第14話 孤島の館と立ち上がらない祖父(後編)
夜の海は、朝になっても機嫌を直さなかった。
窓の外では鉛色の波が崖を打ち、館の白い壁に鈍い光を返している。船はまだ出せない。無線もつながらない。孤島の館は、昨日よりさらに静かで、昨日よりはっきりと閉じていた。
談話室には重い沈黙が落ちていた。
死体は二つ。
一つ目は顧問弁護士・滝沢修司。
二つ目は介助人・小田切由利。
そして二つ目の現場は、盲目で車椅子の老人――白藤宗一郎の部屋だった。
そうなれば、明智院金四郎がどうなるかは、もう説明するまでもない。
彼は窓辺に立ち、海を見ているつもりの顔をしていた。実際には海なんか見ていない。ただ、自分の中で一番劇的な真実が海の向こうからやって来るのを待っているだけだ。
「諸君」
やがて明智院は振り返った。
「安心したまえ」
「嫌な予感しかしません」
と田所刑事が言った。
明智院は静かにうなずく。
「最後のピースが見つかったね」
「前編の最後にも聞きました」
と澪が言った。
「今回は何だったんです?」
と田所。
明智院は、満を持して宗一郎のほうを向いた。
「“立ち上がる理由”だよ」
正臣が眉をひそめる。
桐野は無表情。
澪は疲れた顔で息を吐いた。
宗一郎だけが、少しだけ笑ったように見えた。
明智院はゆっくり歩き始める。
「第一の殺人。弁護士が刺された資料室には、車椅子の痕が残されていた。
第二の殺人。介助人は、宗一郎氏の部屋で殺された。
そして二つの事件の中心には、常に盲目で車椅子の老人がいる」
「だから何だ」
と正臣が言った。
「だから、こう考えるのが自然だ」
と明智院。
「白藤宗一郎。
あなたは本当は見えている。
そして、本当は歩ける」
沈黙。
田所刑事が額を押さえた。
「始まったな」
「やはりそうか」
と明智院は一人で深くうなずいた。
「盲目の老人。車椅子の老人。
だがそれは、孤島の館にふさわしい偽装だったのだ」
「なんでそうなる」
と澪が言った。
「考えてみたまえ。
見えないふりをしていれば、人はあなたの前で油断する。
歩けないふりをしていれば、誰もあなたを疑わない。
つまり最強の無罪装置だ」
「無罪装置って言うな」
と田所。
明智院は宗一郎の前で立ち止まり、低い声で言った。
「この館のすべてを知り尽くした老人。
夜の廊下の距離も、部屋の位置も、鍵の所在も。
あなたは見えないふりをしながら、すべてを見ていた。
動けないふりをしながら、すべての死へ近づいていた。
犯人は、この中にいる!
そしてその中心にいる!
白藤宗一郎――あなたですね!」
サロンの空気がぴたりと止まった。
正臣が喉を鳴らす。
澪が顔をこわばらせる。
桐野でさえ、ほんの少しだけまばたきをした。
宗一郎はしばらく黙っていたが、やがて疲れた声で言った。
「……立てるなら、先に立っとるわ」
沈黙。
田所刑事が小さく言った。
「今夜いちばん正しい一言でしたね」
明智院が振り返る。
「何?」
「その人、昨夜から一回も自力で立ってないでしょう」
「演技かもしれない」
「膝の拘縮も?」
「……」
「診察したわけじゃないけど、由利さんがいないとベッドから車椅子への移乗も無理そうでしたよ」
「だからこそ完璧な偽装なんだ」
「苦しいなあ」
と田所は言った。
しかし明智院は引かない。
「宗一郎氏は盲目だ。
だからこそ、見えるふりは完璧だ。
車椅子だ。
だからこそ、歩いた瞬間の衝撃は決定的だ」
「“だからこそ”で全部押し切ろうとするな」
と澪が言った。
宗一郎は肘掛けの上で指を軽く叩いた。
「探偵くん。
わしが今ここで立って歩けば、君の勝ちかね」
「歩けるのなら、話は早い」
「歩けんよ。
立てるなら、もう少し楽に暮らしておる」
田所刑事はそこで、わざとらしく咳払いした。
「じゃあ、現実の話をしましょうか」
明智院が不満そうに顔を上げる。
だが田所は無視した。
「まず第一の殺人。資料室に残っていた車椅子の痕。
あれ、宗一郎さんの今使ってる車椅子の痕じゃありません」
全員の顔が上がる。
「どういうことです?」
と正臣。
「タイヤの溝が違うんです」
と田所は言った。
「宗一郎さんの現用の車椅子は、右輪の外側がかなり摩耗している。
でも資料室の痕は左右とも均一だった。
つまり、別の車椅子」
「予備の車椅子……」
と澪が呟く。
桐野が、ほんのわずかに視線を動かした。
「宗一郎さんの部屋に置いてあったやつですね」
と田所が言う。
「昨夜、二件目の現場で窓際に止まっていた」
明智院がそこで食いつく。
「見たまえ!
