左へ寄り、もう片方は右へ寄っている。作者いわく、「ほとんど同じに見えるが、決定的に違う二枚」らしい。素人目には、説明されてもなお「ほとんど同じだな」としか思えないものだったが、学芸員にとってはそうではないらしい。
「違うんです! 左右が逆なんです!」
と学芸員の仁科が青い顔で言った。
「展示の意味が、まるごと崩れるんです!」
「展示の意味ってそんな脆いんですね」
と田所刑事が言った。
会場にいたのは限られた人間だけだった。
学芸員の仁科。
企画担当の館長補佐・野々村。
招待作家の朝比奈。
スポンサー企業の広報・水谷。
そして、なぜか内覧会に紛れ込んでいた名探偵・明智院金四郎。
さらに、田所刑事。
「なんで美術館にまでいるんですか」
と仁科が聞いたとき、田所は静かに答えた。
「こっちが聞きたいです」
《こちら側とあちら側》は、狭い通路を挟んで向かい合うように展示されていた。
だが、今は左右が逆だという。
本来こちらにあるべき絵が向こうにあり、向こうにあるべき絵がこちらにある。
「いつ気づいたんです?」
と田所が聞く。
「さっきです」
と仁科。
「作家の朝比奈先生が、“誰ですか、逆にしたの”って」
「ご本人が?」
「はい」
「じゃあ、ご本人しか違いわからないんじゃ?」
「そんなことはありません!」
「でも最初に気づいたの本人なんですよね」
「……はい」
そこで、明智院がゆっくりと絵の前へ進み出た。
「……なるほど」
「始まったな」
と田所刑事が言った。
明智院は、右の絵、左の絵、その間の細い通路を順に見た。
そして、重々しく振り返る。
「犯人は、この中にいる!!」
沈黙。
「まあ、そうでしょうね」
と館長補佐の野々村が言った。
「内覧会ですし」
「違う」
と明智院。
「今回は“そうでしょうね”で済ませてよい事件ではない」
「いや、絵が左右逆になっただけですよ」
と水谷が言った。
「いや、それだけではない」
と仁科が言う。
「これは展示全体の思想の破壊なんです」
「思想の破壊、ねえ」
と田所が言った。
そのときだった。
通路の奥、展示室の隅で、何かが倒れる音がした。
全員がそちらを振り向く。
床に倒れていたのは、朝比奈ではなかった。
スポンサー企業の広報、水谷だった。
胸元には、展示用キャプションを固定していた細い金属ピンが深く突き立っている。
美術館は、一瞬で静まり返った。
「……死んでる」
と田所刑事が言った。
さっきまで「左右が逆」だっただけの空気が、一気に変わった。
仁科が後ずさる。
野々村が口元を押さえる。
朝比奈は絵の前に立ったまま動かない。
そして明智院だけが、やや満足げに息を吸った。
「なるほど」
「嬉しそうに言うな」
と田所刑事が言った。
展示室はすぐ封鎖された。
内覧会は招待客が少なく、事件の瞬間に中にいたのは、この五人だけだった。
警備員が来るまでのあいだ、田所が現場を仕切るしかない。
「確認します」
と田所。
「第一に、絵を入れ替えた人間。
第二に、水谷さんを殺した人間。
同一犯かどうかはまだ不明。
ただし、犯人はこの中にいる可能性が極めて高い」
「ほら見たまえ」
と明智院。
「私の言う通りだ」
「今のは誰でも言えます」
朝比奈が、ようやく口を開いた。
「絵を入れ替えたのは、たぶん水谷さんよ」
「なぜそう思うんです?」
と田所。
「さっき、“違いなんて誰にもわからないでしょう”って言ってた」
「言ってましたね」
と仁科が言う。
「だから腹が立って、展示を茶化すつもりで」
「可能性はある」
と田所。
「そして殺された」
と明智院が言った。
「つまりこれは、二つの境界をめぐる事件だ」
「また始まった」
と田所刑事が言った。
明智院は静かに人差し指を立てた。
「皆は今、“絵を入れ替えた者”と“人を殺した者”を別々に考えている。
だが、その分け方はあまりに素朴すぎる」
「嫌な予感しかしませんね」
と野々村。
明智院は重々しくうなずく。
「数学に、デデキントの切断という考え方がある」
「何ですそれ」
