第15話 そこにいたはずの女
事件が起きたのは、午後六時二十分。
市内でも少し高級な部類に入る日本料理店《水明》の離れ座敷で、地元の実業家・長瀬邦彦が、顔を真っ赤にして床に倒れているのが見つかったのである。
もっとも、死んではいなかった。
長瀬邦彦は倒れていたというより、のどを押さえて苦しんでいた。医者が来るころにはだいぶ落ち着いていて、結局のところ、甲殻類アレルギーの発作だったと判明した。
だが問題は、彼が倒れる直前にこう叫んだことだった。
「おい、あの女はどこへ行った!?」
そして座敷にいた全員が、たしかに「女がいた」と証言していることだった。
もっとも、誰もその女の顔をきちんとは見ていなかった。
離れ座敷《松の間》には、長瀬邦彦のほかに四人がいた。
秘書の塩見。
取引先の社長・鶴岡。
老舗呉服店の女将・志乃。
そして料理店の若い仲居・美月。
障子越しに料理が運ばれ、盃が交わされ、話題がいくつか移ったあとで、ふいに長瀬がエビ真丈を口にした。直後、彼は真っ青になり、立ち上がりかけ、そして部屋の隅を見て叫んだのだ。
「おい、あの女はどこへ行った!?」
その「あの女」が、いない。
店の帳場にも、厨房にも、そんな人物はいない。
離れへ出入りしたのは仲居の美月だけ。
それなのに全員が、なぜか「途中からもう一人、女がいた気がする」と言うのである。
「なるほど」
と田所刑事が言った。
「最初からいない人を、いたと思い込んだ可能性が高いですね」
「いや、いたんですよ」
と秘書の塩見が言う。
「たしかにいた。着物姿で、隅のほうに」
「顔は?」
「……そこまでは」
「会話した?」
「してません」
「じゃあ美月さんじゃないですか」
「いや、美月さんとは別にもう一人いた気がするんです」
「“気がする”がもう危ないんだよな」
と田所刑事。
そのとき、離れの廊下の向こうから、ゆっくり黒い影が現れた。
名探偵・明智院金四郎である。
黒い外套。
鋭い眼差し。
重々しい沈黙。
そして「誰もちゃんと見てない謎の女」と聞いた瞬間に、頭の中で勝手に事件を三段階くらい育てている顔。
「……なるほど」
「来た」
と田所刑事が言った。
「そして今、だいぶよくない方向に想像してますね」
明智院は障子の内側を見渡し、長瀬邦彦の座っていた位置、料理の並び、そして部屋の隅の花瓶を見つめた。
「諸君」
彼は低く言った。
「安心したまえ」
「何を」
と女将の志乃が聞いた。
「最後のピースが見つかったね」
「まだ何も始まってませんよ」
と田所刑事。
しかし明智院はもう止まらない。
彼は座敷の中央へ進み出て、一同をびしりと指さした。
「犯人は、この中にいる!!」
沈黙。
「まあ、そうでしょうね」
と鶴岡が言った。
「外から誰か入ったわけでもなさそうだし」
「違う」
と明智院。
「今回は“そうでしょうね”で済ませていい事件ではない」
「いや、アレルギー発作なんですけど」
と田所刑事。
「その発作を引き起こしたのは、偶然か、故意か。
そして長瀬氏が見た“あの女”とは誰か。
これは明らかに、心理の迷宮だ」
「ちょっと言い方がうまいのが腹立つな」
と塩見。
長瀬邦彦は、少し落ち着いた顔で座布団に座りなおしていた。
「俺は確かに見たぞ」
「何をです?」
と田所が聞く。
「女だ。
着物で、白っぽい顔で、部屋の奥にいた。
こっちを見ていた気がする」
「気がする、ね」
と田所。
「しかもその直後に、料理が来て、俺は食った。
そしたらこれだ。
どう考えても、あの女が何かしたんだろう」
「いや、そもそもアレルギーあるのにエビ真丈食べたのがよくないでしょう」
と仲居の美月が言った。
「お品書きにも書いてありましたし」
「小さかったんだよ」
「ちゃんと読んでください」
明智院の目が光る。
「なるほど。
つまり犯人は、“見えていた情報”ではなく、“見えていなかった情報”を利用した」
「まあ、それはアレルギー事故全般そうですね」
と田所。
明智院は、仲居の美月を見た。
「あなたですね」
「早いな」
と美月。
「料理を運び、客の視線を誘導できる。
しかも座敷に自然に出入りできる。
つまり“謎の女”を出現させることも、料理に仕掛けることも可能だ」
「いや、私は一人しかいませんけど」
と美月。
「分身しろってことですか?」
「浅い」
と明智院。
「今回は別に浅くないだろ」
と田所。
女将の志乃が静かに言う。
「でも、美月ちゃんが犯人なら、わざわざ“謎の女”なんて遠回りなことしない気もするわ」
「遠回りこそが真実を隠す」
と明智院。
「探偵が言うと説得力薄いな」
と鶴岡。
ここで秘書の塩見が口を挟んだ。
「そもそも、長瀬さんはアレルギーのこと、先方にちゃんと伝えてたんですか?」
「伝えてた」
と長瀬。
「たぶん」
「たぶん?」
「前にどこかで言った気がする」
「それ一番ダメなやつですよ」
と田所刑事。
すると鶴岡が言った。
「いや、僕も聞いてない。