やはり老人は予備を使い分け――」
「違います」
と田所がぴしゃりと言った。
「使ったのは、老人本人ではなく、予備車椅子を持ち出せた人物です」
サロンが静まり返る。
「そしてもう一つ」
田所は続けた。
「宗一郎さんが“第一の殺人の少し前に聞いた”と言った音。
“右が少し重い。古い底。湿った板をこするような音”。
あれは車輪の音じゃない。靴です」
宗一郎は何も言わない。
「しかも、その特徴にぴったり合う靴が一つある」
田所は執事の足元を見た。
「桐野さん。あなたの右靴です」
執事の桐野は、相変わらず姿勢を崩さなかった。
ただ、返事もしなかった。
「昨日、あなたが履いていた仕事靴」
と田所。
「右だけ踵に金具の補修が入ってる。
古い底で、湿った板をこするような音がする。
資料室の前の廊下で、私もさっき聞きました」
澪が、息をのむように桐野を見る。
「……桐野さん?」
明智院がそこで不機嫌そうに口を挟む。
「いや待ちたまえ。
執事の靴が鳴るからといって、それだけで二人の殺人を――」
「それだけではありません」
と田所は言った。
「二件目の由利さんの部屋。
あそこは“閉ざされた密室っぽく”見えました。
でも別に密室じゃない。
自動で閉まる錠前に、マスターキーが必要だっただけです」
正臣が顔を上げる。
「マスターキー……」
「執事の桐野さんが持っていた」
と田所。
「昨夜、由利さんが宗一郎さんを部屋へ送ったあと、みんながサロンに残っているあいだ、あなたは“館内の鍵を確認してきます”と言って席を外した。
その時間がある」
桐野はそこで、初めて小さく息を吐いた。
「……二件目まで見抜かれるとは思いませんでした」
その一言で、サロンの空気が変わった。
澪が立ち上がる。
「桐野さん……!」
「座りたまえ」
と明智院が言った。
「ここからは推理の時間だ」
「今すごく邪魔です」
と田所刑事。
桐野は窓の外の海を一度見た。
逃げ場のない景色だった。
「一件目は滝沢先生です」
と田所が言う。
「理由は、遺言ですね」
田所はテーブルに二通の書類を置いた。
「一つは古い遺言書の控え。
もう一つは、新しい草案。
古いほうでは、館の管理とかなりの財産が、長年仕えた桐野さんに渡る内容だった」
正臣が絶句する。
「そんなものが……」
「ええ」
と田所。
「だが新しい草案では、その内容が消えている。
館は澪さんへ。島の土地の一部は公益財団へ。
桐野さんには功労金だけ」
澪が小さく首を振った。
「祖父は、変えるつもりだったのね」
「気づいたんでしょう」
と田所が言う。
「桐野さんが館の名義や島の施設利用について、勝手に外部と話を進めていたことに」
宗一郎が、そこで初めて口を開いた。
「館は白藤のものだ。
だが島は、わし一人のものではない。
あいつは、館ごと島を自分の人生に組み込んでいた」
桐野の唇が、わずかにゆがんだ。
「組み込んで何が悪いんです。
私は四十年、この館だけを見てきた。
あなたの息子は街で事業に失敗し、孫娘は島を出たがっている。
この館を本当に守るのは誰です?」
「守ると奪うは別だ」
と田所が言った。
桐野は笑わなかった。
笑う余裕がもうなかったのだろう。
「滝沢先生は、新しい草案を持ってきた。
しかも“今夜こそ印をもらう”と」
と田所。
「それで止めた?」
「……ええ」
と桐野は言った。
「資料室で話をした。
先生は最初から私を見下していた。
“執事は執事らしく引き際を覚えるべきだ”と言われた」
「だから殺した」
「衝動ですよ。
本当に衝動だった」
明智院が、そこで妙に得意げな顔をした。
「ほら見たまえ。
第一の殺人は衝動。
だから私は最初から、同一犯の連続殺人は――」
「交差殺人とか言ってましたよね」
と田所。
「そこは静かにしていてください」
サロンの端で、宗一郎が小さく鼻を鳴らした。
笑ったのかもしれない。
「二件目は?」
と澪が震える声で聞いた。
桐野は少しだけ目を閉じた。
「由利さんが気づいたんです」