と田所刑事。
「雑に言えば、“ずっと続いているものを、ここから先は向こう側だと決める方法”だ」
少しの沈黙。
「雑に言っても難しいな」
と田所刑事。
「難しく聞こえるだろう。
だが本質は単純だ。
境界は、自然にそこにあるのではない。
我々がどこで分けるかによって現れる」
「それ、事件に関係あるんですか?」
と仁科が聞いた。
「大いにある」
明智院は言った。
「君たちは今、“悪戯と殺人”“展示と現実”“こちら側とあちら側”を、当然のように別々のものとして切っている。
だが、その切り方そのものが間違っていれば、真相は永遠に現れない」
「おお……」
と野々村が思わず言った。
田所刑事がすぐに聞く。
「で、今回は何が間違ってるんです?」
明智院は一拍置いた。
「それはまだわからない」
「なんだよ」
と田所刑事が言った。
だが不思議なことに、一瞬だけ全員が「何か深い話を聞いた気」にはなっていた。
気だけだったが。
田所はため息をつき、現場に戻る。
水谷は展示室の奥、ちょうど《こちら側とあちら側》の通路を抜けた先で倒れていた。
つまり彼は、絵の配置を見てから奥へ進み、その先で刺されたことになる。
「ここ、見てください」
と仁科が言った。
壁のキャプションプレートが一枚、少し傾いている。
プレートを留めていた金属ピンが一本抜けていて、それが凶器になったらしい。
「近くに立って、すっと抜けば使えますね」
と田所。
「つまり」
と明智院が言う。
「犯人は、美術館という空間に慣れた者だ」
「それっぽいな」
と野々村。
「学芸員の仁科さんですね」
と明智院は即答した。
「早いな!」
と仁科が言った。
「どうしてです!」
「展示の意味に最も執着し、ピンの位置も知っている。
しかも“左右が逆”になったことに一番激しく反応していた」
「そりゃ担当だからです!」
「担当だから怪しい」
「雑だなあ」
と田所。
明智院は続ける。
「水谷氏が展示を茶化した。
君は怒った。
そして、“違いのわからぬ者に境界の罰を”と――」
「そんな詩みたいな理由で刺しません!」
と仁科。
「では野々村さん。あなたですね」
と明智院。
「早いな、二人目」
と野々村。
「館長補佐。
予算とスポンサーの板挟み。
水谷氏に振り回され、企画展の意図を曲げられてきた。
動機は十分だ」
「それはちょっとあるけど」
と野々村は言った。
「だからって殺しませんよ」
「ちょっとあるんだ」
と田所。
朝比奈が、そこでぽつりと言った。
「でも、殺すなら私のほうがありそうじゃない?」
「え?」
と仁科。
「だって私の作品を茶化されたのよ。
しかも“違いなんて誰にもわからない”って。
作家としては普通に腹立つわ」
明智院の目が光る。
「なるほど」
「その“なるほど”はだいぶ危険だな」
と田所。
「作家は世界の境界を作る」
と明智院は言った。
「自分の引いた線を、他人に踏み越えられることを許さない。
つまり朝比奈先生、あなたは――」
「違うわよ」
と朝比奈は言った。
「私はあの人を殺してない。
でも、絵を入れ替えたのはあの人だと思う」
「根拠は?」
と田所。
「癖よ」
と朝比奈。
「水谷さん、何かを茶化すとき、必ず“実際に少し触る”の。
作品に軽く触るとか、椅子の向きを勝手に変えるとか。
“違いなんてない”って言いながら、確かめるために自分で線を踏みにいく人だった」
「それはだいぶ嫌な人だな」
と田所。
「でも、それで誰かに殺されるかな」
と野々村。
そこだった。
田所刑事が、入れ替わった二枚の絵を見比べて、ふと眉をひそめた。
「……ん?」
「どうしました」
と仁科。
「この絵、入れ替わってるんですよね」
「はい」
「でも、留め具の位置が同じだ」
「ええ」
「だったら、いちいち外して掛け替えなくても……」
彼は通路の真ん中に立ち、首を左右へわずかに振った。
左の絵は、通路のこちらから見ると左寄りに見える。
だが、通路を一歩越えて向こう側から振り返ると、印象が反転する。