でも確かに今日は、途中で誰か女の人がいたような気がしてたんだよな」
「どこに?」
と田所。
「部屋の隅。床の間の近く」
全員の視線が、床の間へ向く。
そこには花瓶と掛け軸、それから背の高い姿見が置かれていた。
「……あ」
と田所刑事が言った。
明智院がぴくりと反応する。
「何か見えたかね」
「ええ、だいぶ」
と田所。
彼は立ち上がり、部屋の入口側へ移動した。すると、姿見の中に、ちょうど廊下側を行き来する美月の姿が斜めに映り込む。しかも掛け軸の影と重なって、座敷の奥にもう一人、着物姿の女が立っているように見えた。
「これだ」
と田所が言った。
「姿見ですよ」
全員が黙る。
「入口から見ると、美月さんの姿が鏡に映る。
しかも座った位置によっては、反射の角度のせいで“部屋の奥に別の女がいる”ように見える」
「……ほんとだ」
と塩見が言った。
「じゃあ、“あの女”って」
と長瀬。
「鏡に映った仲居さんですね」
と田所。
沈黙。
「ものすごく普通だな」
と鶴岡。
「心理的な盲点ですね」
と志乃が言った。
「“別の人がいる”と思い込んだら、そう見えてしまう」
明智院だけが、まだ立ったままだった。
「……いや」
「まだ何か」
と田所刑事。
「最後のピースが見つかったね」
「今回は何です?」
「鏡だ」
「まあそうでしょうね」
だが明智院は納得しきっていない顔だった。
なにせ“謎の着物の女”が、ただの反射で終わってしまったのだ。本格として、彼の中ではやや品がない。
「しかし」
彼は静かに言った。
「それだけでは終わらない。
鏡が誤認を生んだとしても、アレルギー発作は現実だ。
つまりこの事件には、二つの真実がある」
「また“ひとつかふたつ”のやつですか」
と田所。
「そうだ」
と明智院。
「一つ目。“女がいた”という誤認。
二つ目。“なぜエビ真丈が出たか”という現実」
そこはたしかにその通りだった。
田所は女将の志乃に聞いた。
「予約時にアレルギーの申告は?」
「受けていません」
「長瀬さん」
「だから、前に言った気がするんだよ」
「いつ、どこで」
「……半年前の会食?」
「この店で?」
「いや、別の店かも」
「もうダメですね」
と田所刑事。
美月が小さく手を挙げる。
「でも、一応確認のために、私は料理を出す前に“本日の椀種は海老です”って言いましたよ」
「言ってたわね」
と志乃。
「私も聞いた」
と鶴岡。
長瀬が固まる。
「……そうだっけ」
「言いました」
と美月。
「でもそのとき、長瀬さん、“ああ”って生返事して、ずっと鏡のほう見てました」
また沈黙。
「つまり」
と田所刑事。
「長瀬さんは、鏡の中の“もう一人の女”に気を取られて、料理の説明をまともに聞いてなかったわけですね」
「……」
「しかも、アレルギー申告もちゃんとしてなかった」
「……」
「今回、いちばん悪いの長瀬さんでは?」
と鶴岡が言った。
明智院が、そこで静かにうなずいた。
「その通り。
犯人は、この中にいる!」
「まあ今回は本当にそうですね」
と田所。
明智院はびしりと長瀬を指さした。
「長瀬邦彦。あなたです」
「俺かよ」
「あなたは“謎の女”という物語に気を取られ、現実の注意を聞き逃した。
その結果、自分で自分を倒した。
つまりこの事件で最初に罠にかかったのは、犯人でも被害者でもない。
あなた自身の思い込みだ」
長瀬はしばらく黙っていたが、やがて不承不承うなずいた。
「……たしかに、女がいたと思った瞬間、そっちに気がいってた」
「人は、自分が見たいものを見るんですよ」
と志乃が静かに言った。
「鏡の中ですらね」
明智院は満足げに外套の襟を直した。
「この事件で奪われたものがある」
「なんですか?」
と塩見が聞く。
明智院は、重々しく宣言した。
「あなたの注意力です!!」
沈黙。
「今回はわりとその通りだな」
と田所刑事が言った。
「珍しく言い過ぎじゃなかった」
と美月。
「ていうか、これ事故ですよね?」
と鶴岡。
「ほぼそうです」
と田所。
「でも、“鏡の中のもう一人”を利用した心理的な盲点という意味では、なかなかきれいでした」
明智院は静かにうなずく。
「物理トリックは安い。
だが人間は、自分の脳で自分を騙す。
それがいちばん手に負えない」
「今それを言うと、ちょっとだけかっこいいんだよな」
と田所刑事。
その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記された。
『そこにいたはずの女』
犯人はこの中にいた。
ただしそれは鏡の向こうの誰かではなく、
鏡を見た瞬間に“もう一人いる”と補ってしまう側の心だった。
人は、見えたものを信じるのではない。
信じたいかたちに、見えたものを整えてしまう。
心理的な盲点とは、そういう静かな自作自演なのだろう。
それを横から読んだ田所刑事は、静かに言った。
「今回はほんとに、トリックより被害者の不注意が強かったな……」