「何に」
「予備車椅子が動かされていることに。
あの人は宗一郎様の部屋のことなら何でも知っていた。
資料室から戻しておいた車椅子の向きが違うと、すぐわかった」
田所がうなずく。
「そしてあなたが部屋へ来た理由も」
「ええ。
彼女は私を見て、“桐野さん、何をしたんですか”と聞いた。
大きな声ではなかった。
でも、あれはもう黙ってくれる声じゃなかった」
「それで、コードを」
と正臣が低く言う。
「……はい」
澪が、ゆっくりと顔を覆った。
田所刑事は、しばらく黙ってから言った。
「由利さんの爪の中に、黒い繊維が残っていました。
あなたの執事服の袖口と一致するでしょう。
昨日はそこまで調べられませんでしたが、十分です」
桐野は抵抗しなかった。
ただ、静かに宗一郎のほうを向いた。
「あなたが、最初から全部私に任せるつもりなら、こんなことにはならなかった」
宗一郎はしばらく何も言わなかった。
やがて、低く言った。
「その言い方をするから、任せられんのだ」
桐野は、そこで初めてわずかに崩れた。
怒りでも後悔でもなく、長く持ち続けた自負がようやく折れた人の顔だった。
明智院は、不満そうに腕を組んでいた。
「つまり」
と彼は言った。
「盲目の老人は、本当に盲目で、車椅子の老人は本当に歩けなかったわけか」
「そうです」
と田所。
「そこが今回の大事なところです」
「だが、あまりにも定番だった」
と明智院。
「定番は疑うべきだろう」
「疑い方が雑なんですよ、あなたは」
と田所。
「“定番だから逆だ!”で老人を犯人にするな」
「しかし車椅子の痕が」
「予備」
「盲目の目撃者が」
「靴の音」
「密室っぽい部屋が」
「マスターキー」
「……」
明智院は、珍しく長く黙った。
その沈黙のあとで、宗一郎がぽつりと言った。
「探偵くん」
「何だね」
「君は、立ってほしかったのだろう」
明智院は少しだけ目をそらした。
「……少しは」
「たぶん、だいぶね」
と田所が言った。
宗一郎は小さく笑った。
「期待に応えられず、すまんな」
「いや」
と明智院は言った。
「今回は、私が勝手に期待しただけだ」
田所刑事は、桐野の前に立った。
「海が落ち着いたら、本土へ渡ってもらいます。
その前に正式な供述を」
「逃げませんよ」
と桐野は言った。
「逃げる先がありません」
「孤島ですしね」
と田所。
外では、波が少しだけ弱まり始めていた。
夜明けの色が海に薄く混ざる。閉ざされたままの島にも、朝だけは平等に来るらしかった。
明智院は窓辺に立ち、曇ったガラスに指先で触れた。
「最後のピースが見つかったね」
彼は静かに言った。
「今回は何だったんです?」
と田所が聞く。
明智院は答えた。
「“見えない定番”だよ。
私は、盲目の老人と車椅子を見た瞬間に、もう真相を見た気になっていた。
だが見えていたのは、事件じゃない。
私の頭の中の見本帳だった」
「珍しく素直だな」
と田所。
「本格の定番は便利だ」
と明智院は言った。
「だが、便利すぎるものは、人を馬鹿にもする」
「今回は完全に馬鹿にされてましたね」
「痛いところを突くな」
宗一郎は、見えない海のほうへ顔を向けたまま、ぽつりと言った。
「見えない者が、見えているふりを疑われる。
動けない者が、立てると期待される。
ずいぶん勝手なものだ」
「それは……」
と明智院が言いかける。
「まあ、少し面白くもあったがね」
と宗一郎は続けた。
その朝、明智院金四郎の事件ノートにはこう記された。
『孤島の館と立ち上がらない祖父』
犯人はこの中にいた。
だが私は、“そうであってほしい犯人”ばかりを見ていた。
盲目の老人は見えず、車椅子の老人は立たない。
それでも人は、物語の都合で彼らを立たせ、見せようとする。
今回もっとも本格に酔っていたのは、犯人ではなく、私だったのかもしれない。
それを横から読んだ田所刑事は、静かに言った。
「今回はほんとに、“セオリーに殺されかけた探偵”だったな……」