そして照明の角度のせいで、線の位置関係まで逆転して見えた。
「ああ」
と田所が言った。
全員が黙る。
「……これ、入れ替わってないですね」
「は?」
と仁科。
「いや、そんなはずは」
「いや、ある」
と朝比奈が言った。
「そうか。
鑑賞動線が逆になったのね」
仁科が目を見開く。
「動線?」
「ええ。
この展示、本来は入口から左回りで見る設計だった。
でも水谷さんが途中でスポンサー導線の都合でパネル位置を変えたから、人が右回りで入るようになった。
そのせいで、“こちら側とあちら側”の意味だけが逆転して見えた」
沈黙。
「つまり」
と田所。
「絵そのものは入れ替わっていない。
見る側の位置が変わっただけ」
「……デデキントの切断っぽいですね」
と野々村が言った。
「急に回収するな」
と田所。
明智院は腕を組んだまま、少しだけ気まずそうだった。
だがまだ崩れない。
「つまり、我々は“絵が入れ替わった”と思い込んでいた。
だが実際には、“見る位置”が変わっていた」
「そう」
と朝比奈。
「水谷さんはそこに気づいて、勝手に笑ってたんだと思う。
“違いなんて、見る位置で変わるじゃないか”って」
「そこまで言ったんですか」
と田所。
朝比奈はうなずく。
「言ったわ。
“要するに、どっちがこちら側かなんて、スポンサーの都合で変わるんだね”って」
野々村の顔が、そこで変わった。
仁科がそれに気づく。
「……野々村さん?」
館長補佐の野々村は、しばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「だって、あんまりじゃないですか」
「何が」
と田所。
「私、この展示のために半年、頭下げて、予算取って、作家に謝って、スポンサーの無理も飲んで、ようやく形にしたんですよ。
それをあの人、“どっちがこちら側かなんて、どうでもいい”みたいに」
「それで刺した」
と田所。
「近くにピンがあったから」
と野々村は言った。
「本当に、一瞬だったんです。
まさか本当に死ぬなんて、思ってなかった」
明智院が、ゆっくりうなずいた。
「なるほど。
犯人はこの中にいた。
しかも、“こちら側”を守ろうとした人間だったか」
「そこだけ切り取ると少しかっこいいな」
と田所。
仁科はへたり込み、朝比奈は長く息を吐いた。
「結局」
と田所刑事が言った。
「最初の“絵が入れ替わった”という前提からして、半分間違ってたんですね」
「ええ」
と朝比奈。
「位置が変われば、境界の見え方も変わる。
そこまでは、この人の言うことも少しは正しかったのかも」
全員の視線が、明智院へ向いた。
明智院は咳払いした。
「もちろんだ」
「でも、だからといって最初に仁科さんを犯人にしたのは雑でしたよね」
と田所。
「そこは認める」
「素直だな」
明智院は、改めて絵の前に立った。
「デデキントの切断というのはね」
と彼は言った。
「連続しているものに、こちら側とあちら側の境界を与える考え方だ。
だが今回、我々は最初から“絵が入れ替わった側”と“入れ替わっていない側”に世界を切ってしまっていた。
その切り方自体が間違っていたんだ」
「今言うと少しだけよく聞こえますね」
と仁科が言った。
「最初にそれで犯人まで当ててればもっとよかったんですけどね」
と田所が言った。
「それはまだわからない」
と明智院は言った。
「もう全部終わってるんだよ」
と田所刑事が言った。
その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記された。
『境界のこちら側』
犯人はこの中にいた。
だが、その前に我々自身が事件をどう切り分けていたかを疑うべきだった。
こちら側とあちら側は、自然にそこにあるのではない。
どこに境界を置くかで、真相の見え方そのものが変わる。
もっとも、だからといって私の推理が当たるわけではないのだが。
それを横から読んだ田所刑事は、静かに言った。
「最後に自分で認めるのは、ちょっとずるいな……」




